魔導物語 闇に生きると言うこと 第二部 第十九話 光の中を進み、それが不意に様々な色の世界に変わる。 それはやがて空や地面、建物に姿を変えていった。 かすかなめまい。 ラグナスは頭を振って深呼吸した。 今、彼の目の前に広がる世界。 それは天界。 だが、久しく天界に足を踏み入れていなかったラグナスは、その騒々しさに何事かと目を見張る。 転移場所である東屋の様な建物は高台にあり、そこから下方の広場には普段の天界の人々からは想像出来ない慌ただしさが、見て取れた。 普通の天使、鎧を纏った戦闘天使、数は少ないが翼を持たぬ人も同じように忙しく動き回っている。 「一体何の騒ぎですか?」 時の女神はこちらへ、と人目を避けるようにしてラグナスをとある建物へと誘う。 「今、天界はアーマゲドンを発動しかねない状況といえます」 「えっ!?」 ラグナスはあまりに予想外の返答に声をひっくり返す。 木の椅子が大理石の床に倒れ、音が響いた。 小さな宮殿の様な建物。 三階建ての石造りの建物の最上階にあるホールの様な場所で、二人は机を挟んで座っていた。 「あ、いや、そ、それはどういう意味です?」 慌てて咳払いし、努めて平静に問いかける。 驚いて立ち上がった時に倒れた椅子を元に戻し、座り直す。 最も、アーマゲドンなどと言われては流石に落ち着いていられる道理はない。 ラグナスの額には玉の汗がにじんでいた。 「今回の件、天界に非がある様なのです」 「え?」 一体、今日は何度驚けば良いのだろう。 「この天界から生み出されたかも知れないのです。あのスティールマナと呼ばれるウィルスは」 「何ですって?」 「今天界は冷静に現状を見守り、場合によっては魔界と協力してでも事態の打開を図ろうとしている穏健派と、対してこれを機に魔界に戦争を仕掛けようとしている過激派に大きく分かれ、今は過激派の一派が大きく躍進しつつあります。主にスティールマナが蔓延しつつあるのは魔界。今ならばその戦力は大きく混乱している、と」 「そんな乱暴な! スティールマナは一時的とは言え力を強めるのでしょう?」 「そうです。そして一定期間を過ぎた後、体内に癌の様に広がったスティールマナは逆に毒素となり、肉体的、精神的両面から宿主を滅ぼします」 「ならば、治療方法が見つかりでもしなければ放っておいた方がいいでしょう?」 「ですが、どうやら予想外の変異が起きた様なのです」 「予想外?」 「確信はありませんが、この事件の裏に潜む人物の狙いは魔界が危険な魔導兵器を開発し、それを人間界でテストしていたが、何らかの間違いで魔界でも広がった。それが天界にも広がろうとしている。そして、それを大儀として魔界を討つ。と考えています」 「…過激派の中に、スティールマナ自体を造った連中が居る、と」 時の女神は頷く。 「その証拠はまだありません。ですから、にらみ合いから先に進めないのです。そして、スティールマナをウィルス例えての噺ですが、ウィルスは自らの構造を変化させるものです。それが様々な変種を生み、ワクチンや対処方法を難解なものにします」 ラグナスは頷く。 そして、はっとして続けた」 「まさか、自分たちが作ったスティールマナに、予想外の変異が現れた。それが、まずい方向に流れ始めている、と?」 時の女神は頷く。 「人間界にテストとして撒かれたスティールマナが変異を起こしました。それは、本来一定の潜伏期間をおいて発病、暴走、そして宿主の死へと必ず繋がる筈の流れを変えるものでした」 「…それは、どの辺りの流れがですか?」 「幾つかありますが、最も重要な変異として、必ず死亡する筈だったそれが、何パーセントかの確率で死病では無くなったのです」 「それは、いい事ですよね?」 「いい事でしょう。ですが、首謀者に言わせればそれは困ります。撒いてしまえば、放っておけば死に至る病を撒いた筈が、何パーセントかとはいえ死せる病では無くなってしまうのですから。しかもこのまま変異が続けばもしかしたら死病の恐れは更に薄まり、下手をすれば能力を高めたままにしてしまいかねません」 「…強力な力を保ったまま、生き続ける事が出来ると。確かに、それは首謀者にとってはたまったものじゃありませんね。殲滅させようとしていた連中をパワーアップさせた、じゃ笑い話にもならない」 「今、それが起こりつつあるのです」 「そう言う症状が起き始めていると」 時の女神は頷く。 「そうです。今はまだそのような都合の良い変異には至っていませんがその兆候が見られる患者が実際に発生しています。その為、首謀者は焦り、それを分析しようとしつつ事を急いでいるのです」 「疑いがある、と言う事でその騒ぎを一時でも収める事は出来ないのですか?」 「この情報は一部の情報とあとは憶測による推測に過ぎません。事実とすれば一刻の猶予もないのは確かであり、しかも魔界でもその情報を裏付けるかの様な動きはまだ見られない為、誰もその動きを止める事が出来ないのです。もしも本当に魔界が危険な魔導兵器を撒いて天界を滅ぼそうとしているのであれば、誰もそれを止める事は出来ません。天の父ですらそれは無理です」 「魔界も動いて? 確かに一時、俺も魔界に行き、この目で見て来ました。あいつ、マルコキアスもこの事態を憂いていた…。その魔界にも、動きが? 天界に攻め込もうと?」 「この機に乗じているのか、他に裏があるのかはまだ分かりません。一部の悪魔とは非常事態という事で協力体制も結んでいます。ですが、まだこの事態を動かす程の情報はありません」 「魔界も、混乱しているという訳ですね」 ラグナスは魔界の惨状を思い出す。そして、マルコキアスのあの悔しそうな顔も。 …お前が、頼りの様だぞ。 ラグナスは真っ黒な男の顔を思い浮かべる。 「しかし、ここまでは分かりましたが、俺をここへ呼んだ訳はなんですか? 今のところ、俺に出来る事は…」 最近はむしろ、天界とは疎遠の自分である。 天界を自由に動ける訳でもない。 自分にとっては逆に足かせの多い土地と言って良い天界に何の用が、とラグナスは首をひねる。 「大変な役目があります。実は最近、首謀者の元に、変異が起きている証拠となる実際のデータが手に入ったらしいのです」 「データ?」 「検体を手に入れたのです」 「そいつら、悪魔を天界に連れてきたんですか?」 検体という事は体を手に入れたという事。大胆な、とラグナスは目を丸くする。 本来、天界の者が魔界に行くのを不浄と嫌う様に、そもそもその不浄の世界に住む存在を天界に入れるなど、自分が知る限りでは聞いた事がない。 だが。 「悪魔ではありません」 時の女神は絞る様な声で、うつむきながら呟く。 「え?」 「まだ、彼女たちが何処にいるかは分かっていませんが、ここのどこかにいる事は確かです。本当に、よりによって…」 ああ、と時の女神は顔を押さえる。 「悪魔じゃない、天界の人間の訳はない…。すると、人間ですか?」 時の女神は頷いた。 「彼女達って言いましたよね。最低二人って事ですか? 誰です?」 「…もしも彼女に何かあったら、多分彼は天界に対して一人でもアーマゲドン並の殴り込みを仕掛けるかもしれません。そうとは言わなくても、何か理由をつけて、いえ、理由などつけなくてもそうするでしょう。それだけは避けたいのです。あの二人だけは、なんとしても無傷で、治療を施して返さねばなりません。今の問題は、首謀者探しより何より、とにかくそれが最優先事項なのです」 「…女神、何か非常に嫌な予感がするんですが?」 ラグナスは今以上の悪い状況がまだあるらしい、と確信に似た予感に頭痛を覚える。 そして次に女神が口を開いた時、それは全て現実となりそうなのが恐ろしかった。 「亜麻色の髪と、金の髪の少女です」 「…天界の人々ってのは、もう少し頭いいと思っていましたよ」 思わず悪態が出る。 「あの阿呆をいっちばん怒らせる様な真似をなんでするかなぁっ!」 髪をかきむしりながら、ラグナスは堪らず怒鳴り声を出す。 これ以上爆弾を増やされては堪らないのだ。 「お恥ずかしい限りです」 時の女神が神らしからぬ神妙な表情で萎縮する。 「あ…い、いえ、すいません! 俺、なんて事を!」 ラグナスが我に返り、慌てて詫びる。 「いいえ、本当の事です。私達天界の者は他の世界を知らなすぎるのです。それは全て、天界以外を見下している傲慢な者が多いからでしょう」 「今、すごい発言しましたよ?」 「…あ、いけませんね、こんな気分になっては…ただ、彼らの行動を見ているとつい…」 深いため息は時の女神の気の重さを表していた。仲間を心底情けないと思う。それがどれだけつらい事なのか。 ラグナスは自分の軽率な発言も恥じた。 「そ、それで時の女神、彼女達がここにと言う事は、二人とも発症しているという事ですよね? 大丈夫なんですか? 万万が一、なんて事になったら、それこそあいつ破壊神になりかねません。あ、いや、奴一人で天界をどうにか、なんて言いませんが、ダメージはとにかくかならず被ります!」 どちらの味方なのかもう、ラグナスの頭もめちゃくちゃだった。 二人の知り合いが天界に拉致され、検体にされようとしている。しかもその知り合いはあいつの…である。 なぜこうも自爆したいかの様な行動ばかりするのか。 ラグナスは理解できず、言葉を繰り返す。 「私もそう思います。そして、そのダメージに乗じて魔界が…と言う可能性もあります。なにしろ今魔界と天界は全面的ではないにせよ一触即発と言っていい状態です。今頃、魔界各地でも今回の異常事態はどこのしわざか、と取り出さされ始めているでしょうし」 「しかも、スティールマナがこっちに牙を剥いた日には…」 「だから、事を急いでいる様なのです。もしかしたら、スティールマナをこちらでも利用しようとしているのかも知れません」 「自分が撒いた毒を自分達で?」 「最初は毒でしたが、変異したとなれば話は別なのでしょう。利になりさえすれば使うのでしょうね」 なんて醜い話だ。 ラグナスは眉をひそめる。 「あ、あの、それでアルル達をどうやって探すんですか? 表立っては行動できないかも知れませんが、検体として浚ったって事はそのまま放っては置かないでしょう? 今すぐにでも助け出さないと…」 「おそらくは…もう少し、もう少し待てば向こうの方から動きを見せる筈です。その時が、最初で最後のチャンスとなるでしょう」 「本当に、動くんですか? 失礼ですが、その予想が外れたら、最悪の事態になるかも知れないんですよ? いや、だから天界がどうにか、とかそんな事は言いませんが…」 「言いたい事は解ります。今は、私を信じて待って下さい。その時が来たならば、剣を抜く事も一向に構いません」 「!」 天界で剣を抜かせる。 人間にそれをやらせても構わないと考えている。 それほどの覚悟があると言うのか。 ラグナスは時の女神の真剣さ、悪く言えば後の無さを感じる。 「今、私の目に見える未来は間違いでなければならないのです」 「間違った、未来ですか」 「人は間違いを犯すと言いますが、人でも天界でも魔界でも、どこでも同じです。間違いを犯そうとしているならば、誰であろうと正さなければなりません」 「はい」 「どうか、今暫くは息を潜めて下さい。必ず、必ずその時は来ます。しかも、もうすぐに…」 ラグナスは真剣な瞳で言葉を紡ぐ時の女神を見つめ続けた。 時間が、一秒一秒の経過がこれ程長く感じるとは。 空気が重い。 ラグナスは絞り出す様にため息をついた。 意志のある炎。 聞くからに厄介そうだが、実際相手にしてみてここまで厄介だとは流石にマルコキアスも思わなかった。 時に炎そのものとなり、時に人型を取り、それは正に変幻自在な姿でマルコキアスに襲いかかっていた。 対して自分がはき出す炎は、まるで壁に水をかけたかの様に当たれば弾け散り、そのくせあちらの撃つ炎は体の横を通り過ぎるだけで皮膚に火傷を起こす。 炎の攻撃を得意とするマルコキアスが炎に手こずる。 何とも忌々しい状況だった。 炎の鞭とも呼べる程にすさまじい勢いで撓いながら、燃えさかる大蛇が赤黒い口を開けてマルコキアスに襲いかかる。 馬鹿みたいに蛇の舌が伸び、一本残っていたマルコキアスの腕に絡みついた。 その経験はないが、溶岩に腕を突っ込んだらこんなものだろうか。 そんな激痛が腕を走り、脳を切り裂く。 悲鳴に近い遠吠えが響く。 炎の蛇は血の様に赤い瞳をにたりとゆがめる。 流石に両膝を付いたマルコキアスに、蛇はゆっくりと近づいて一飲みにしようとその口を広げる。 かろうじて頭を上げたマルコキアスは、今も炎の舌が絡み続け、焼けこげ、最早痛みが麻痺している腕をちらりと見るだけで体を動かせない。 魔王をここまで圧倒する奴か…。 マルコキアスはこんなところか、と気を失いかける。 燃えさかる口は近づくだけで熱風が肌を焦がす。 あと二メートルまでその口が近づいたその時、大蛇の横っ面を蒼い光線がぶん殴った。 炎の舌はちぎれ、顔を半分も吹き飛ばされた蛇が豪快に転がる。 体の転がった地面は僅かな草木も見逃さずに燃え上がり、周囲は蛇の転がった形に野火が広がる。 気を失いかけていたマルコキアスは横殴りの衝撃と炎から逃れた事で意識を取り戻す。 マルコキアスは光が飛来した方向を見る。 視線の先百メートル程の場所に、一人の小さな影が立っていた。 それは少年。 すっぽりと体を覆い隠したローブ姿からそうだろうとしか推測できないが、その大きさから見て、多分少年だった。 誰だ、と言いたかったが喉が熱でひっつき上手く声を出せない。 代わりにもんどり打って転がった炎の大蛇の方がばねの様に飛び上がり、半分落ちた顔をみるみる炎のパテで修復すると、憂さ晴らしの様に怒りの声を上げる。 「しっかりしろ。黄金の炎狼であろうが、お前は」 岩をすりあわせた様な声だ。 「その…声…」 血を吐きながらマルコキアスが呟く。 「どうせ、助けに来るなら…とっとと来やがれ…」 「すまんな。野暮用があった」 少年の姿だった男はその声と共にローブを捨て、先程までの身長から一気に三倍以上の長身へと変わる。 ローブが風に飛ぶ。 そこには、岩で造られた様な彫りの深い顔立ちの男がそこに立っていた。 彼の者の名はアガリアレプト。 魔界の七十二人の魔王の中でもトップクラスの魔王だった。 その姿を見た大蛇は一転逃走の姿勢をとる。 アガリアレプトは両手を広げてその中に大蛇を納める。 その指がゆっくりと鷲掴みに閉じられると、実際は百メートル近くも離れた場所にいる大蛇が、その巨体を拉げさせて苦しみだす。 アガリアレプトはちらりとマルコキアスを見る。 「何をしている。捕まえておくのも割と面倒なのだ」 わあったよ、とマルコキアスは背を伸ばす。 全身血まみれだというのに、凄惨さよりもその肉体の逞しさが前に出る。 片腕のままファイティングポーズをとり、一つ、二つとおおきく深呼吸すると、その体からじわりと湯気の様な気が沸き立つ。 異様な気を感じ取った大蛇は更にもがくが、どうにも体が動かない。炎を吐こうとしてもその喉は鎖で締め上げられているかの様に苦しく、唾一つ出せなかった。 マルコキアスはぐいっと腰を落とし、雄々しき咆哮と共にその体を疾走させる。 次の瞬間、大蛇のすぐ下まで到達した闘神はその頭に向かって垂直に跳び、己の気を全て注ぎ込んだ拳を大蛇の鎌首にぶつける。 先程まであれほどに苦戦していた大蛇の頭が水風船の様にはじけ飛び、水の代わりに残った胴体から溶岩の様な体液が吹き出す。 炎の柱の様だった胴体がじわじわと赤黒く温度を下げ、流動的だったそれは岩の様な色に変化する。 そしてそれは無数の罅を生み出し、応力に耐えられなくなった部分からばっくりと割れ、そして崩壊しつつ地面に落ちた。 つい先程まで熱波に晒されていた空気が急速に温度を下げ始め、マルコキアスは両膝を地面に落としつつも、ようやく呼吸らしい呼吸をする事が出来た。 「中々見事だ」 この死闘を見て尚、アガリアレプトは大道芸でも見たかの様な簡単な賛辞を呟くのみ。 最も、マルコキアスも褒められる事など期待していないらしい。 「借りか?」 「そうだな」 何とも味気ない感謝の言葉のみでこの死闘は終わった。 「ところで、野暮用って何だ?」 「奴の気付け薬を拾ってきた。流石に限界が近づいているらしいのでな」 アガリアレプトは自分が最初に現れた遙か向こうの地面をあごで指す。 マルコキアスがそこを見ると、一人の女がぐったりと体を丸めて横たわっていた。 それは薄い桃色をした、長い髪の女。 軽装のそれはところどころ布が裂け、土で色が変わっている。 「どこで拾ってきた?」 「本当は捨て置いても良かったが、奴のテンションが下がると困るのでな」 「あれが何か、お前は知っているのか」 「まぁな」 「…で、奴の気付け薬はあんなもんでいいのか?」 「あれが意外に効くのだぞ」 二人の魔王は、気を失ったままの一人の女を見て、何とも失礼な会話を綴った。 「また一人、意識が消えた」 白い部屋。 十数人の天使長が並ぶ石のテーブルに小さく声が響いた。 それを皮切りに、周囲からはざわめきが生まれ出す。 「またか?」 「これで魔界に送り込んでいた斥候は残り一人だぞ」 「奴らに関しては魔界の連中を責める訳にいかんのだ。そもそも居ないはずの存在なのだぞ! これでは、あの方も危ない!」 「それだけではない。こうも作戦が失敗しては、我々とて!」 それぞれの言葉が飛び交う。 「待たれよ。我らが主は全てを見越して行動している。だからこそ、今主はその身を忌まわしき大地に自ら晒しておられる」 「た、確かに…」 「主を守る騎士は倒れぬ。戦闘天使長に匹敵する力を持っているのだ。魔界の外道になど負ける訳がないのだ」 「報告します!」 一人の天使が泡を食って部屋に入る。 「青の竜騎士が倒れました!」 青の騎士が倒れた。 議場の中央に立っていた天使をはじめとした全ての天使から、顔の血の気が引いた。 |