プロローグ Top 第二話


魔導物語 さくらよさくら 第一話



  つぼみ

 ごう、と風が吹いた。
 その森は人の足踏み入れられる事もまばらな深く、遠い山中に広がっていた。
 歌姫の住む、かの森より更に一山離れたその場所に、そこ程ではないが同じ様に桜の木が茂る森があった。
 春に乗り遅れまいと植物が芽吹き始め、土の下で春を待っていた動物達、そしてどこからともなく現れ始める森の精霊達、更には比較的無害なモンスター達も、舞台の出番が来たとばかりにその存在を森と言う名のステージで我先にと演出し始める。
 桜はほぼ満開。
 普段より幾分容積を増したかに見える木々からは、時折ちらちらと花びらが舞い落ちる。
 緑のもり、しかし今は桜色の森。
 そんな森の奥から、複数の子供の声が聞こえていた。
 声は一つ、二つと増え、黄色い声は合計で六つになる。
 木々の枝が細やかに太陽の光を遮り、その明暗がシャワーの様に光を地面に落とす陽光の下。
 その声の主達は、大きく、黄色い声で楽しそうにきゃあきゃあとはしゃぎながら走っていた。
「まってー!」
「こっちこっちー!」
「はやいってばー!」
 その声は大人の背より大分低い位置から聞こえる。
 子供と比べても尚それは低かった。
 やがて、木々のアーチの奥から小さなそれは現れる。
 森の奥から、足音と共に小さな小さな子供達が現れた。
 身長はひいき目に見てもせいぜい五十センチ程度。
 青々としたグリーン系の髪がたなびく頭の上には、これもまた瑞々しい、青緑の植物の茎が一本、天を突いて元気に伸びている。
 そしてその先端には、淡いピンクや黄色、青色と言った様々な蕾が付いている。
 子供達は頭の上の蕾をぶんぶんと揺らしながら、森の中を走り回っていた。

 マンドレイク。

 世間一般の眼で言えば所謂モンスターだが、そう呼ぶにはあまりにも愛らしい容姿と、澄んだ瞳を持つ子供達。
 まるで子猫達がはしゃいでいるかの様だった。
 どの動物であろうと、子供のパワーというものには限界がない。
 森の中を風の様に走り回るマンドレイク達は一瞬とて止まる事無く、縦横無尽に森を遊び場としていた。
 だが。
「はぁ…はぁ…」
 五人と思われていた集団から遙かに後れて一人、大きく肩で息をしながら皆を追いかけようとしているマンドレイクが居た。
 暖かな陽気とはいえ不自然な大粒の汗が頬を伝う。
 ふと、マンドレイクの足下がもつれ、側の木にぶつかる様にしてよろよろと肩を預ける。
 そしてそのままずるずると身を下げると、マンドレイクは苦しそうに浅い呼吸を繰り返した。
 まるで、呼吸する事すら苦痛であるかの様に。
「ファル、大丈夫!」
 先を走っていたマンドレイクの少女一人が駆け寄って、うずくまっているマンドレイクの少女の肩を揺すった。
「…うん、へいき」
 大丈夫、と笑うが、その笑みはどこか苦しげ。
「ほんとう?」
「うん、だいじょうぶだよ」
「そう? …あ」
「?」
 ファルと呼ばれたマンドレイクの頭を、もう一人のマンドレイクが見ていた。
 そして、小さく声を上げる。
「アウル、どうしたの?」
 今彼女を解放しようとしているマンドレイクの名前らしい。
 ファルが不安げに問う。
 その間に、残り三人のマンドレイクも集まる。
 皆が、心配そうにファルと呼ばれたマンドレイクを見守っていた。
 そして、その視線は一カ所に集中する。
「ファル…頭の…」
 アウルは怯えた様に呟いた。
「!?」
 ファルがびくりと身を縮める。
「…え…?」
 元から弱々しかったその瞳が、更に恐怖と怯えに曇る。
「ファル…」
「どうしよう…」
 他のマンドレイクの少女達も、自分のことのように慌てふためく。
 太陽は先程と変わらず皆に降り注いでいるというのに、先程までの明るい光景とは天と地の差があった。
 まるで、これから冬になるとでもいいたげな程に空気が重くなっている。
 ふと、一陣の風が森を吹き抜ける。
 春の風だと言うのに、その風は身を竦める程に冷たい風だった。

 森に風が吹いている。
 無論の事無色、無味だが、春の風はまるで甘い菓子の様に暖かく、そして柔らかい。
 薄く、淡い、桜色の春を運ぶ風。
 さくらの森。
 暖かな風。
 春の息吹を運ぶその微風は森を端から端まで、全ての木々を巡るかの様にゆっくりと吹き抜けていた。
 風が通り抜けるたびに、さあっと桜の木々が枝を揺らす。
 その度に満開の枝からはふわりと桜の花びらが舞い上がり、我先にとその風の旋律に身をゆだねて風とダンスを舞い続ける無数のそれ。
 淡く、そして生命の力強さに満ちたほんのり甘い香りが森を満たしていた。
 だが、この美しい舞台には誰一人として観客は居ない。
 世界でただ一人、その舞台で歌うにふさわしい歌姫は、あまりにも、あまりにも美しく、そして哀しいから。
 人々は、己の耳でその歌姫の声を聞く事は一生適わない。
 聞いて貰う事も、聞く事も出来ぬ至高の歌。
 聞く事の出来ぬ人間にとって残酷なのか。
 それとも、聞いて貰えぬ彼女にとってこそ残酷なのか。
 だが、ただ一人。
 たった一人を除いて、その唄は歌われる。
 森は歌姫の為だけに、そしてその一人の為だけに桜を咲かせているのかも知れない。
 花びらは舞う。
 早く来て欲しい。
 早く花を見て欲しい。
 そして、早く歌って欲しい、と。
 森の奥から、いつもの様に歌姫の声なき歌が流れ始める。
 森は望む。
 一刻も早く、その声が本当に聞ける時を。
 歌姫は望む。
 一刻も早く、世界で唯一の観客が、この世でただ一人の愛しき彼が来てくれる時を。

 喧噪が支配していた。
 桜の木々が通路沿いに生い茂る街外れの公園。
 そこには、やや小振りではあるが、枝と言う枝にわんさかと薄桃色の花を飾り付けた桜が、文字通りの花吹雪を風に舞わせ、碁盤の目の様に並んでいた。
 花見真っ盛りのこの季節。
 人々は昼夜を問わずその公園で花を肴に季節の変わり目、春の到来を祝っていた。
 最も、それは名目。
 実際は、花を満開に咲かせるそれの下、人々は笑い声や奇声を発したりしつつ、勝手気ままに食を楽しんだり、宴会や喧嘩、酒や踊りを楽しんでいるに過ぎない。
 一体、花を楽しんでいる連中はこの中にどれ程居るのだろう。
「……」
 そんな宴もたけなわな世界を、一人無言で突っ切る男が居た。
 淡い桜色が舞う世界に置いてその男は実に異質。
 真っ黒な服装に身を包み、装飾品らしい装飾品一つ付けぬ男が、まるで周囲に花など無い、とでも言う顔で歩いている。
 花の舞う世界、周りの喧噪など、彼の目、彼の耳には届いていないのだろうか。
「あんちゃん、不景気なツラしてねぇで飲まねぇか! ぎゃはははっ!」
 すっかり虎(ダメ虎)になった男が、止せばいいものをその男に突っかかる。
 男は無言で通り抜けようとするが、酔っぱらいはそれを無視する程頭が良く無かった。
「ちょっろまてやガキ、おろなが言う事は聞…」
 愚者が男の肩に手を触れた瞬間、男が消えた。
 瞬間的に突風が吹き、男達が持っていた酒のグラスと地面に置いてあった脂っこい料理に砂や葉がトッピングされる。
 乱闘でも起きぬか、と面白がって傍観していた酔っぱらいのグループが息を呑み、更に揃って身を縮み上がらせる。
 何が起きた訳ではない。
 男が振り向いた。
 それだけだ。
 烏合の衆を睨むその蒼い瞳は、まるで溶ける事のない氷の様に静かに輝いて見えた。
「水はまだ冷たいぜ」
 酔っぱらい共は意味も解らずその言葉に縮み上がる。
 男はそれだけを言うと、さも下らぬ、と言う涼しげな表情を残し、場を後にする。
 酔っぱらい共がその言葉から、土左衛門になりかけた阿呆をすぐ側に流れる川から引き上げるまでには、今から少しの時間が必要だった。
 幾つもの喧噪の間を縫う様に歩いている男はようやく公園の外れに辿り着く。
 そこで初めてふぅ、と大きく深呼吸した。
「…ったく」
 彼は不機嫌だった。
 自分は風流だ、等とは思わぬのだが、それにしても公園の乱痴気騒ぎは桜に対して失礼だと思わざるを得ない。
 自分も酒は嗜むが、何が悲しくてあそこまで愚かにならねばならぬのか理解出来ない。
 彼にとっては、マナー云々の道徳的な話よりも、酒ごときに自意識を犯される事を強く嫌う。
 元より騒ぐのを好まぬ性もあるとしても、とにかく一般の桜見と言う行為は彼にとって不快以外の何者でもなかった。
 こんなに綺麗に咲いているってのによ。
 しかも、来るたびに何かしら同じ様な境遇に見舞われる気がする。
 男は、生まれる場所を選べぬ桜を哀れみつつ、自分の次の行動を考えた。

「『桜見』に、行くか」

『家を出た時から決めていたではないか。
 どこからか、彼だけに聞こえる囁き。
 それは闇の剣のささやき。
 闇の魔導士にのみ聞こえる声に、闇の魔導士たる男は反応する。
「暇なだけだ」
 闇の魔導士、シェゾ・ウィグィィはゆっくりと歩き出した。
 暇だから行くには険しすぎる道を通り、彼は歩き出す。
『見に行くのは花か? それとも、華か?
「やかましい」
 それ以上応えず、シェゾは獣道を歩く。
 森から吹く風が、彼を誘うかの如く花びらを載せて舞っている。
 可憐なる『華』も、彼を待っているから。
 そう、彼女の心情を代弁するかの如く。

 彼には聞こえただろうか。
 遙か遠くの桜の森より歌われる声なき歌声が。
 誰でもない、彼を求めて止まぬ、切なき愛の歌が。
 桜の花は、彼をせかすかの様に背中から花びらを押しつけていた。





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