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魔導物語 さくらよさくら 第二話



  華

 暫くの間は緑一色の世界だった。
 一色、と言うのは正確には語弊があるが、とにかく様々な『緑色』が彼の視界を上から下まで覆い尽くす。
 風が吹いていた。
 木々の間を縫いながら風は駆け抜け、青々とした生命力に溢れるその空気を森の隅々まで流し続ける。
 少し熱を増した空気は、只でさえ我先にと生い茂る緑を分け隔て無く後押ししていた。
「…あちぃ」
 だが、そんな空気も彼にとっては不快の一言で済む事象らしい。
「山の上のくせに、たまに熱い風が吹きやがる」
 男は着ている服のとっくりを伸ばし、空気を中に誘い込んだ。
 春を呼ぶ風も彼、闇の魔導士たるシェゾにとっては、せっかくの涼しさを奪い去る存在でしかないらしい。
 彼女の好きな風だが、どうにも好きではないのが悩みと言えば悩みなのかも知れない。
 暫くの間、緑生い茂る雑木林を進む。
 様々な緑と苔、岩や枯れ木ばかりが視界を埋め尽くしていたが、それはやがて淡い太陽の光と共に薄桃色の世界へと変わってゆく。
「咲いているな」
 桜。
 原種に近いが故に、人の手がまんべんなく加わった桜の木と比べて多少荒削りな花だが、それゆえに自然で野性的な魅力の花を咲かせている。
 そして、シェゾはそんな生命力溢れる桜の森が好きだった。
 ふと、シェゾは耳を澄ます。
 シェゾだけではない。
 桜の森の小動物、モンスター、果ては桜の木々ですら、一斉に耳を澄ましたかと思える程、空気がしん、と静まりかえる。
 シェゾはその瞬間、森と一体となる。
 そして、その耳に、否、体全体に感じるそれが、風と共に流れてくる。
 それは歌。
 森に生まれた奇跡。
 気を抜けば体を透き通り、心の奥底、魂の深淵にまで吹き込みそうなその歌をシェゾは全身全霊で受け止める。
 一瞬、自分が本当に森の空気に溶け込んだ様な感覚を覚える。
 不意に意識が飛びそうになり、シェゾは即座に己を取り戻した。
「今日はすごくないか?」
 ハーピーはいつもの様に自分の『声』を出してはいない。
 悲しくも、ある意味彼女が最も得意とする声なき歌声。
 だと言うのに、シェゾをして一瞬魂を抜かれてしまいそうになってしまった。
 一般の人間なら、今日の声に出さぬ歌、それだけで本当に危険であろう魅力、否、魔力があった。
 魔力。
 その言葉ふさわしい、あまりにも美しすぎる、罪深きその声。
 彼だけに許された至高の宴。
 ハーピーの歌。
 今日は『聞いて』も大丈夫だろうか?
 シェゾはどうかな? と口元を微かに緩め、森の奥を目指す。
 その時。
 シェゾはふとその足を止めた。
 静かに耳を澄ます。
 鼓膜に、小さな声が幾つか聞こえてきていた。
「…やく! はやく!」
「もうだめ…しんじゃう…」
「ファルはほんとうにしんじゃうかもしれないんだよ! はやく!」
 小さな子供の声。
 シェゾは声と小さな足跡が向かってくる方向を眺め、本人達が現れるのを待つ事とする。
 草をかき分ける音。
 走り詰めのせいか、咳き込む声。
 もうだめ、と泣き言を言う声が近付き、それはやがて獣道を突っ切る形で三人のマンドレイクをシェゾの目の前に登場させた。
「…!」
 一人のマンドレイクがシェゾに気付き、びくりと身を強ばらせる。
「きゃあっ!」
 そしてそれに気付かず、後ろからタックルをかましたもう二人のマンドレイクと合わせて三人が、ボールの様に転がった。
「……」
 コントの様な光景にシェゾはどうしたものか、とやや困惑しつつ、三人のコメディアンが立ち上がるのを待つ。
「いた…。アウル! いきなりとまらないで!」
 アウルを下敷きにしたまま、丁度サンドイッチの真ん中となったマンドレイク、ルミルが非難する。
「それと…エル、どいてぇ…おもい…」
「ルミル…あたしが一番おもいよぉ…」
 一番下のファルも苦しそうに言う。
「あ、ごめん」
 エルと呼ばれたマンドレイク、一番上に乗っかっている少女はよいしょ、とトーテムポールから降りた。
 続いてルミルが降り、アウルはようやく重しから解放される。
「…?」
 ふう、とため息をついて立ち上がった時、後ろのルミルとエルが石像の様に硬直している事に気がついた。
「ルミル? エル?」
 問いかけ、一つ忘れていた事を思い出す。
 自分が止まった理由だ。
 静かに、そぉっと後ろを振り向く。
「…あ…」
 かくしてそこには、自分たちの身長の四倍近くもあるであろう、天を突かんばかりの真っ黒な大男が、のっそりと立っていた。
 壁のようなマントを仰ぎ見ると、その先には真っ直ぐに自分達を見ている青い瞳。
 小さななマンドレイク達には、それがまるで猛禽類の瞳に見えた。
「…っきゃあぁっ!」
 ファルは目を覚ました様に飛び上がり、大声を上げて回れ右すると、そのまま駈けだした。
「わぁあっ!」
「まってぇーっ!」
 合わせて、残りのマンドレイク達も来た道筋そのままに、一目散に逃げていってしまう。
 無理矢理揺らされた背の低い木々のざわめきを最後に、周囲は再び静けさに包まれた。
 あっという間とは正にこの事だろう。
「何だ? ありゃ」
 十数秒かそこらにしては騒がしすぎる出来事。
 シェゾは訳が分からないと頭を掻き、少しだけ森の奥に消えたじゃり三匹を見送ってから、まぁいいかと再び獣道を歩き始めた。
 暫くの後。
 冷たい風に、ほのかに甘い香りが交じり始める。
 よほど鼻が良くなければ気付きそうにもない微かな香りだが、シェゾにはそれが人一倍強く感じられた。
 桜の香り。
 春を代弁する季節の香り。
 もうすぐ、未だ色浅い緑の世界は淡い桜色の世界に変わるだろう。
 少しだけ、歩幅を広げてシェゾは歩き続けた。
 そして世界はその通りとなる。
 緑一辺倒だった世界に、突如純白と見まごう世界が広がる。
 風と共に小さな花びらが舞う。

 そこは別世界。

 桜色と青と白、淡い土色がパステルの様な、原色の様な色合いで視覚を覆い尽くす。

 ここは別世界だった。

 舞い散る花びらがシェゾの周りを舞う。
 つむじ風と言ってしまえばそれまでだが、しかしそれはまるでシェゾの為に吹いているかの様に、花びらを優雅に舞わせた。
 それはまるで、シェゾを迎え入れているかの様に。
 更に、それを証明するかの様にもう一つのプレゼントがシェゾに届けられる。
 風が運んできたそれ。
「…いい声だ」
 声なき歌声。
 しかし至高の歌声。
 風が、ハーピーの歌声をシェゾの耳に運んでいた。
 シェゾの耳を、頭の中を巡るその歌声は足を自然に前に向かわせる。
 耳に聞こえぬ歌声は、替わりに風と共に空を踊り、合わせて桜色の花びらが美しいダンスを踊る。
 風の音一つ無く舞う桜吹雪に抱かれ、シェゾはしばし無音の歌と花の踊りを楽しんだ。
 ふと、シェゾは名残惜しそうにしながらも舞い散る花びらのカーテンをかき分け、再び歩を進め始める。
 丸一日だろうと、飽きる事なく楽しめるだろう。
 しかしこれはあくまでも前座だ。
 世界に二つと無いであろう芸術。
 だが、それでもこれは前座に過ぎない。
 奇跡は、奇跡と呼ぶにふさわしい世界はこの先にあるのだ。
 彼にしては期待に胸膨らませて歩むその足。
 だが、その足がぴたりと止まる。
「……」
 シェゾは何とも言えぬ複雑な表情で立ち止まった。
 静かに後ろを振り向く。
 まだ緑の濃い先程までの世界が広がっている。
 それ以外には何も見えない。
 再びきびすを返し、歩を進めようとする。
 ようとして、そして。
 シェゾは音もなく振り向いた。
「わぁっ!」
「きゃ!」
「んぎゅ!」
 振り向いた視線の先。
 そこには、先程見たものとよく似たトーテムポールが出来上がっていた。
「……」
 シェゾは頭を掻いてそれを眺める。
「ルミル…エルぅ…どいてよぉ…おもいぃ…」
「エル…どいて」
「あっ、ごご、ごめん。だって、いきなりルミルが止まるから…」
「アウルが止まるからだよぉ」
「なんでもいいからどいてぇ…むぎゅ…」
「あ、ごめん」
 二人は慌ててアウルの上から降り、せんべいみたいにつぶれているアウルを両方から抱え起こす。
「あの、ごめんね」
 一番被害の少ないエルが謝る。
「ううん。いいけど…」
 流石に、やや憮然としているアウル。
「でも、アウルなんで立ち止まったの?」
「何でって…何でっだっけ?」
 あれ? と首をかしげるアウル。
「…あ」
 ルミルが真っ先に、気付くべき事実に気付いた。
「え?」
 二人は、硬直しているルミルの視線の先に自分たちの視線も合わせる。
「あ」
「あ」
 声がハミングする。
「鶏かお前ら」
 三人にとっては天の上から響く声。
 シェゾが、心底呆れた顔で言った。
「きゃあぁっ!」
「まま、まってぇ!」
 先程と全く同じ光景が繰り返されようとしている。
 だが。
 走り出そうとしたその足が、三人ともまったく動かなかった。
「わぁあっ!」
「なんで? どうして?」
「こわいよぉー!」
 三者三様にパフォーマンスを繰り広げる。
 奇妙な操り人形みたいで面白かったが、このままという訳にも行かないのでシェゾは質問を開始する。
「落ち着け。別にとって食うとかしない」
「食べられるーー!」
「頭のお花食べられちゃうーー!」
「やああーーん!」
 失敗した。
「…えーと」
 シェゾはしばし考え込む。
 これはあれだ、何故かは分からないが、あいつをぐずつかせた時と同じ状況だ。
 何か言えば言う程、どつぼに嵌るって奴だ。
 かと言って泣きやむまでこのままと言うのも面倒である。
 なので強攻策に出る。
 足止めした三人の目の前に、突如クリスタルの剣が突き刺さった。
 瞬間、空気が氷点下まで冷えた様な錯覚が起こり、三人は泣く事も忘れて硬直する。
 所謂、泣く子も黙る、の状態。
 シェゾはふむ、と結果に満足し、剣を地面から引き抜いた。
「落ち着いたか?」
「……」
 半ば放心状態の三人は自動的にこくりと頷き、ただひたすら黙っていた。
 金縛りを解くと、三人はそのままぺたりと座り込む。
 それでも、誰も声を出そうとも逃げ出そうともしない。
 もはや、何かをしようと言う気は完全に消滅していた。
 成功だ。
 シェゾは結果に満足し、改めてじゃり三匹に質問を投げかける。
「誰だお前達は?」
「……」
 三人の一人、ルミルと呼ばれていたマンドレイクがおどおどと振り向く。
「わ、わたし達…」
 振り向くも目は開いていない。
 そのせいで、振り向いたはいいが少々見当違いな方向を向いている。
「こっちだ」
 シェゾは頭をひっつかみ、ぐるりと回転させる。
「やぁ…」
 抵抗がない故に、逆に怯えた声が痛々しい。
「目、開けろ」
 これなら、同じ餓鬼でもパノッティとかの生意気な方が百倍ましだ、とシェゾはやりにくそうに命令した。
「……」
 ルミルはこれ以上ない、と言う程に怯えた泣き顔で目を開ける。
 まるで、見たら石にされるというゴーゴンでも見るかの様な怯え方。
 だが。
 シェゾは、出来る限り腰を下ろし、何とか自分の目線をルミルと同じ高さに保とうとしていた。
「あ…」
 自分と比べれば大きな顔だが、目線が同じと言うだけで雰囲気はまるで違って感じる。
 どんな恐怖が待ちかまえているかと戦きながら瞳を開けたルミルは、しかし意外な光景に戸惑う。
「あの、あの…」
 落ち着いた途端、恐怖は吹き飛び、代わりにシェゾの端正な表情が視界を埋め尽くす。
「あの…」
 深い空を思わせる蒼い瞳。
 優雅な曲線でそれをつつむ瞼のライン。
 輝く雪の様な銀髪。
 同じく白い肌。
 彫刻の様な顔のライン。
「……」
 途端、頬に紅が差し、その大きな瞳は焦点を失って潤んだまま、シェゾを見詰め続ける。
 ルミルは生まれて初めて異性を、しかも極上の異性を全身全霊で意識していた。
 先程まで恐怖の発信源だった頭を掴む手は、今や初めての感覚を流し込まれる未知の泉と化している。
 年頃の乙女なら分かるが、少女どころか幼女たるこの子供にしてこの反応。
 美しい男の基準、そしてそれを見初める能力は年齢や経験に関係ない、DNAに擦り込まれている本能なのかもしれない。
「おい。どうした?」
 元凶にして何も分かっていない罪人がどうした、と答を促す。
「あ、う、ううん…あの…あの…」
 今だしっかりと捕まれている頭の上の手からは、体温以外の熱い何かが止めどなく流れ続けている。
 ルミルはのぼせてしまいそうだった。
「わたし達…あの…」
 そこまで言って足が力を失い、とうとう腰が抜けてしまった。
 ぺたりと地面に座り込みかけたルミルは、しかし幸いと言うかむしろこの場合不幸と言うべきか、とっさにシェゾにだっこされてしまう。
「何してんだか」
 少々手荒に抱きかかえられたまま、ルミルはいよいよ硬直する。
 体を丸め、顔をトマトみたいに真っ赤にし、大きな瞳がシェゾを見詰め続ける。
「あー…」
 何か言おうとするも、埒があかん、と考えたシェゾは、同じく自分を見てぼーっと立ちつくしている残り二人に答を求める事とする。
「お前ら、何している。俺に何か用か?」
「…あ、あの…」
 二人はおずおずとシェゾの方を向き、ハムスターみたいにもじもじと身をよじりながら懸命に言葉を紡ごうとしている。
 こいつよりは脈がある、とシェゾはルミルを猫の様に抱きかかえたままで言葉を待つ。
「…食べないよね?」
 小さな小さな声の質問。
「あ?」
 アウルがルミルを指さして言う。
「食えるのかよ…」
 シェゾは怪訝な顔をして、ルミルを降ろす。
 ルミルはシェゾを見詰めたまま呆けていたが、二人が横に来ると、はっと我を取り戻す。
「あ、アウル、エル…」
「大丈夫?」
「うん、ぜんぜん平気…」
 今だシェゾの腕の中から離れた事を惜しみつつも、二人に促される事でようやく三人は元通り、一緒となる。
 アウルとエルは、一緒に胸をなで下ろした。
「あの、わたしたち…ぱーぴーをさがしに来たの」
 アウルがまず口を開く。
「ぱ…ああ、ハーピーね」
 珍妙な名前にシェゾは苦笑いする。
「おにいさんは、知っている? わたしたち、そう思って…」
 三人は子猫の様に寄り添い合いながら言う。
「あの時聞けばいいものを」
 あの時とは勿論ファーストコンタクトの時の事。
「だって、おにいさん大きいから、怖くって…」
「今は?」
「こわくない」
 アウルはにっこりと赤い頬ではにかんだ。
「で、どうしたいんだ?」
「おにいさん、ぱーぴーのいる所、知っているの?」
「ハーピーだ。知っているって言ったらどうするんだ?」
「つれてって!」
 初めて三人が覇気のある声を上げた。
 頬は赤いままだが、その瞳は明確な、はっきりとした意志を表して輝く。
 何の為に? と聞きたかったが、正直面倒な事になりそうだった為、とりあえずそれは置いておく。
「着いてこい」
 シェゾはそれだけを言うと、再び桜色の世界を歩き出す。
 先程までは目で見なければ、否、目で見ても人が歩いているのかと疑う程に静かな世界だったが、それに小さなざわめきが追加される。
「きれいだねー」
「うん」
「いいにおーい」
 三人は夢の様な世界に満面の笑みを浮かべながらシェゾの後について行く。
 暫くはそうだった。
 やがて。

 あら?

 シェゾはその『声』に顔を上げた。
 視線の先。
 そこに居たのは他の誰でもない。
「よう」
 お久しぶりです。
 ピンクの緩やかなウェーブヘアが風にそっとなびいていた。
 白いワンピースドレスに包まれる、これもまた白い肌。
 水晶の様に輝く蒼い瞳がシェゾを見る。
 ハーピー。
 声なき歌姫が、桜の木の枝の上からシェゾを見つけた。
 うっすらとピンク色の羽を広げ、ふわりと枝から降りる。
 程なくしてハーピーはシェゾの目線よりやや下の位置に降り立ち、改めて眩い微笑みをシェゾに送る。
 そして。
 …あの、お子様…?
 ハーピーは首をかしげながら右手を口に当て、あら? と不思議そうに問うた。
「いや、これは…」
 シェゾはそう言って首の回りに視線を落とす。
 シェゾの首周り。
 前も後ろも、肩の上にまでそれはいた。
「くぅ…」
「すぅ…」
「むにゃぁ…」
 三人のマンドレイクはシェゾの首周りにかじりつき、だっことおんぶで寝息を立て続けていた。
 見た目はまるで父親と娘である。
「これはな…」
 両手がふさがっているシェゾは何とも難しい顔でハーピーを見る。
 くすりと微笑むハーピーの笑顔は、それでも眠たくなる程に優しく、甘かった。





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