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魔導物語 闇に生きると言うこと 第二部  第十七話



 拳を打ち付けた地面に、石が埋まっていた。
 拳に感じた感触からそれは間違いない。
 だが、その感覚が異常だ。
 痛みより、撫でられた様な奇妙な心地よさを感じた。
 それは、今までに味わった事のない感覚だった。
 第一、先程吹き飛ばされた時は、肋骨が折れてもおかしくない衝撃だったと言うのに、痛みを感じていない。
 いや、それどころか、拳と同じ様にむず痒さを伴う気持ちよさを感じる。
 そして傷を負った箇所は事実無傷だった。
「めちゃくちゃやばくないか…?」
 シェゾは空を見上げて考える。

『その病に冒された者は、まず異常な力の覚醒の後、痛みに対する感覚を麻痺させるそうですねぇ。

 頭の中では、ルーンの言葉が延々と頭の中で繰り返されていた。
「ち」
 これでもかと言うほどに症状が出ている。
「……」
 まぁ、まだいいだろう。
 それならそれで利用すると言う手もある。
 シェゾは先ほどの焦りも忘れたと言う風に、再び歩き出した。
 …悪いな。
 頭の中で軽く謝り、シェゾは歩く。
 前へ向かって。

「申し上げます!」
 天界。
 一人の衛兵が巨大な建物の一室に飛び込んできた。
「奇病が、悪魔めの病が天界で確認されました!」
「まことか!」
 巨大な、テーブルと言うには大きすぎるそれに着いていた百名近いと思われる天使達が口々に声を上げる。
「悪魔め! どこまで醜い手を!」
「許せぬ! 我らをどこまで愚弄する気だ!」
「天使大隊長! ご決断を!」
 戦闘天使と呼ばれる天使達が口々に怒りの声を上げる。
 彼らを統べる存在たる大隊長天使は、後光にその表情を遮らせつつも、止まぬ怒声に眉間にしわを寄せているのが見て取れた。
 ここは、来るべきアーマゲドンに備え、魔界との戦いに備えてその身を鍛える、所謂エンジェルコマンドの隊長を集めた集会場だった。
「お待ちを」
 小さく、しかし凛とした声が多数の怒声を押しのけて響いた。
 天使達は息をのみ、まるで人形のように佇まいを正して着席する。
「時の女神。このようなところへ出張るとはいかがされた?」
 戦闘天使隊の大隊長がかろうじて冷静な口調で問う。
 だが声の先には、いや、そもそもどこから声が聞こえているのかすら分からなかった。
 ただ一つ先ほどまでと違うのは、天井の巨大な吹き抜けの先から漏れる眩い光のみ。
 戦闘天使達は皆が作り物のように正しい姿勢で片手を胸の前に置き、天窓から除く光に傅いていた。
 天使とはいえ、女神レベルの存在は味方ながらも尚畏怖に近い存在らしい。
 中でも若い戦闘天使など、まるで魔王と向かい合ってでもいるかのように脂汗を流している者すら居るのだから。
「天界と魔界。今何が起きているかは理解しています。ですが、双方が解決策を探している最中に、天界と魔界の争いを起こす事はなりません」
 その時、一人の戦闘天使が椅子から滑るように腰を下げ、床に片膝を着いて大隊長に頭を垂れた。
「大隊長。女神へ直答のお許しを」
 大隊長は女神を見る。
 時の女神は勿論、と頷く。
「許す。申せ」
「は」
 片膝をついた戦闘天使は天井の吹き抜けに向けて顔を上げ、女神へものを申す。
「時の女神様。直答の無礼をお許し下さい。争いなどするべきではない。それは確かにその通りであり、我らも戦闘天使と呼ばれる存在ながら、その役目が無い事が最も素晴らしい事なのだと心得ております。ですが、此度の事、人間の住む地上はおろか、我らが住まう天界にも事実、被害が及んでおります」
「そうですね」
 光がわずかにかげる。
 悲しんでいると言うのだろうか。
 その、僅かな心の揺らぎによって変わる光の波動は、その場にいる全員に突き刺さる。
「…我らは、争いの為に争うのではなく、神なる父上の喜びの為に、平和を何より愛する父の為に戦うのです」
「よく知っています」
「狡猾な悪魔の行動に理性、理由などありましょうや? 混沌を好み、堕落を何よりの甘露と喜ぶ連中に、何の知性、道徳がありましょうや? そのような連中に…」
「そこまで!」
 声を遮ったのは大隊長だった。
「悪意のある言葉は悪意を持つ者が発する」
「わ、私は…!」
 後光に遮られ、大隊長の顔は見えない。
 だが、それでも突き刺すような眼光を感じ、戦闘天使はその身を竦めた。
「南東アウグリア方面第三十番隊隊長シグアエルよ」
「は、はっ!」
「任を解く。第二位の天使へその任を渡し、お前は謹慎せよ」
「し、承知致しました。失礼します」
 シグアエルと呼ばれた天使は文字通りその場から消えた。
「いささか処罰が厳しいのでは?」
 問うたのは時の女神。
「いえ、これが我が役目。規律こそが、未熟なる我らを分け隔て無く正す、偉大なる父の教えなのです」
「…そうですね」
 どこか、胸をなで下ろすと言った風な声。
 だが。
「しかし、考え様によっては、機会やもしれませぬ」
「!?」
 女神の声にならぬ驚きと同時に、巨大な机に並ぶ面々からも息を飲む者や目を見張る者が続く。
「落ち着いて下さい。未来は無数。そのような未来もあり得ると言う事だけです」
「…争いは、誰も好みません…」
 女神の気配は消えた。
「さて、全戦闘天使隊長諸君。今聞いた通りだ。我らは不戦を望む。だが、それは平和を前提とした話。万万が一としても、常にその時に備え、鍛えよ。今は以上だ」
 戦闘天使大隊長は言葉を残して姿を消した。
 残りの戦闘天使隊長達も互いにざわざわと話をしながら消えてゆく。
 少しの後。
 誰もいなくなった部屋は温度を失い、ただただ静寂な空間へと変わった。
 まるで、絵に描いた様な嵐の前の静けさ、とでも言わんばかりに。
「…ラグナス…急いで下さい…」
 時の女神は、己が神であるにもかかわらず、心から神に祈る気持ちだった。

「都市が一つ消えたそうだ」
「何?」
 マルコキアスが不意に呟く。
 ラグナスは何の事だ、と訪ねた。
「メルバルって言う、人口五万人程度のの小さな都市だが、調査が入った時点で六割は感染していたらしい。かなりの早さで病気が広がっているのさ。仕方ないから、消毒したそうだ」
 念波か何かを使っての通信らしい。
「消毒? 治ったのか!?」
「馬鹿野郎。皆殺しって意味さ」
「!」
 ラグナスが戦く。
「なにカマトトぶってやがる」
「お前、仲間だろう! 天界連中ならまだ解るが…」
「物騒な事言うな。お前だって天の連中の使いっぱだろうが」
「俺は…俺は、あくまでも人間だ。それに、別に天界の人々がそれをやるならいい、なんて言ってない」
「歯切れ悪いねぇ」
「それより、お前達の話だ! 何故そんな簡単に仲間を殺す!」
「それが感染した連中を一番苦しませずに眠らせる方法だからだ」
 不機嫌な声を荒げる。
「そして、そういう連中を増やさずに済む方法だからだ。それがいやならさっさと事件を解決しなくちゃならん。それが俺らの仕事だろうが。解るか? 俺達のせいなのさ。俺達が悪いんだよ!」
 今まで飄々とした物言いだったマルコキアスが、初めて感情をあらわにした。
 怒り、悲しみ、無力感の悔やみ。
 それらが入り交じった声が響く。
「く…」
 ラグナスはその感情に打たれた。
「そう言う事さ。だから、さっさと奴に合流して、さっさとベールゼブブをぶん殴る」
「四大実力者、か」
「どれだけ恐ろしいかは知っているな? 俺達魔王連中すらもその実力差は大変なもんなんだ。それを、俺やお前のバックアップをこっそりつけるにしたってよ、人間一匹に解決させようなんざ、酔狂もいいところだ」
「手を結べよ。こういう時くらい」
「それもまた難しい。四大実力者同士も仲は良くないんでな。それに、天界のビッチ野郎共が今すぐにだってこれを機にと仕掛けてくるかも知れない。今、少なくとも俺達に牙をむいているベールゼブブにかまけていたら、天界連中の総攻撃と板挟みになって、魔界は全滅だ」
「…平和条約なんて無視か」
「あほ、平和条約ってのは武力が拮抗しているから有効なんだよ。相手が怖くなきゃ、誰が獲物を我慢するかっての」
「解っている! それより、密約ぐらい誰か結べよ」
 我ながら悪どい事を言っている。
 だが、今はそれが必要な気がした。
「しているかもしれん。だが、俺達にそれがどうやって解る? 第一その密約が俺のマスターと関係しているか解らんし、下手したらサタン様がこうして影で動いている事を察知して、それを利用しようと誰かが動いているかも解らん」
「…八方塞がりか」
「だから、俺達だけでやるのさ。ほれ、行くぜ」
「…うんざりしてきた」
「何にだ? 正義の味方か? 世間のしがらみか? それともいい子いい子しているてめぇにか?」
「お前、あいつより口が悪いな」
「これでも悪魔なんでね。ほれ、腐っている暇ないぜ。正義の味方さんよ」
「解っている!」
 二人は歩き出した。
 快晴の空。
 だが、今のラグナスにはそれすらも重苦しい鉛色に見える。
「地上は、大丈夫かな…」
 重苦しい空は、たった今にも落ちてきそうだった。

 人間界。
 巨大な森が視界を覆い尽くすそこは魔女の森。
 空は快晴だが、森の中はほどよい日陰が続いている。
「うーん、やっぱり駄目かぁ」
 青と白の服装に身を包んだ亜麻色の髪の少女が呟く。
「ぐー」
「そうだよねぇ、あのときは、確かにこんな風に歩いてたどり着いたのに…。もう、一時間経っちゃったよ」
 大きくため息をつく少女、アルル・ナジャは仕方ない、と一つ深呼吸する。
「あ、あのー!」
 草原から林、林から森へ、そしてまた林へと延々変わり続ける空間。そこで、アルルは空に向かって声を上げる。
「ボク、アルル・ナジャです。ウイッチのお見舞いに来ましたー! 怪しい者じゃありませーん!」
 木霊が響く。
「……」
 少しして、どこかで鳥が鳴く。
「おーーーーいいっ!」
 少々痺れを切らしたアルルはやけくそに怒鳴った。
「こちらへどうぞ」
 耳の後ろから声がする。
「のわぁっ!」
 アルルは蛙みたいに飛び上がった。
 驚いて振り向くと、そこには真っ青なローブに黒い三角帽子を被った、ウイッチより幼いと思われる年齢の魔女が立っていた。
「どど、どこから!?」
「結界を一部解きました。私の後に着いて来て下されば、里までたどり着けます」
 少女はにっこりと微笑んでから、最後に付け足す。
「お出迎えが遅れて申し訳ありません。本来は今の状態では、例えどなたであろうとも里にお入れする訳にはいかなかったのです。ですが、ウイッシュ様より特例措置が出ましたので、こうしてお迎えにあがりました」
 特例の響きにアルルがにやける。
「それって、ボクだから?」
「そうですね」
「えへへ、照れるなぁ」
「少々、理由があるのですが」
「え?」
「いえ、それは後で。では、どうぞ」
「あ、はーい!」
 二人は森の中を歩き始める。
 数十メートルも歩き始めた時、突如二人の姿が陽炎の様に揺らいで消えた。
 森は再び静けさを取り戻す。
「…全然何も変わって見えないんだけどなぁ」
 アルルは周囲を見渡しながら感心して呟く。
「森の魔女の結界は一級品です。そこらの悪魔でも突破はおろか探知すら出来ないでしょう。別に、私が造っている訳でもありませんが」
 少女は自分の事の様に嬉しそうに言う。
「ウイッシュさん、元気?」
「ええ」
「…ウイッチは?」
「元気、ですよ。今のところは…」
 表情にかげりが見える。
「う、うん。そう…」
 やはり良くないのか、とアルルも一緒に声を下げた。
「今来たのって、タイミング悪かったかなぁ? お見舞いだけ渡した方が良かった?」
「いえ、一緒に来て頂いた方が良いのです。是非、と言っていましたから」
「ウイッシュさんが?」
「はい。あと少しです」
 アルルはふぅん、と不思議そうな顔をする。
 まぁ、ウイッチの友達なんだから、そりゃちゃんと会った方がいいよね。
 アルルはようやく目に入ってきた里を見て思った。
 二人は里に入る。
「…うーん」
 自然と唸ってしまう。
「どうかしましたか?」
「あ、ううん。こっちの事」
 アルルはここの里に入ると、いつもの事ながら自分が浮いた存在に思えて仕方がない。
 周囲にいるのは至って普通の姿の女性達である。
 服装もシックなものが多い以外は特に変わりもなく、亜人種が居る訳でもない。
 だが、存在感が違うのだ。
 ここにいる人々はほぼ全員が生粋の魔女であり、通常の人間とはDNAのレベルでどこかが違う存在。
 人間が存在的な能力こそあれ、才能や努力によって魔導士になるのとは根本的に異なり、その体の髄に、生まれる前から魔女としての血が、精神が、魔女という名の生物として練り込まれている。
 人として、生物としてすらどこかが違う彼女達との差異を、アルルは肌で感じていた。
「こちらですよ、アルルさん」
「あ、はーい!」
 いつの間にか立ち止まっていたらしい。
 アルルは離れてしまっていた少女を慌てて追いかけた。
 里の建物は、構造的に単純、かつ質素ながらも、独特な装飾と何より建物自体の大きさが巨大である事から、どうにも押さえきれない存在感が匂い立つ。
 その中でもひときわ威圧感を放つ巨大な建物の前で、アルルと少女は立ち止まった。
「いつ見ても、なんて言うか…圧迫されるなぁ…。空気が重い…」
「流石ですね。アルルさん、そう言うところはとても敏感です」
 少女は屈託無い表情で微笑んで言う。
「い、いやぁ、だってほら、こんな天を突く、みたいなどかーんっていう威圧感があれば分かるよぉ」
「ふふ、そうですね。…あ、ウイッシュ様が呼んでおられます。入って宜しいそうです」
「あ、はい」
「では、私はここで」
「あ、どうもありがとうね、ええと…」
「アリサです」
「アリサちゃん、どうもありがとうね」
「ふふ…」
「え?」
「いえ、別にいいんですけど…私、これでももう、三十歳ですよ。ふふ」
「うぇっ!?」
 外見はどう見ても十歳に満たない魔女は、くすくすと笑って立ち去る。
「…うーわ」
 魔女は人に依るが、得てして実年齢より若く見えると言う。
 最も、ウイッシュの様に実年齢と外見の差が数倍以上と言うのは稀であり、大抵は都市にしては若いで収まる範囲である。
 だが、あの少女、いや女性はどう見ても十歳前。
 アルルは、改めて魔女の特異性を垣間見た。
 魔女の姿が見えなくなった頃、アルルは改めて扉に向かう。
 大きくはないが、厚く、重い両開きである。
「おじゃましまー…すっ」
 アルルは、腰を入れて真鍮のドアノブを引いた。
 重い感触。
 だが、きしみの音一つさせずに扉が開き、アルルが中をのぞくと同時に暗かった室内に点々と蝋燭が灯り始める。
 こっちに来いと言う意味だろう。
 慣れたもので、アルルははーい、と臆する事無く室内へ足を踏み入れた。
 通路の様に灯る蝋燭の向こうへアルルは消える。
 同時に、扉は再び音もなく閉じた。




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