魔導物語 闇に生きると言うこと 第二部 第二十話 ここ数日の間に、刃の様にとがった岩が剥き出しの山と、常に鉄砲水の様な勢いで水が流れる谷をいくつ越えただろう。 最後に言葉を発してからどれほどの時間が経ったかは最早問題ではない。 悪魔とて辟易する様な道無き道をシェゾは進み続けていた。 その間に出会う生物は最早全てが発狂していると言って良かった。 これだけ時間が経っている。 それはおかしくない。 だが一つおかしいのは、それらの魔物が何故ここにいるのかと思える様な種類である事だ。 生態系とは言わないが、魔物にも棲む場所はある。 それを無視した出現。 それだけが不可解だった。 まるで、自分が進む道の上に丁寧に配置されているかの様に。 ふと、岩肌の一部が動き出す。それは、岩の様な鱗を持つエイの姿の魔物だった。 数トンはあろうかと言うそれを、シェゾは片手で発動した衝撃魔導一つで砕く。 もはや、興味は無かった。 谷を昇り、開けた大地に出る。 空はもう暗い。 空を見上げると、そこには赤い満月が出ていた。 気付けば、最近は睡眠をとっていない。 いや、睡眠どころか歩みを止めていない。 大変な事だ。 だが、今の自分にとっては好都合。 いつこの病が脳に来るやも知れぬ身ではあるが、今は前に進まねばならない。 それに対して今の体は好都合だ。 何故ここまでして進むのか。 そもサタンに言われたからなどと言う気は毛頭無い。 では何か。 未知の、そして仕組まれた奇病に冒された我が身を治す為か。 それはある。 だが、それを押しのけて今のシェゾを最も突き動かす衝動。 それは怒り。 理由、事の経緯、そんな事はどうでもいい。 天界と魔界のいざこざなど知った事か。 シェゾの目的は一つ。 当事者をぶった斬る。 この一つに尽きる。 それがシェゾの足を前に進める最大の原動力だった。 シェゾはサタンから渡された本をめくる。 虫眼鏡でも無ければただの線にしか見えぬ文字が並んでいる。 シェゾはその文字を歩きながら読み解き、二日後の夜にひときわ大きな山脈の頂上にあるカルデラ湖へとたどり着いた。 標高は四千メートルを超えている。 照りつける太陽は暑いが、吹く風は肌を冷たくなぜる。 草木もまばらな、緩やかな斜面が視界を覆い尽くし、ともすれば平衡感覚を狂わせそうな奇妙な傾斜の地面が続いている。 風の音以外には何もない。 モンスターも魔物も、人間も悪魔も。 目の前に広がるのは空を映し出す湖。 風があるにもかかわらず、透明度の高いそれは小石を投げるのも躊躇う程に美しく、そして静かだった。 しばし自然の美を堪能する、と行きたいところだが。 不意に、風が止まった。 水面がいよいよ磨き抜いた銀盤の様に静まりかえり寸分の狂い無く空を映し出す。そして今度は直径で四キロメートルを超える湖面の中央から一つ、ちいさな波紋が生まれた。 波紋は消えることなくじわじわと湖の端まで流れ着き、続けて二つ三つと同じ場所から後を追って波紋が生まれる。 波紋の間隔が狭まり、それはさざ波となり、やがて波となった。 ひときわ大きな波が湖の中央から生まれたと思ったその時、波紋の生まれていた中心から巨大な物体が飛び出す。 鱗に包まれたその顔は、それだけで鯨より大きいかと思われる程の大きさ。 そしてその顔が天を仰いで水面から突き出し、体がそれを追う。 水に棲む竜、サーペントだ。 だがその大きさは、結構色々な物や話を見聞きしてきたシェゾを持ってしても初めて見るサイズだった。 巨大な頭は既に水面から五十メートル近くあがっている。 なのに青白い鱗に覆われた体はまだ水面からぐんぐんと伸び続けていた。 よく見ると、小さめだが両の腕も確認できる。 通常、自分の知識で知る限りはサーペントの部類に手足はない。 「新種か。…例の奴のせいかね」 シェゾは冷静にその光景を眺めて呟いた。 胴体の長さが百メートルを越えた時、ようやく尾びれが水面から飛び出す。 同時に、サーペントは上空からシェゾ目がけてその巨体を錐揉みで落下させてきた。 「奴らの仕業に決まっているか」 サーペントの体が光り、体の各所から青白い雷が発生し、それは糸で繋がっているかの様に全てがシェゾに向かって落ちる。 シェゾは脳がそれを理解する前に、反射神経のみでバリアを張る。 それとほぼ同時に、落雷が八つ落ちた。 バリアは白く光り、最後の八つ目が当たった瞬間、負荷に耐えきれず破裂する。 シェゾは周囲の地面ごと衝撃で吹き飛ばされる。 だが、シェゾ自身は無傷だった。空中で体制を立て直しつつ両手を合わせ、サーペントに向かって赤黒い光線を撃つ。 元より光速に近い速度を避けられる道理はなく、それは直撃する。 だが、その体に当たった光線はまるでガラスに光を反射させる様にそれをはじき返し、光線は霧散した。 とっさの攻撃だが稚拙な力は使っていない。 シェゾは敵の強さを知る。 隕石の様にサーペントの頭が突っ込む。 シェゾは石つぶてを避ける為に再び瞬間的にバリアを発生させると、頭の直撃を避ける為に体を後退させる。 かくしてサーペントの頭はたった今までシェゾが経っていた場所に激突する。 土煙が爆散し、バリアに当たった石が鈍い光を放って弾けた。 次の瞬間、シェゾは闇の剣を居合いの様に瞬間的に出現、抜刀し、そのまま剣をサーペントの首に突き刺した。 そこらのなまくら刀など、弾くどころか飴の様に折ってしまう程の硬度を誇るサーペントの鱗が、それこそ焦がしたカラメルの様にあっさりと割れ、透明な刃はそのまま、豆腐に針が刺さるかごとく、ずぶずぶと根本まで突き刺さる。 剣戟は有効らしい。 「むんっ!」 シェゾは歯を食いしばり、突き刺さった刃を天に向かって振り上げる。 鋼より堅い鱗が、まるでブリュレの表面をスプーンで割るかの如く破壊されてゆく。 その奥から吹き出すはカスタードではなく鮮血と肉片。 二メートル程も皮膚を切り裂き、闇の剣は血のブリュレを割り終えた。 サーペントは大木が裂ける様な悲鳴を上げて飛び上がった。 土煙と血しぶきが降り注ぐ中、シェゾは敵とは正反対の方向に跳ぶ。 同時に、シェゾが立っていた位置に巨大な銀色の槍が突き刺さる。 跳んだ先は湖面。 だが、シェゾは水面の上に事も無げに立つと、その槍をちらりと横目で見た。 まるで、スギの木を引き抜いて槍に改造したかの様な大きさ。 槍の上を見ると、そこには誰かが立っていた。 「ここは立ち入り禁止だ。消えろ」 シェゾは点から振ってくる声を聞いて眉をひそめた。 「お前、魔界の奴じゃ無いな」 薄青いローブ。 顔は日差しに遮られて見えないが、割と年を食っているだろう。 「関係ない。この地に来る辺り、雑魚でこそ無いようだ。我が竜にこうも簡単に傷を付ける事からもそれは解る」 サーペントは、首から血を流しながら宙に浮き、赤く光る瞳でシェゾを睨み付けていた。 強い不快感がシェゾを襲う。 理由は分からない。 サーペントの怒りが体にまとわりついているのかも知れない。 それとも、先程から体の芯が本当に火でも燃えているかの様に熱いからかも知れない。 そしてそれがスティールマナのせいかもしれない。 実際は解らない。 だがこれだけは解る。 奴は、この現象に関係している。 シェゾは水面を蹴って跳んだ。 巨大な槍が一瞬で男の手に収まる大きさに変わり、落下と同時に男の手に収まる。 腕を動かすそぶりも見せずに槍がシェゾの脳天に向かって振り下ろされる。 シェゾは闇の剣を天にかざし、片腕でそれを受け止め、更にその槍をそのままはじき返す。 前に進んでいた衝撃がそのまま男の顔に向かって跳ね返り、鞭の様に撓いつつ顔面に迫る。 手を滑り抜け、敵と化した槍を男は寸でで交わす。 男はたまらず姿勢を崩し、登場時の神々しい姿からは想像も出来ぬ無様な格好で尻餅をついた。 槍は未だ宙を舞っている。 信じられぬ現実に驚き、男は目を剥く。 だが、その視界には既にクリスタルの剣が迫っている。 男はなりふり構わず体を転がし、その刃から逃れた。 それを追う様に刃が方向を変え、まるで刃が男に吸い寄せられるように近づく。 男が蒼白となるその時、鋼のカーテンの様なサーペントの尾がシェゾの頭上から襲いかかる。 シェゾは刃を戻し、横っ飛びで尾の強打から逃れる。 「貴様!」 男の顔が怒りに震えた。 宙の槍が折れた様に軌道を変え、男の手に戻る。 「この私に土を付けるなど、一体どのような卑怯な手を使った!?」 「てめぇが言うな!」 シェゾは男に向かって刃を向け、弾ける様にその身を跳ばした。 対してサーペントが再び襲いかかる。 シェゾは光線が駄目なら、とその手から象をも骨ごと真っ二つに出来る真空波を放つ。 普段から強力な力だが、今の自分はスティールマナの力で数倍どころではない力を得ている筈。 これなら、と思った。 だが、その真空波はまたもや体にぶつかった瞬間、透明なガラスとなって砕け散る。 どういうマジックコーティングだ。 野郎、と悪態を付く間もなく、シェゾの眼前にサーペントの右腕の爪が襲いかかる。 シェゾは体を貫こうと飛来する爪に垂直に剣を合わせる。 「せぁっ!」 気を籠めた刃が青く光り、岩より堅い爪が 指ごと斬り落とされる。 視線を男に戻した時、そこに男は居ない。 脳天に危険信号が走る。 シェゾは体をひねり空を見る。 今その瞬間、シェゾの目の前まで槍が迫っていた。 更に体をひねり、天から降る様に襲い来た槍の軌道から身を反らす。 脇腹に僅か、熱い痛みが走る。 地に足をつけた男はそのままのスピードと強靱な振りでシェゾの頭、腹へと槍を突き出し続ける。 刃を払いのけようとした時、再びサーペントの腕が動いた。無傷の左腕が唸る。 槍と爪、どちらを避け、どちらを斬るかの判断にほんの一瞬の迷いがあった。 その迷いは致命的となり、サーペントの爪が闇の剣を弾きとばした。 シェゾは後ろ向きのまま更に地面を蹴り、その肩や腕を槍が掠る。 更に、よりによって今この時、最も恐れていた事態が発生する。 シェゾの頭に割れんばかりの痛みが走る。 脳に釘を突き刺したかと思う程の熱く、息が止まりそうな痛み。 体に痺れる様な痛みが走り、視界が波打ちながら眩む。 神経が情報伝達にとまどい、足下の感覚が綿の様に不安定になる。 シェゾの不意の変化を読み取った男は、ここぞとばかりに槍の速度を速めた。 怒声の様な息吹と共に槍が文字通り伸び、シェゾの左腿を貫く。 かすり傷ならまだしも、これ程の損傷は流石にスティールマナに犯され痛覚の鈍った体といえど、無視という訳にはいかない。 シェゾの体は痛みとバランスの崩れから、もんどり打って地面を転がる。 先程の屈辱を返した、とばかりに男の顔が狂喜にゆがむ。 対照的にシェゾの表情は静かだった。 スティールマナの影響かも知れない。 一流の剣士として、この状況は万事休すと悟ったからかも知れない。 次の突きで、奴の穂先は完全に自分の急所を貫く。 ここまでか。 頭には意外な程何も浮かばなかった。 ただ、己の死のビジョンだけが鮮明に映っていた。 それが現実になりかけた時。 「シェゾぉっっ!」 絶対的に何者も入り込む隙はなかった。 それ故、両者に動揺が生まれる。 慢心が隙に差を生む。男の隙をシェゾは見逃さず、今一度足を踏ん張り、男の鳩尾を力任せに蹴り付けた。 男は予期せぬ反撃をまともに喰らい、仰け反る様に吹き飛ぶ。シェゾはその反動を利用して再び跳ぶと、宙を一回転しながら闇の剣をその手に呼び戻す。 地面にシェゾの足が着いた時、男はサーペントを壁として腰を抜かしていた。 よほど予想外だったのだろう。 シェゾは一瞥してから、自分を呼んだ声の主を探した。 「シェゾ!」 遙か遠くの丘の上に、見覚えのある女が立っていた。 薄桃色の長髪。 やや浅黒い肌。 そのエメラルドグリーンの瞳。 あの時はぐれたメロウ、キャナだ。 服は汚れ、その表情は恐怖に怯えきっている。 だが、自分を見るその瞳は揺らぎのない意志を見て取れた。 互いの瞳が互いの瞳を見詰めていた。 シェゾは驚いた様子もなく見詰め続けるが、やがてほんの少しだけ口元をゆるめた。 「生きていたか」 自分の体の中から何かが剥がれ落ちた。 それはほんのわずかのものだろう。 だが、体が軽くなるのを感じた。 「おのれぇぇっ!」 男が再び襲いかかる。 サーペントを頭上から襲わせ、同時に男がシェゾの真正面から槍を構えて弾丸の様に飛ぶ。 対して、シェゾは垂直に飛んだ。 その先には大口を開いて待ちかまえるサーペント。 その体はそのまま口の中に消える。 恐怖で狂ったか。 男がそれを見て醜く笑う。 だが、突如サーペントの頭部が轟音と共に爆散する。 勝ち誇っていた男は、血と肉片にまみれた。 その表情は再び青ざめている。 「馬鹿な! 馬鹿な! 馬鹿な! エリヴァガルがっ! 多少の魔導などでっ!」 サーペントはその名をエリヴァガルと言うらしい。 男は両手を上げて肉片と血を浴び続けた。 やがて、エリヴァガルの巨体がゆっくりと倒れる。 まるで、大木が朽ち果てたかの様に。 そして、首の根本からシェゾがはい出す。 喉の中に居たというのに、その体は驚く程汚れていない。 血も、粘液も浴びては居なかった。 「やっぱり、内部じゃ魔導を拡散しきれないな」 やれやれ、と深呼吸しながら、シェゾは左手を水平に挙げる。 少し離れた地面から何かが光り、天に向かって飛び上がり、そしてシェゾの手に収まった。 闇の剣。 それは主の手に戻る。 「貴様の、貴様の様な雑魚の魔導などでっ!」 男は泡を食いながらわめく」 「俺を雑魚って言ったか?」 シェゾはむしろにやりと笑いながら歩き始める。 「悪魔などに、この私がぁっ!」 男は走る。 「どこまで俺を怒らせるんだぁ?」 シェゾも走った。 槍がシェゾの眉間をとらえる。 脳を突き通した。 男はそう思った。 だが、シェゾの像は消え、穂先が空を切った事を知る。 驚き、息を吸おうとした。 だが、出来ない。 胸に、闇の剣が後ろから突き刺さっていたからだ。 男は現実の体の痛みが信じられぬ、と槍を放り出し、闇の剣を掴もうとする。 だが、刃にさわった指は何の抵抗もなくそのままぼろぼろと切れ落ち、吹き出した血は男の体を更に赤く染めた。 男はますます信じまい、と指の無くなった両手を掲げた。 天に向かい何かを叫ぼうとするが、突如恐ろしげに目を見開き、そして改めて叫ぶ。 「この、青の竜騎士が負けるなどぉっ!」 血泡と共に絶叫が響く。 闇の剣はドラキュラの胸に穿った杭の様にその刃を食い込ませていた。 断続的な体の痙攣が手に伝わる。 自らを青の竜騎士と呼んだ男の目が飛び出そうな程に見開かれ、口からは声にならない悲鳴が響く。 「死ぬ前に、ちょっと協力しろ」 シェゾは剣を突き立たせたまま、男の後頭部を右手で鷲掴みにする。 ほんの数秒の後。 「そうか…」 つぶやき、シェゾは刃に力を込める。 途端、男の体が火薬の様に急激に燃え上がる。 炎と言うよりも眩いばかりの白い光。それは、その体からまるで太陽が出現したかの様だった シェゾはその体を離す。 次の瞬間、白い光に包まれたその体が爆散した。 倒れていた瀕死のサーペントの首が、少しだけ動いて上を向く。 頭があれば主の方向を見ていたであろうそれは、最後にその体を震わせて、とうとう息絶える。 頭を失っても尚、主を気にかけたか。 シェゾはそれを見て、何とも言えない表情で振り向いた。 「……」 視線の先にはキャナがいる。 改めて想像を絶する闘いを見た彼女はもう一度失神しかけたまま、しかし必死にシェゾを見つめ続ける。 「生きていたか」 「うん…」 その一言を残してキャナは倒れる。 別に急ぎはしなかったが、大きな歩幅でキャナに近づき、気を失っただけと確認してから、シェゾは大きく深呼吸する。 誰か知らんが、助けてくれたか。 風が空気を流す。いつもと同じ空気だ。 だが、今の彼にはまるで久しぶりに呼吸をしたかの様な心地よさがあった。 青の騎士が倒れた。 その訃報が天界に届くのはそれから間もなくの事だった。 |