魔導物語 闇に生きると言うこと 第二部 第三話 街道 午前7時22分 シェゾは、徒歩で進まねばならなかった。 荷物も殆ど失った。 昨夜襲ってきた気配のせいで、馬が荷物を持ったまま何処かへ逃げてしまったのだ。 「…誰かは知らんが、一発殴らんとな…」 シェゾは不機嫌丸出しで歩いていた。 手元に残ったのは、一食分にも満たない携帯食のみ。魔導士であり、剣士でもあるシェゾだからこそ不機嫌で済んでいたが、普通の旅人ならば途方にくれていたであろう。 ここから元居た街までは、馬でも丸二日。人の足では、二倍以上かかるであろう距離と道であった。 戻る訳にもいくまい。 昨日までの地図で確認している、この先にある筈の村が頼りになるだろうか? 最も、異界の村は実に様々な顔を持つ。 穴を掘ってすむ魔物の村。 木々の上に住み、一生地面を知らずに命を終える魔物の村。 その目に留めた生物全てが食物の対象となる魔物の村。 人型の魔物が住めば、まずそれだけでもラッキーだ。 まったく、用意周到にする程事故が多い…。 シェゾは、旅に欠かす事の出来ない準備とは言え、最近少しそれが面倒に思えている。どうせこうなる。そんなやや投げやりな気持ちが最近あった。 無論、それを実践するほど愚かではないが。 その後、二時間ほど歩いた。 途中の川で水を飲んだ以外は何も食べていない。 特に空腹と言う訳ではないが、食料が無いと言う事実は多少胃に負担をかける様だ。腹が空腹に抗議してぐぅ、と鳴った。 視界には、なお森と平原が広がる。 シェゾは、森に入ってみた。 狩をする気は今のところシェゾには無いが、木の実くらいはあるかもしれない。 少し進み、シェゾは木々に絡まる蔦状の植物に目を止めた。 その蔦には、ライチ程の大きさの実がたわわに実っている。 微かに、甘い香りもしていた。 「…喰えるか?」 シェゾは一つ摘んで匂いをかぐ。 毒性の香りとは思えない。 手にとった実に力を込め、つるつるしたクルミみたいな硬い殻を割る。 すると、一ミリ程の殻の下に黄色い果肉が見えた。 「…ふん」 少しだけ、舐めてみる。 「桃に、似ているな」 シェゾは、それを食んだ。やや歯ごたえのあるその果肉は、素直に美味かった。 少しかじると大きめの種がある。 シェゾは殻から実を抜き、それごと口に含むと果肉を食ってから種を吐き出した。 「美味い」 携帯用の袋に実を詰め、シェゾは街道に戻った。 たぶん、それは食べても安心だと言う確信はあった。 その植物の生えた地面には、既に動物がそれを食い荒らした痕があったからだ。 街道に戻る途中、所々に淡い光が見える。鬼火や精霊による灯りは、森を照らしながら何処へともなく行き来している。 魔界の空気、マナにも異変が起きているとは言え、やはり人間界のそれらよりも魔界のそれは強いらしい。 シェゾは、前にキャナが『人間界の奴は軟弱だ』と言った事を思い出して、成る程と思った。 彼は、それから歩きつづけた。 上弦の月が頭上に来ている。 虫の鳴き声一つ聞こえぬ闇の世界。 星空はこんなにも明るいと言うのに、空と地上の境目を中心にして、地上の方は墨を撒いたみたいに黒く、暗い。 空から見たシェゾは、まるで闇の上に浮いている様だった。そして、それが違和感を伴わない。 時が止まった、いや、時が意味をなさないかの様な空間を、彼は歩き続けた。 闇は、魔界でも人間界でも、彼の領域なのだ。 空の星座は何を意味するのだろう。知っている様な星座もある気がする。ひっくり返っている様な星座、ひしゃげている星座。そう、見えるものもある。 シェゾは、星なんてどこで見ても似ているものだ、と笑った。 そう、丁度星座を裏から見るとこんな感じか? 彼は、笑ってそう思った。 もしかしたら、そうなのかもしれない。 どうでもいいことだが。 月が見守る中、彼は歩き続ける。 こんな旅もいい。 そう思い始めていた。 その矢先。 後ろから、馬の足音が聞こえた。 草原を歩く馬の足音だ。普通、視界に入ってもなかなか聞こえるものではない。 シェゾの神経が無意識に緊張しているその現れだ。 そしてそれは、ただ歩いているだけだが、どこか不ぞろいな足音。 それは、手綱を握る主が馬の扱いに慣れていないと言う事。 乗り主の器量は、如実に馬に表れるのだ。 突如、馬の足音が早まる。 「きゃ! こら、とまれーっ!」 どこかで聞いた事のある声だった。 シェゾは、何か振り向きたくない様な気がした。したのだが、そうもいかないと思って後ろを見る。 すると、こちらへ真っ直ぐ向かってくる馬が1頭。いや、微妙に軌道をそらそうとしている。 どうやら、意外と言えば意外だが、魔界の馬も人間界と同じ様に、そう簡単に人を踏まない様に躾られているようだ。 「きゃあああーーっ!」 馬の上から、もうお手上げと言う感じの悲鳴。 「……」 シェゾは、馬が横を抜けようとする直前にダッシュし、一体どうやったと言うのか、全速力で走る馬にあっさりと飛び乗った。 「きゃあっ!」 悲鳴は、馬への恐怖と、突如後ろに誰かが飛来したと言う未知の不安に対して。 「ドゥドゥ!」 シェゾは悲鳴の主の細腕から手綱を奪い、馬を制御する。 すると馬は嘶き、たった今までの大暴れを嘘の様に落ち着かせ、止まった。 「よしよし…」 手綱を緩め、馬を誉める。 馬は、その鮮やかな手綱さばきに応えるかの様にして、一声鳴いた。 本当に腕のいい者は、技術より何より馬との意志の疎通に長ける。その証明だった。 「…び、びっくりした…」 乗り主は、とりあえず去った危機に安堵する。 「お前…」 「あ、シェゾ。よかったー。やっほぅ!」 そいつは湖で出会ったメロウ。キャナだった。 「…足はどうした?」 キャナは、言う間でもなく人魚だ。下半身が魚のヒレだからこそ、人魚だ。 だが。 「んー。ひっさびさにパンツ穿いたから、なんかしっくりこないんだよねー」 そう言って馬から降り、自分の『足』にフィットしたソフトパンツを引っ張る。 「いや、足…」 言いつつ、シェゾも馬から降りた。 「ん? やだなあ、そんな間抜けな質問やめてよ。あたしたち、術によって足持てるんじゃないの。特に、あたしみたいな優秀なメロウになると、もう、一年単位でだって平気なんだから」 自慢げに言うキャナ。 こう言うところも、魔界と人間界の人魚の差、と言う事らしい。 たしかに、人間界のうろこさかなびと連中が使う魔導は浮遊が関の山。変体は、一度も見た事が無い。 「…そうだったな」 適当に話を合わせる事にした。 とりあえず、シェゾは助かったと思った。 荷物も足も戻ってきたのだから。 まぁ少々、荷物が増えているが。 「ん?」 彼の何気ない視線を感じて、キャナはアーモンドの様な整った瞳でシェゾを見た。 性格的な違いは言う間でも無いが、彼女のその無垢な瞳は、やはりどこかあの泣き虫を連想させた。 「ところで、お前こんな所まで来てどうする気だ?」 「どうもこうも、こっから歩いて湖に帰れなんて言わないよね? 男として」 「帰れ」 「…それが、荷物をわざわざ届けに来た恩人に向って言う言葉かな?」 「頼んだ覚えは無い」 「でも結果的に助かったでしょうが! 恩は恩で返すもんだよ?」 「大きなお世話って言葉もあるぜ?」 「…かわいくないなぁ…」 「言われても困る」 「……」 キャナはむっとしてふくれる。 暖簾に腕押しとはこの事。 「とにかく! 荷物を戻してあげたうえに案内をしようって人に対してはもう少しそれ相応の扱いがあるもんじゃない?」 「案内?」 「どうせこの先の街のことも知らないでしょ?」 「…俺は」 「人間でしょ?」 シェゾの眉がぴくりと動いた。 「まーまー。だからどうって事も無いし、むしろ歓迎するからさ」 キャナはにっこりして言う。 多少なりとも彼の気を引けた事に満足した様だ。 「それはいいが、何故分かった?」 「あんたと別れてから暫くしてね、なんか竜族だか鬼族だかと思うんだけど、角付きのおっさんがね、あんたの世話を頼むって現れたの。報酬くれるって言うし、あんたと付き合えばヒマはしないぞって」 「…あのアホ。何を考えている…」 「自惚れるな」 瞬間、シェゾの眼光がキャナをがんじがらめに縛り付けた。 細身のメロウは、まるで喉を鷲掴みにされたみたいに怯え、硬直する。恐怖に体が感覚を失い、氷付けになった様な感覚を覚える。 彼の顔が怖くなった訳では無い。 その瞳がちょっとだけ伏目がちになっただけ。 ただそれだけなのに、今やキャナはヘビに睨まれたカエル以上の状態だった。 「…ま、まって…」 「……」 「あ、あの…いまの…いまの言葉はね…その、おじさんが言えって…い…言った…言葉…なの…です。あた、あたしは…べつに…」 そこまでの科白を、息も絶え絶えにして目の前の鬼に伝える。 キャナは、彼にこう言う科白を言うと言うとどうなるかは、多少は予想していた。が、実際はそんな予測は遥かに凌駕する事となり、彼女はとにかくそれを激しく後悔した。 「…奴が?」 彼の眼光が、鷲掴みにしていた彼女の心臓を解き放つ。 キャナは生まれて初めて、本気で腰を抜かす。 死ぬ時の感情。 彼女は、死ぬ前にそれを味わってしまった、そんな気がした。 「…しゃ、喋っていい、ですか?」 シェゾは目でそれを許した。 「おじさんが、あの…シ…あなたが、そういう風な科白を言うだろうから、そうしたら、言ってやれって…。それで、えと、あたし…言われた通り…」 キャナは、シェゾの目も見る事が出来ないままでたどたどしく話す。まるで、言葉を覚え始めたばかりの子供みたいだった。 「…だ、だから…あの、あたしは…その、本当に、本当にごめんなさい…」 あれだけ気の強かったキャナが、それこそセリリに劣らぬ気の弱さを露呈している。 今の彼女なら、拳を目に映すだけで失神するだろう。 「…いや、悪い」 シェゾは何となく詫びた。 女を怯えさせるのは気分がいいものではないから。 しかも、怯え方が尋常でないとなると調子も狂う。 俺は居るだけでそんなに恐いか? 彼は時々そう思わないでもないのだ。 「…ゆ、許して…くれますか…?」 恐怖のあまり、自分への言葉が打って変わって敬語になっている。 シェゾは反省した。 やはり、ここに来てから精神が過敏になっていた様だ。だから、些細な言葉に大げさな反応をしてしまったのだ。 「…行くぞ。乗れ」 シェゾは馬に乗り、キャナを促す」 「は、はい!」 間違ってもシェゾの機嫌を損ねぬ様に、と必死に勤める彼女。足が笑っているが、もたついて彼を苛つかせたらどうなるか分からない、とばかりに慌てる。 「普通にしろよ…」 もう、普段の彼に戻っている。 だが、そんな言葉が今のキャナに伝わる筈は無かった。 馬上。 言われるがままにシェゾの前に腰を下ろしたキャナは、その後暫く彼の手綱の動き一つでもビクビクしながら道中を続けていた。 彼の視線の下の肩は、やけに小さく縮んで見える。 今の彼女は、言うなれば死神に抱っこされているのと大差無いと言うところだろう。 借りた猫。 正しくそれだった。 「……」 シェゾは、裏返したみたいに小さく、大人しくなってしまったキャナと、そんな事が出来てしまう自分に対して、そして、自分の考えを読んでいたサタンに対して苦笑した。 |