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魔導物語 約束 第五話



  不快な世界
 
「……」
 シェゾは闇の剣を正面に構えて深呼吸する。
 いや、深呼吸しかできなかった。
 空気はまるでジェルの様に粘着質に変化していた。
 常人では一呼吸しただけで、肺に空気を『詰まらせて』窒息してしまうであろう。
 シェゾは、きわめて交換率の悪い空気から最大限の酸素を取り出し、脳の機能を維持していた。
 彼の不快指数は飽和状態だ。
 これだけの強大な力を持つ者にして、この陰険な攻撃。
 彼は、単独行動でさえあったなら、すでに禁呪(アレイアード)の発動を認めていたかもしれない。それ一つで、古城はおろか湖を含む辺り一帯を灰以下に分解、いや、消滅させられるのだから。
 
 まず、視界…。
 
 シェゾは剣を垂直に構えた。
 これ以上は無いと言うくらいの白い世界に、割れた様な黒い線が走った。
 剣を軸に、シェゾの足下から頭上へと線が延びる。
 剣を振りかぶると、延びた黒い線がその動作に合わせて、ストロボ撮影されたみたいにして無数に白の世界を切り刻んでゆく
 シェゾは、演舞を舞っている様に剣を振る。
 ゆったりとした、そして雄々しい動作は、まばゆい白の世界すら色あせさせる。
「……」
 やがて、シェゾを中心に無数の黒の線が刻まれた。
 シェゾはもう一度大きく振りかぶると、粘着質な空気も無視して剣を振り下ろす。
 同時に、白の世界は無数の紙吹雪が舞い散る様にして崩れ落ちた。
 紙が落ちた先に見えるのは、古城のホール。百人で鬼ごっこをしても尚余裕がありそうなホールだった。
 
 次、呼吸。
 
 シェゾは胸の中の粘土みたいな空気をゆっくりと吐き出す。
 肺が空になると、武術の型の様に両手を交差させて腰をゆっくりと下げた。
 それは、反動に備えた姿勢。
 シェゾは気を練る。
 ぐらりと彼の周囲が揺らいだ。
「!」
 気を放出するシェゾ。
 すると、空気しかないこの部屋だと言うのに、ダムから水を放出した様な鈍重な、水が落ちる轟音が響いた。
 ホールの空気が、その数万立方メートルの空気が、一瞬にして性質を正常に戻した。
「……」
 シェゾは、思いっきり深呼吸する。
 何十分か振りの『空気』だった。
 
 次は…。
 次は、仕掛けた相手だ。
 この凝ったアトラクションの設置主に挨拶する必要がある。
「出て来いよ。まだ、閉園じゃないだろう」
 シェゾは空に向かって呼びかける。願いでも、問いかけでも無い。
 それは命令。
 暫しの沈黙。
 そして、変化。
 整ったばかりの空気が、油の切れたギアの様に軋んだ音を出す。
 その嫌な音には、どこからと言う概念がない。
 部屋に充満する分子全てが擦れあっているとでも言うかの様に、全方向からその音は響いている。
「……」
 耳栓があればよかったな。
 シェゾは、それでも尚、この異常な現象に特に興味を持たなかった。
 彼が目を向けているのは、その根源のみ。
 周りの飾りなどに興味はないのだ。
「覚悟が出来たか?」
 かくして、空間からそれは現れた。
 無色透明なる空気が球状にどす黒く染まり、そのヘドロの様な黒の中から、透き通る様な銀髪が現れた。
「……」
 そして、さらに眩いばかりの白い肌の顔が現れ、その下から闇より尚黒いマント姿が、ぬうっと出でる。
 まるで、これから歌うかの様な荘厳な顔立ちで現れた男。
 閉じられていた瞳が、ごくゆっくりと、億劫そうに開かれる。
 蒼い瞳。
 しかし、血の様な紅い輝きを放つ二つの瞳。
 
 彼は、『シェゾ・ウィグィィ』。
 
 悪魔すら泣いて逃げ出しそうな凄惨、かつ美しい形相の男が、シェゾ・ウィグィィの前に立った。
 この世に二つとあらざる筈の美しきその姿が二つ、姿を並べる。
 ありえない、とばかりに空気は震えた。
 二人の間にある事すら、空気には罪に思えたのだ。
 「まあまあだな」
 シェゾは、むしろつまらなそうに言うと、剣を構え直した。
 もし、この場に彫刻家でも居たならば、その二度とありえない光景に卒倒していたであろうこの風景。
 土や岩でなどそれを表現できるのか? と疑問をもたざるを得ない美の化身二人は、鏡の様に対峙する。
 造って良いと言われたならば、命を投げ出してでも創りあげたい。そんな光景だった。
 だが、当の本人はその様な贅沢な憂いは微塵も考える事は無かった。
 目の前の『シェゾ』を倒す。
 ただそれだけ。
 闇の剣。その切っ先は、迷わず『シェゾ』の眉間を捉えていた。
 そして、『シェゾ』の持つ『闇の剣』の先端も、同じくシェゾの眉間を捉えている。
 
 Symmetry.
 
 この言葉が、この世で初めて実現した瞬間だった。
 だが、その黄金にも等しい貴重なる均衡は、一秒と続かない。
 
 二人の魔人が、動き出す。
 
 
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