第十話 Top エピローグ


魔導物語 八百万の神の国 最終話



 大橋 午前3時2分
 
 その橋は幅が優に五間(約9メートル)、長さは四十間(約73メートル)を超える大橋だった。
 希代の建築家が一世一代の大仕事として完成させたその橋は、陽の下で見るとそれは見事な朱色に塗られ、漆塗りの金具の色の対比と相まってその橋を見る為に人を呼ぶくらいのものだと言う。
 シェゾは、そんな橋の三分の一程進んだところでいきなり強い違和感を感じた。
 橋がびりびりと揺れ、橋桁の水に浸かった部分が微細な振動で水を弾けさせる。
 シェゾは振動と気の流れを詳細に分析し、それが方向性を持たない事を確認した。
 
 来る。
 
 その手に暗黒の質量がどう、と流れ込む。
 次の瞬間、彼の手には闇の剣が握られていた。
『主よ。これはなかなかに手強そうだぞ…。
「ああ」
 珍しい事だ。
 闇の剣が主に対して気弱な事を言うなど。
 
 鬼とは、何者か?
 
 じわり、と視界が揺らいだ気がした。
 いや、揺らいだ。
 橋の向こう側が陽炎の様にぐらぐらと揺らいでいる。
「……」
 シェゾはそこを凝視した。
 ずん、と音がする。
 現れた。
 それは、かなり大柄な男だった。
 だが、都の写本で見た姿とは大分違う。
 真っ赤な筋肉質の体ではない。
 すり切れてこそいるが着流しを纏わせている。
 その肌は人間のそれ。
 その顔は確かに鬼と言えば鬼だったが、仮面だ。
 長い黒髪がたなびいている。いや、もしかしたら仮面に付いている髪かも知れない。
 恐ろしいと言うよりある意味芸術的なその鬼の面には、確かに鬼の証明たる牙と角がついている。
 そして、その両手には二本の刀。
 シェゾが店で見たどの刀よりも、それの刀身は長く、太かった。
 鋼の刀身は重い。一体、どれ程の重量が両手に加わっているのだろう。
「なかなか、かっこいいんじゃないか?」
 シェゾは如何様な化け物が登場するかと思ったが、その容姿が意の外に平凡なので逆に驚いた。
 最も、それが発する気は十二分に化け物だが。
 鬼が歩み寄る。
 どう見てもすり足で歩いている様な静かな歩だと言うのに、橋はずん、ずん、と鈍く振動を繰り返す。
 頑丈この上ない総檜の橋がぐらぐらと揺れる。
 仁王立ちで迎えるもう一人の鬼神との距離が十メートル程に狭まった。
 鬼はぴたりと歩を止める。
 都を騒がす鬼。
 だが、それはどうでもいい。
 そいつがどれ程のものか。
 この一点が彼の興味の対象。
 シェゾが、剣を下段に構えた。
 わずかに上昇していた脈、呼吸数が平常に戻る。
 アドレナリン値すら上昇が治まり、彼は今完璧な戦闘状態へと移行した。
 そして、鬼がそれに呼応するかの様にゆらりと動き始めた。
 二本の妙に長い真剣が、紅い月に照らされて血の色をした銀の光をぎらりと輝かせる。
 ずい、と鬼が迫る。
 シェゾも動いた。
 まだ剣の間合いではない。
 だが、シェゾは闇の剣を下段の構えから、気合いを込めつつ思い切り振り上げる。
「ふっ!」
 息吹と共に、剣からカミソリの如き衝撃波が放たれた。
 闇一閃。
 水すら切り裂くそのソニックブームの刃が飛ぶ。
「……」
 鬼の刀が瞬時に目の前で交差した。
 衝撃波がコンマ一秒と掛からず鬼に迫る。
 そして刀に衝撃波が届いたと思われた瞬間。
 交差した二本の刀が思い切り振られた。
 それだけで、どう、と風が吹きすさんだ。
「!」
 シェゾは見た。
 闇の剣から放たれた縦一閃の衝撃波が、鬼の刀から放たれた斜め十字の新たな衝撃波によって撃ち砕かれ、あまつさえその衝撃波が自分に迫り来るのを。
「ちっ!」
 シェゾは、まるで横からぶん殴られたみたいな早さで跳んだ。
 その脇を衝撃波が通り過ぎ、柱に当たって頑丈な檜を割り箸みたいに砕け散らせる。
「……」
 シェゾは橋の欄干に立っていた。
「成る程、な」
 シェゾはにやりと満足げに笑い、そして飛翔する。
 鬼も飛んだ。
 疾風と疾風がぶつかり合っているかの様だった。
 空中で剣と刀がぶつかり、鋼からその衝撃を物語る火花が飛び散る。
 つばぜり合いの姿勢のままで両者は橋に降り立つ。
 両手で剣を思い切り振り下ろすシェゾと、両の刀を交差させてそのベクトルを阻む鬼。
 静止している様に見えるが、両者の筋肉はこれでもかと悲鳴を上げている。
 その食いしばった歯も、二人の側に行けたならぎりぎりという音を聞けただろう。
「がっ!」
 突然、シェゾが吹っ飛ぶ。
 鬼が見事な早さの蹴りを繰り出して、シェゾの腹に一撃を食らわせたのだ。
 みぞおちにまともに食らった。
 シェゾが背中から転び、背中を数メートルも滑らせる。
 一瞬、目を瞑ってしまった。
 ヤバイ、とシェゾは目を見開く。
 と、既に彼の頭上には両の刀を牙の如く構えて空に飛ぶ鬼の姿があった。
 紅い月を背負ったその姿は正しく鬼。
 だん! と刀が橋に突き刺さる。
 鬼はぎらりと輝く目で、素早く転がって脱出したシェゾを睨み付ける。
 シェゾはそれでも残念ながら左肩を割られたが、辛うじて致命傷からは逃れた。
 体に穴を開けられないだけでも褒めるべきだろう。
 ざん、と突き刺さった刀が踏み板から抜かれる。
 その刺さった跡を見ると、板は貫通され川面が穴から見えていた。
 シェゾが血を肩から滴らせつつ立ち上がると、鬼は既に刀を構えていた。
 …よし、大丈夫だ。
 肩の腱は痛めていない。
 戦闘に必要な項目のみのセルフチェックを済ませ、改めて剣を構えるシェゾ。
 痛みなど、彼の憂慮する項目には有りはしないのだ。
 かくして、位置は違えど最初と同じ構図が再現された。
「ふっ!」
 再びシェゾが先手を打つ。
 シェゾの体の周りに瞬時に六つの小さな発光体が現れ、それは同時に鬼へと向かって凄まじい早さで飛ぶ。
 空気との摩擦で発光体は火花を纏って飛んだ。その姿はまるで彗星だった。
 ファイアーボール。
 熱量もさることながら、その質量も凄まじい。
 まともに当たれば煉瓦の壁など貫通してしまうエネルギーを持つ発光体。
 そしてシェゾはその速度とほぼ等速で駆けた。
 ファイアーボールに貫かれるもよし。今、己が繰り出す剣に差し貫かれるもよし。
 シェゾは絶対の攻撃を繰り出した。
 だが。
 鬼が、信じられない事をする。
 瞬きする間も無いこの一瞬に、両の刀を円の形に振る。
 それだけで、ファイアーボールはすべて弾かれ、散らされた。
「!」
 更に、二本の刀は突きの体勢でシェゾの眉間と腹を狙った。
 神技たる素早さ。
 シェゾは正直、驚愕した。
 そして刀と刀の距離は離れ過ぎている。
 一本と二本の差がここに出た。
 両方を受けるのは無理なのだ。
 シェゾは鬼と呼ばれるそれの空恐ろしさを初めて感じた。
「…!」
 次の瞬間、シェゾは自分でもどう行動したのか分からなかった。
「うぉっ!」
 左腕に激痛が走る。
 同時に、シェゾは無意識に鬼の面に剣を走らせていた。
「!」
 鬼が、声こそ出さないが初めて感情を露わにする。
 そして、シェゾと鬼は体ごとぶつかり、お互いにもんどり打って転がった。
 お互いの体が弾け、離れる。
 いや、多分鬼が押しのけたのだろう。
「…がっ!」
 もう一度左腕に激痛が走る。
 シェゾはそれで初めて理解出来た。
 腹への一撃は身を反らしてなんとか交わしたが、眉間への一撃は交わしきれなかった。
 だから、刀に左腕を晒し、それで致命傷を免れたのだ、と。
 二回目の激痛は刀が腕から抜けたその痛みだ。
 そして、シェゾの唯一の反撃は面への一撃。
 それで鬼は姿勢を崩し、お互いそのまま転がってしまったのだ。
 シェゾは欄干に背中をぶつけてやっとその身を止めた。
 もう少し木の間隔が広かったなら、多分川に落ちていただろう。
 正直エスケープも悪くないかと思ったが、そうもいかないのが男の子だ。
 シェゾは流石にばくばくいい始めた心臓をなだめつつ、立ち上がる。
「……」
 少し、不利になった様だ。
 左手に力が入らない。
 鬼も反対側の欄干にもたれつつ立ち上がる。
 その面に、真一文字のひびが入っていた。
 さて、どう攻める?
 シェゾは、ほんの僅かであろうインターバルに考えなければならない。
 
 まったく…俺の攻撃の一つ一つにそれよりわずか上の反撃を加えやがる。
 なら、ダメージとかじゃなくて、一撃必殺が必要か?
 
 だが、それは正直賢明ではない。
 魔導の類とは違うようだが怪しげな力を使いて剣と共に攻撃してくる鬼である。
 一撃必殺などという大味な技を受け入れてくれるとは到底思えない。
 
 それでいて、あいつは捨て身としか思えない攻撃ばかりを仕掛けてくる。
 分からない奴だぜ…。
 ま、俺もだがな。
 
 いっそ、差し違えてでも…と考えた。
 真剣勝負である以上、その覚悟は持っている。
 が、その時。
「……」
 シェゾはふと思い出した。
 ドウマンとの昼間の『会話』を。
 
「陰と陽は、水と油ではない。これ以上無いと言う位に相性の良いものじゃ。そりゃもう、お互いにくっつきたくて仕方がないと言う位にのう。そうそう、丁度、お前さんとそのお嬢ちゃんみたいなもんじゃ」
「はぁ? 何処に誰がいるってんだよ」
「お前さんこそ何を言っておる。ほれ、お前さんの腕に、蛇みたいにがっしりと絡み付いとるわい」
 道満はしわくちゃの顔で笑った。
「そんな事もわからんか? 力を求める割には、無欲な奴よのう」
「?」
 シェゾは果たして、その答を見つける事が出来なかった。
 今の今まで。
 
「…相性、ね」
 シェゾは悲鳴を上げる体が、何故か少し楽になった気がした。
 左腕に巻いていた。アルルのお守り。
 今は血にまみれて赤くなってしまったが、それをシェゾは外した。
 そして左手と剣を一緒に巻き、固定すると今一度両手で剣を構えた。
 シェゾはゆっくり、柔らかく、深呼吸した。
「泣かせるのもつまらん、か」
『…主?
 闇の剣がシェゾの『行動』に思わず問いかける。
 それには答えず、シェゾは歩を進めた。
 鬼もそれを見て改めて刀を構える。
 ずんずん、と両者の距離は縮まる。
 だが、お互いに今は何の攻撃も繰り出そうとはしなかった。
 いよいよ切っ先が触れ合う。
 かちり、と音がして両者の距離はもう一メートルも無い。
「!」
 そこで、初めて鬼が刀を二本とも振りかぶった。
 だが、その動きはとてもスロー。
 シェゾは、同じ軌道で振り下ろされる二本の刀を左手に巻き付けた闇の剣で受けた。
 あっさりと進行を止める刀。
 そして。
 シェゾは、腰に差してあった脇差しを右手で抜き、その真新しい刃をぎらりと光らせると鬼の面に突き立てた。
 ばきん、と面が割れる。
 面の下、一瞬だけその顔が見えた気がする。
 だが、次の瞬間に鬼の体は刀ごとばん、と煙が弾けるようにして崩壊してしまった。
「……」
 シェゾはそれを追う様にして倒れた。
 今頃になって体中の激痛がシェゾの行動を非難し始める。
 いつの間にか蒼くなっていた月を、橋の真ん中で大の字になって眺めながら、シェゾは暫くの間、ただぼぉっとしていた。
「いい月だ…」
 と、橋を歩く足音が聞こえてきた。
「シェゾ殿」
「……」
 その声は晴明。
「見事です」
「あぁ…」
 気の抜けた様な声で返すシェゾ。
「もうお解りでしょうが、あの鬼は貴方の超えるべき者の具現化。もしくは、貴方自身と言ってもいいでしょう。貴方が勝てないと思っている者を象徴しているのですから」
『ドッペルゲンガーとも違ったな。
「ええ。あの鬼は言ってしまえば式神が生み出した幻ですから」
『生み出したのはお前か?。
 晴明はにっこりと笑う。闇の剣の問いかけにも別段驚かない。
「道満様が言われた様に、貴方が問うた陰陽とは、混濁併せ持つもの。陰と陽を併せ持ち、それを有効に生かす事。これが大切なのです」
『だから、主は最初、闇にこだわった故に歯が立たなかった、と。
「はい。でも、シェゾ殿は気付かれましたね。シェゾ殿の守護となった方の力と、自分の中の力を合わせる事に」
「…それにさえ気付けば、この試練はお仕舞いってか?」
 シェゾが疲れ切った声で言う。
「ええ。だから、それに気付かれた貴方にあの『鬼』は勝てなくなったのです」
『逆に言えば、それに気付かぬ限り誰であろうと永遠に勝てぬ、と言う事か。…何とも面妖な術を使う奴が居たものだ。
「…どうもよ、こういう教訓めいた事を教えられるのってのは割に合わない気がするんだよな…。実入りが無いっつうか…」
「それは、まだまだ貴方が俗物の鎖に縛られているからですよ。それに、私に言わせていただければ、初めて会った御仁が道満様に認められるなど初めてです」
「…誉めてんのかけなしてんのかどっちだよ」
 シェゾは吐き捨てる様に言った。
「さて? ところで、シェゾ殿は鬼の面の下にどなたの顔を見ましたか?」
「……」
 シェゾは何も言わなかった。
 
「で、ドウマン、都で聞いた鬼ってのは何なんだよ?」
 夜中の屋敷。
 シェゾは屋敷で包帯まみれになりつつ道満に聞いた。
「お主の試験とは全くの別物じゃ。とっくに晴明が成敗したわ。最も、低級な地霊じゃからまたいつ湧くか分からないがのう」
「…にしても、要は偏った力じゃ先はない、みたいな事を教えられるだけでこのケガじゃ割があわねぇぜ」
 シェゾの両脇では、アーちゃんとパノッティが帰ってからずっと心配そうに寄り添っていた。血みどろのシェゾが帰ってきた時など、パノは泣きわめきアーちゃんは一時気を失ってしまった程だ。
「そうでもない。お前さんはもう、元から持っておる陰の神以外の神を宿しておる。八百万の神が居る国とは言え、なかなかこうはいかんぞ」
「…八百万の神の国、ね。それだけいると、いまいち有り難みがないぜ」
 なんとなく二人の頭をなでつつ、シェゾがぼやく。
「神は何千何万でも居る。問題は、その神を感じる事。そして、流されない事じゃよ」
「流されない?」
「神は居る。じゃが、決して神々は手を出さない。だから、こっちも神に振り回されるなど愚かな事、じゃよ」
「……」
 それにはシェゾも、確かに何となく賛同出来た。
「最も、その子達みたいな子供も神の一種じゃから、そういうのに好かれるのは大いに結構じゃし、好かれる努力はしてもいいがのぅ。お前さんの左腕の『神様』にも、のう」
 道満は笑った。
「へいへい」
 シェゾは生返事で茶を濁した。
 
 
 
  四日後。
 
 シェゾ達は帰りの船に乗って元の大陸を目指していた。
 行きの船より大きいので、広さには余裕がある。
 アーちゃんとパノッティは甲板を走り回ってきゃーきゃー言っていた。
 ついさっきまで船酔いでめげていたとは思えない回復ぶりである。
 二人には魔界へ送り返すかと聞いたが、最後まで一緒にいる、と行ったので船旅にも同行させる。
 甲板で潮風に揺られつつ、シェゾは今回の旅を思い返していた。
 
 光。
 そして闇。
 
 神。
 そして悪魔。
 
 考えてみれば、何処で何を区別すればそうなるのか良く分かりはしない。
 区別するも、それを受け入れるも拒否するも人次第。
 己に宿っている『神』がどれ程のものかはさておき、自分が進む為に役立てられればそれはそれでいい。
 闇の力も然り、光の力も然り。
 陰陽とは、それらを程良く混ぜ合わせて『楽しく』生きる為の方法。
 シェゾは自分なりにそう理解していた。
 
 来るなら、拒まないさ。
 俺は、俺なんだ。
 人一人がそうそう壮大な事を考えられる筈も実行出来る筈もない。
 その時が来るまでは。
 
 シェゾは、とりあえず今自分がすべき事として、ぐしゃぐしゃに汚してしまったアルルのお守りをどうしたものか、と悩んでいた。
 まさか、トランクルームに置いてある与一の弓を土産にしてもしょうがあるまい。
 理由を言えば分かってくれるとは思う。
 それに多分、怒ると言っても今回は無理をした事に対してだろう、とは思う。
 思うのだが、自分の女神様は怒るととにかく恐いのだ。
 かなり。
「……」
 風に銀髪をなびかせつつ、シェゾはふぅ、と軽く溜息をついた。
 だが、空はせっかくの快晴である。
 シェゾはとりあえず、先の事よりもあと六日程の船旅を楽しむ事を優先しよう、と気分を切り替えてみる事にした。
 
 
  八百万の神の国 完
 

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