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魔導物語 闇に生きると言うこと 第二部 第十話



  宿屋 午前1時7分

 魔界に来た事は過去に何度もある。
 だが、彼がこれ程機嫌を悪くした事は一度もなかった。
 一度ならず、二度も三度も己を失う等、恥を通り越して万死に値する愚行だ。
「……」
 シェゾは生まれてこの方感じた事がないくらい不機嫌に目を覚ました。
「げ、げんき…?」
 視界の端。
 キャナがまるで猛獣の起きがけにでも話しかけるみたいに、恐る恐る声をかけてきた。
 後で聞くと、その時の自分の寝顔は噛み付かんとせんばかりのすこぶる不機嫌なしかめっ面だったらしい。
「ラグナスはどした?」
「…行っちゃったよ。友達にしちゃ、ちょっと薄情入ってない? 彼」
「友達ね」
 シェゾは、付き合いが長い割にはそう言い切れる確信がない自分に唇を緩めた。
 ラグナスは、シェゾを連れてきた後に一通り体調をスキャンし、突発的な問題以外に症状が無い事を確認すると、キャナにそれを告げて出ていったと言う。
 ラグナスは伝言を残した。「頼むから、誰かを泣かせるマネすんなよ」と。
「誰かって、誰?」
 キャナは好奇心旺盛な瞳で問う。
「誰かだ」
「ふーん」
 斜めな瞳で、キャナは意味ありげな上目遣いをシェゾに送る。
「ところで、さ」
「ん?」
「体、大丈夫?」
「ああ」
「具合、悪かったの?」
「多分な」
「今はどう?」
「普通」
「……」
「ん?」
「あんた、何にも話してくれないんだね…」
「応えているだろ?」
「そういうのと…違うよ」
 キャナはふう、と溜息をつくと、ご飯を持ってくると言って部屋を出た。
 そんな彼女の溜息の理由を理解できないのはシェゾのみである。
『相変わらずだな。この色男が。
「おいおい、お前までからかうのか?」
 次元という名の鞘にある闇の剣が語りかける。
『まぁそれはよい。それより主。本気で本腰を入れぬと…まずいぞ、流石に。
「いっそラグナスがちゃっちゃと終わらせてくれれば、俺は楽なんだがな」
『おい。
「別にリスクはないだろ?」
『無いが…
「が?」
『あの光の者如きわっぱに後れを取るなど、我の腹の虫が治まらぬ。
「ほう」
 シェゾは意外、と言う顔でにやりと笑う。
 闇の剣があからさまな敵対心を持つ科白を吐くなどそうそうある事ではない。
『ほう、ではない! 主の体も実際危険だろうが!
「そういえば、俺の体は今どうなっている? 流石に具体的にどうとかは解る訳がないからな」
 シェゾは忘れていた、とばかりに問う。
『…主の体のほぼ隅々に、例の不可解な構成のマナが行き渡っている。それが、一種の肉体的、精神的興奮状態を作り出している。
「するとどうなる?」
『あのアウルベアと戦って解っているであろう。まずは身体能力が飛躍的に上昇する。所謂ドーピングと言うやつだ。
「ああ」
『だが、同時に時間と共に精神状態が不安定になるようだ。そしてそれが強まる周期もあるらしい。恐ろしく強力に、な。
「奴も、殆ど狂っていたな」
『抑制のない能力上昇は肉体的、精神的崩壊をやがてもたらす。
「つまり、いずれは完全に…か」
『そういう事だ、多分な。
「問題は…なんでそんな物騒なもんが撒き散らされているかって事だな。解るか?」
『だからそれを調べに来たのだろうが!
「だな」
 シェゾはベッドから身を起こして、うん、と背伸びをする。
 首を回してこきこきと音を鳴らし、とりあえず今の体は安定している事を確認する。
「ま、やられっぱなしってのは確かに癪だな」
『そう思うなら動け。自由に動ける内にな。
「動ける内、か」
『異境どころか、異界の辺境の地で果てる事を良しとする様な、センチな趣味を持っている訳でもあるまい。
「まぁな」
 シェゾは首を軽く鳴らす。
「いずれは、にせよ力が増しているなら、それを利用しない手はない」
『出来る内に、な。
 シェゾは年季の入った天井を仰ぎ見る。
「シェゾー! ごはん持ってきたよー!」
 丁度二人の話が途切れた頃、キャナがトレーに山盛りの食事を乗せて戻ってきた。
 けなげな程に一生懸命なキャナのその姿。
 シェゾはそんな彼女の姿に、無意識に笑みをこぼしていた。
 闇の剣はそんな主を見て、この辺りだけは何故かまだまだ若造だ、と苦笑する。



 人間界。
 午後2時13分。
 天候、快晴。
 北東の風、微風。
 気温、17度。
 そんな世界。
 時計の針はのんびりと、しかし確実に、決して戻らぬ時を刻む。
 生命が育まれ、人やそれ以外の生物、そして生物以外のものも一応は平和に住む世界。
 だが、その世界は卵の薄皮の如く不安定で弱い。
 今、その薄皮に針が突き刺さろうとしている。

 私が初めてこの世界に来たのは何時だったか…。

 その世界にある彼の住居。
 そこは住居と言うにはいささか巨大すぎる城。
 周囲を広大な森に囲まれ、そこに通ずる道は知る人でなければ迷う程に狭い。
 彼は街の近くにも大きな邸宅を構えているが、実際に住んでいるのはこの場所。
 普段、人を寄せ付ける事を良しとしないこの場所。
 否。
 近寄る事を許さぬその場所であった。

 美しい世界だ。

 だが。

 煉獄と言っても良いこの世界だ。

 世界が、動く。

 いや、いつでも動いている。

 それは誰かの望む動き。

 誰かは望まない動き。

 私は、どの様な動きを望む?

 サタンは巨大な岩窓から眼下に広がる世界をぼんやりと眺めていた。
 メイドの持ってきた紅茶は既に冷めている。
 サタンは、流石に渋くなったそれを口に含んでから、やっとそれに気付いた。
 そして、視界を外に移すと彼は紅茶の渋みとは別の渋い顔をする。
「…やはり来るか」
 サタンはその超人的能力によって先程から一人の気配が近づくのを感知していた。
 窓の下に広がる森を申し訳程度に切り開いた道。
 視界の端に、丁度その者が針の先程の大きさで見え始めていた。
 普段なら彼の者の来訪は狂喜乱舞して迎えるのだが、今はどうにも心苦しい。
 砂粒の様に小さなその人影が歩いていた。
「……」
 サタンはどこか憂いのある瞳でそれを見つめる。
 と。
「…?」
 視界に、赤い点が浮く。
 そしてそれは見る間に大きく視界を覆う。
「……」
 多分、それを確認できた時間はコンマ一秒以下。
 だがサタンはその瞬間が異様に長く感じた。
「のわぁっ!」
 悲鳴をかき消し、岩の窓が豪快な爆発音と共にふっとんだ。
 赤い物体。
 それが真正面から見たカーバンクルビームだと理解出来たのは、光線が本人に着弾したその瞬間の事だった。




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