第十話 top エピローグ


魔導物語 少年の色々な意味で危険な一日 最終話



 アルルはシェゾを探して周囲を見回す。
 砕けた棚と本が散乱する祭壇には未だ釜から赤い炎が燃えさかっている。
「あ!」
 アルルは見つけた。
 釜の前にあぐらをかいて頭を垂れている少年の姿を。
 その小さき姿。
 あれは間違いなく彼。
 子供の姿となったシェゾ・ウィグィィだ。
「シェゾ!」
 アルルが足を出す。
 その時、ウイッシュはシェゾを見て瞬間的にこれ以上無いという程の恐怖で背筋を凍らせた。
 走り寄ろうとしたアルルはウイッシュに抱き留められる。
「ウイッシュさん!?」
「ち…近寄っては駄目!」
 刃の様に鋭い声だった。
 アルルは反論する気も失せて立ちすくむ。
「シェゾをし…刺激しては駄目です」
 ウイッシュにしては珍しく滑舌が回らない。
 それは怯え以外の何物でもない。
「あ、あの…」
「シェゾは、今耐えています。必死に…。分かりませんか? 彼から吹き出すどす黒い、いいえ、あまりにも黒い故の、純粋な闇の波動を…」
 アルルは恐怖のあまり自分を抱き留めているウイッシュの手の爪が腕に食い込んでいる事に気付く。
 あの冷静沈着、威風堂々とした森の魔女を少女の様に怯えさせているそれは一体何なのか?
 アルルの今の魔導力では、あまりにも圧倒的すぎる『それ』は逆に探知する事が出来なかった。
 あまりにも無垢な力はそれを知らないから。
 だが。
「な、なにか…シェゾの周囲に…何?」
「感覚で異変を掴んだようね。シェゾは今、自分が変わらない様に必死に自分を押さえつけている。今、彼の力と悪しき力は、羽が触れるだけでも崩れてしまう程にぎりぎりの臨界まぎわ…」
「シェゾ、シェゾはどうなるの?」
「時間が必要よ」
「時間?」
「大丈夫。今、この状態で力を押さえていられる彼なら、このまま全てを封じる事が出来る。時間がかかるけど、必ず…」
 強く、しかし優しい声だった。
「く、薬を作ってくれるんじゃなかったんですか!?」
「…今から、間に合えばいいのだけど…」
 無責任な、とよほど言いたかった。
 だが、ウイッシュは人の事は後回しにしてでも一族の仇を討ちたいのだろう。
 自分の一族、肉親とも言える魔女達を虫けらの様に惨殺されたのだから。
「作ると言ったのに…ごめんなさい。私の事なら、いくら憎んで構いません。でも、どうか無惨に命を散らしたあの子達の事は許してあげて。どうか、お願い…」
 声が震えている。
 ウイッシュとて、シェゾを見殺しにする様な真似はしたくないのだ。
 だが、それにもまして一族の仇を討ちたかっただけなのだ。
 その気持ちを考えれば、正直個人的には腸わたが煮えくりかえりそうなのだが、どうしてもそれは言えなかった。

「シェゾぉ…」
 かわりに、彼が味わっているであろう苦痛を想像し、アルルは痛みよ自分へ移れと言わんばかりに涙をぼろぼろとこぼしながら呟く。
 その涙はアルルを押さえつけたままのウイッシュの手に落ちる。
「大丈夫。彼なら、シェゾなら、押さえ…」
 言いかけ、ウイッシュの心臓が文字通り凍り付く。
 いつの間にか、シェゾの後ろに、骨と呼ぶのも失礼な程に朽ちたガルディアの胴体が立っていたのだ。
 頭部は既に無い。
 それでも尚、骸とも呼べぬ体に彼は怨念を棲まわせていた。
「やめなさ」
 叫ぶ間もなく、ガルディアの体から骨が尽きだし、シェゾの背中に突き刺さる。
 その瞬間、シェゾの体から目に見える程の黒い波動が噴き出し、ガルディアの骸の残骸は吹き飛ばされ、塵になった。
 石の様に動かなかったシェゾが立ち上がる。
 垂れていて頭をゆっくりと持ち上げ、彼の瞳がアルル達を捕らえる。
 その瞳は、海を切り取った様なあの透明な、深い深い海の様な蒼ではない。
 煮詰めた血を丸く凝固させた様な、黒より黒く見える深紅。
 そしてその煮えたぎる様な紅い瞳がぎらりと輝く。
 ウイッシュはアルルを抱きしめ、今自分が練っていたありったけのマナを昇華させてシールドを張る。
 シェゾが右手を大きく払う。
 途端、二人を包んでいたシールドはしゃぼんの泡より脆くかき消え、二人は枯れ葉の様に転がりった。
「シェゾ…」
「いけない…解放しては…」
 一瞬でぼろ布の様になった二人が、朦朧とした意識の中で必死に訴える。
 少年のままの姿。だがそれ故に恐ろしいその姿。
 シェゾの口がゆっくりと開く。
 そこには、四本の乱杭歯が白く輝いていた。
 アルルは気が遠くなる。
 その姿。
 それはまさしく吸血鬼だ。
 シェゾは右手に闇の剣を呼び、天井へ掲げる。
 クリスタルの刀身が白く輝き、天に向かって稲妻が飛ぶ。
 ウイッシュは再びシールドを張る。
 天井からは、それを待っていたかの様に土や木材、岩が雨の様に降り落ちた。
 シェゾは空を仰ぎ、仁王立ちの姿勢のままでマントを開き、弾かれる様に飛んだ。
「シェゾーっ!」
「う…動かないで! シールドがぎりぎりなの…!」
「シェゾーっ!」
 押さえつけられたまま、アルルは叫んだ。

 大穴が空いた衝撃を覗けば、下の喧噪が嘘の様に静かな地上だった。
 そこは街からはずれ、古墳の様に盛り上がった丘の上。
 今しがた空いた穴から、シェゾは浮き上がる様に出現する。
 側に降り立ち、シェゾは天に向かって両の手を掲げる。
 周囲は雲一つ無い満天の星空だったが、水から墨汁が染み出る様にして、黒い雲が湧き出し始めていた。
「雲が!」
「いけない…! 何か大変なモンスターを召還しようとしている!」
 ウイッシュに抱きかかえられ、二人は落盤によって空いた無数の穴の最も遠い位置から、フライを使い脱出した。
 空が見えたと思った瞬間、二人を狙い澄ましたかの様に落雷が発生する。
 ウイッシュはそのまま後ろへ跳び、百メートル単位で飛びながら距離を取る。
 稲妻は二人が数キロ離れるまで追ってきた。
 ようやく雷の追撃が収まった頃に空を見たウイッシュは、今まさに自分たちの頭上を覆おうとしている雲の動きに驚愕する。
「止めなければ! きっと、呼んではいけない物を呼ぼうとしている!」
「とと、止めるって…シェゾを倒す!? ダメ!絶対ダメっ!」
「安心なさい。悔しいけど、正直正攻法だろうが闇討ちだろうが、どのみち勝てる相手じゃないわ。理性を消し去った闇の魔導士にはね…」
「それは良かった…よ、良くないけど! 一体どうすればいいんですか? あの時もそうだけど、どうしてなんかヘンなのばっかり召還しようとするの?」
「攻撃魔導っていうのは強力だけどね、例えば今の彼なら、絶望的に壊滅的な破壊を…そう、アレイアードを発動させればそれこそ発動した範囲数キロメートル内はクレーターみたいになる。けど、どんなに強力でもそれは局地的だし、一瞬よ。いかにアレイアードと言えども、火山の噴火に匹敵する様なエネルギーは一瞬こそ可能だけど、それを持続しては起こせない。でも、モンスターを召還すれば、あとはそれが勝手に暴れ回ってくれる…。召還で使うエネルギーの割には、破壊の度合いは遙かに大きいのよ。しかも、自分で動き回って破壊するのだから遙かに効率的だわ。それに、恐怖、絶望感までついて回る」
「…あの吸血鬼、それを狙って?」
 ウイッシュは頷く。
「…間に合って…」
 ウイッシュが、今や月も見えなくなった暗雲の空を仰いで呟く。
「え?」
 アルルがつられて空を見る。
 何もない。
 暗雲は稲妻を落としながら、みるみるうちに、布団を重ねていく様に重く、濃くなってゆく。
 やがて暗雲からは稲妻が更に数を増やして光り出す。
 それは周囲に雨の様に降り注いだ。
 シェゾはのけぞる様に両の手を天に掲げ、古代語らしき呪文を大声で詠唱している。
 それはまるで天に向かって我ここにありと宣言しているかの様であった。
「く、来る!」
 ウイッシュが声を上げ、頭を抱える。
「うぁ…」
 アルルも同じだった。
 大気が振動している。
 巨大な暗雲の中央がじわじわと台風の目の様に開くが、その奥にあるのは夜空ではない。
 信じられないが、その奥にあるのも大地だ。
 異次元のいずれかの大陸が、雲の穴の向かい側に出現していた。
 向こう側は昼なのだろうか。
 穴は昼間の様に明るく見える。
 降り注ぐ雷の中、雲の穴は大きさを増してゆく。
 そして穴の向こうの大地から、何か小さな黒い点が見え始めた。
 アルル、そしてウイッシュすら子供の様に震え上がる。
 それはシェゾが異世界より召還しているモンスターに他ならないのだから。
 空間が揺らぎながら、小さく見える点をじわじわと呼び寄せている。
 その雲は、空間を繋ぐパイプの様なものらしい。
 その時、二人を呼ぶ声が聞こえた。
 アルルとウイッシュは振り向く。
「おばあちゃん! アルルさん!」
 それは、箒に乗って飛んできたウイッチだった。
 雨あられと降り注ぐ雷の間を突っ切り、時折雷の衝撃に二回三回と危なげにその小さな体を回転させながらも、ウイッチは弾丸の様に飛ぶ。
「ウイッチ!」
「わたくしにおまかせあれっ!」
 二人の頭上をハヤブサの様に駆け抜ける。
「きゃっ!」
 その瞬間、ウイッチが小さく悲鳴を上げる。
 ウイッチの後ろにはウイッシュが、そしてウイッシュの背中にはアルルがへばりついていた。
「わわわわあああっ!」
 突然の急加速にアルルが泡を吹く。
 三人乗って速度が落ちないのはウイッシュの技の賜物か。
「アルル、三人でゆきます! ウイッチ、あれは出来ましたね?」
「出来ました! 完璧です!」
「え? ウイッチ? …もしかし…わぁっ!」
 話そうとして、アルルは風の振動に振り落とされそうになる。
 とっさにウイッシュが振り向きもせずアルルの腕を掴んで引き戻す。
「話は後です! ウイッチ、アルル! あなた達最大最強の攻撃魔法を彼に撃ちなさい! 遠慮は要りません! どうせ擦りもしないでしょうから!」
 悔しいと言うよりやけくそと言った感の口調。二人はこんな事態だというのに、おもわず笑い出しそうだった。
 だが。
「用意!」
 ウイッシュの声と同時に三人は、彫像の様に両手を天に突き上げたシェゾを睨み、その手を向ける。
 三者三様に、体の回りにマナの気が渦巻く。
 ウイッチは真正面で。
 アルルは体を右にずらして。
 ウイッシュはウイッチの頭の上で手を掲げる。
 その状態で空を飛ぶその光景。それはまるで光の螺旋が飛翔しているかの様だった。
「撃てっ!」
 声と共に、三人がそれぞれ気合いの入った声と共に魔導を放った。
 ウイッチはあらん限りの威力のメテオを。
 アルルは傷を負った両腕から、再び渾身の力を込めたフレア(爆裂系最上位魔導)を。
 メテオが、エクスプロージョンがシェゾの周囲に爆炎を起こす。
 まるで地獄のような光景だというのに、直撃はない。
 いや、彼を襲ったそれぞれ怒級とも言える魔導が、微風にすら煽られるタンポポの綿毛の様に悲しく軌道を変え、仕方なしに周囲に着弾したのだ。
 被害こそ無いが、流石にシェゾの瞳がこちらを睨む。
 未だ四百メートルを超す距離を置きながら、シェゾの紅い瞳がこちらを見たと分かる。
 アルル、ウイッチは想い人からのそれだと言うのに、その凍てつく視線に思わず背筋を凍らせた。
 それを待っていたのがウイッシュだった。
「聖なる光よ!」
 周囲よりマナを吸収したウイッシュの体が眩く発光し、その両手に光が集約する。
 次の瞬間、それは光の柱となり、両の手から撃ち出された。
 天に向かって。
 ホーリーレーザーの威力は箒をがくりと押し下げ、ウイッチは慌てて軌道を直そうと奮闘する。だが、錐揉みとなった箒は舞い落ちる木の葉の様にめちゃくちゃだ。
 一緒に落下するウイッシュは、それでも自分が放った光の先を目で追う。
 光が到達する場所。
 シェゾもそれに気付く。
 ホーリーレーザーは、シェゾではなくシェゾが呼び出そうとするモンスターを狙ったのだ。
 堪らぬ不意打ちを食らったのは他でもないモンスターだ。
 ようやくその姿が米粒の様な大きさながらも見え始める。
「あれ…つ…ツインドラゴンっ!?」
「何ですってぇ?」
 アルル、ウイッシュが叫び、それを確認したウイッシュも蒼白となる。
 無理もない。
 こちらの世界のドラゴンすら、十分に最強と呼ぶに相応しいモンスターである。
 それが異世界からの、しかも魔界の魔王連中すら逃げ出すと言われる双首のドラゴンとなれば、その恐ろしさは想像を絶する。
 だが、不意打ちを食らったツインドラゴンは灼熱の光をまともに浴び、流石に得体の知れぬ悲鳴を上げてもがく。
 予定を狂わせた彼女達も邪魔であろうが、何より優先すべき事柄がある。シェゾは一気にこちらの世界へモンスターを引きずり出そうと穴を一気に広げる。
「シェゾ、やめてーっ!」
 アルルの叫びはむなしく木霊する。
「無駄です。今、彼は一刻も早くツインドラゴンをこの世界に呼び出そうとしています。そうなったら、もうお終いと言っていいわ」
「で、でも攻撃当たっていますわ。これなら…」
「ツインドラゴンは、自由に動ける様にさえなれば私達魔導士の攻撃など相手ではありません。今、ツインドラゴンが攻撃を甘んじて受けているのは、空間移動中につき身動きが殆ど取れないから、それだけなのよ」
「今が…今しかないって事ですか?」
 頷き、そして空間の広がりを見極めてウイッシュが叫ぶ。
「貴女達! 今です!」
 ウイッシュが地面すれすれで箒を飛ばしながら叫ぶ。
 声と同時に、周囲からシェゾを囲む様にして小さな点が見え始める。
「あ、あれは!?」
「魔女ですの?」
 二人は視界を逆さまにしながら叫んだ。
 黒く現れた点は三百六十度全方向から周囲を固め、一斉に点の穴に向かって魔導を放つ。
 色、形、様々な攻撃魔導が点の穴目掛けて飛ぶ。大きく開いた穴は格好の照準となり、殆どの魔導が穴の中に吸い込まれ、そして皮肉にもこちらの世界へ近づく程に確実な的となるツインドラゴンへ直撃する。
 その時、雷雲から今までとは明らかに動きが異なる稲妻が降り注ぎ始める。
 それは、確実に魔女達を狙っていた。
 シールドを破壊し、衝撃を受けた魔女達が落ちて行く。
「ミーシャ! ジョアン!」
 ウイッシュが叫んだ!
 視線をシェゾへ向ける。
 そこには、更に煌々と瞳を光らせ、雲を操っているシェゾが居る。
 狙いを魔女達へ向け始めたのだ。
「ウイッチ! 薬!」
「こ、これです!」
 ウイッシュは薬を受け取ろうとしたが、その瞬間、反射的にシールドを前の二人に張り巡らせた。
 同時に衝撃波が箒を遅う。
 シェゾが直接、魔導をこちらへ放ったのだ。
「あっ!」
 無防備だったウイッシュが、箒から吹き飛ばされる。
「おばあちゃんっ!」
「薬を…! シェゾにっ!」
 高速で飛ぶ箒はあっという間にウイッシュの姿を見失う。
「おばあちゃぁぁぁんっ!」
 ウイッチが叫ぶ。
「ウ、ウイッチ! シェゾに、薬をっ!」
 自らの分を捨ててまで、ありったけのシールドを二人に回してくれた、そのおかげで二人は吹き飛ばされずに済んだ。
 シールドは一撃で消滅したが、おかげで速度は落ちていない。
「は、はいっ!」
 ウイッシュならこの時何をしろと言うか。
 それだけを考え、ウイッチは迷わず箒を飛ばした。
 ウイッチが手に持つ薬は、涙型のガラス瓶であり、とんがった部分が針の様になっていた。
 これを射すと言う事らしい。
「シェゾーーーーっ!」
 二人は願う様に叫んで突っ込む。
 だが、一直線に飛んでいた箒が、まるでレールに乗っているかのようになめらかに方向を変え、シェゾの横数メートルを通過してしまった。
「!?」
 驚いたのはウイッチである。
 箒の操縦には自信があるのだから。
「い、今のは…」
「流体型バリアだよ! 硬質なバリアより遙かに質が悪いやつっ!」
 硬質なバリアは、ある程度の衝撃を与えれば破壊はし易い。だが、概念としてだが弾力を兼ね備えたバリヤーはよほどの衝撃を加えない限り、それにかかった応力を受け流してしまう。
 ガラス玉は砕けるが、ゴムボールは砕けないのだ。
 通常の魔導士では発生させる事など出来ない。シェゾだからこその完璧な発動。
 そして今、魔導力の制約を解除した彼がそれを発生させた。それは、事実上、破壊は不可能と言う事になる。
「ど、どうすれば…」
 周囲を旋回しつつ、ウイッチが泣きそうな声で呟く。
 その間にも、ツインドラゴンはゆっくりと、確実に近づいていた。
 攻撃を加えている魔女達も次々と稲妻に撃たれ、戦線離脱する者が連鎖式に増えている。
 万事休す。
 そう思った時、アルルが思いつく。
「ウイッチ、薬渡して!」
「え?」
「話は後!それでね、もう一度シェゾに向けて飛んで、ボクをシェゾに向けて降ろして!」
「え、ええっ!? そんな事しても、バリアはなんでも弾きますわよ!」
「なら、開いて貰うんだよ」
 アルルはそう言うと、自分の服の首を思い切り引っ張り、ぶちぶちと縫い目の裂ける音を出して右の肩口をもう少しで胸が見えそうになるくらいまで露わにする。
「! まさか!?」
「オトメの生き血は、吸血鬼の大好物だよ」
 笑いながらも、真剣な眼差しでアルルは言う。
「…わたくしでは、ほんの少々の差ですが、アルルさんに比べてボリューム不足ですわね」
 限りなく無謀だ。
 だが、それ以外の方法もあり得ない。
 アルルから命を賭した覚悟を感じたウイッチは、どんなにかその行為を止めたい衝動を抑え、あえて軽口応える。
「薬は出来るだけ心臓に近い位置へ! 一気に体内へ流す程効果的です!」
「了解!」
 箒は一度離れ、そして思い切り勢いを付けてシェゾに向かって飛んだ。
「シェゾーっ!」
 アルルが叫ぶ。
 シェゾは振り向いた。
 その目に飛び込んだのは、首筋をさらし、こちらへまっすぐに落下してくるアルルだった。
 その行為には眉一つ動かさぬが、露わとなった首を見て吸血鬼の本能が働く。
 体の中からやめろ、と言う声が聞こえた気がする。
 だが、シェゾはその声を聞き、逆にほんのわずかに我を取り戻した。
 バリアが消える。
 アルルは、シェゾに向かって飛び込んだ。
 彼の体にぶつかる瞬間、圧縮された空気が間に生まれ、殺人的な速度が消え去る。
 アルルはシェゾの頭に腕を回して抱きつく形で収まる。
 希望がある。
 アルルは信じて語りかけた。
「シェゾ…このくす…」
 言いかけ、首筋に恐ろしい感触を感じる。
 首の動脈に、生暖かな息と凍る様な冷たさの牙の感触があった。
「アルルさんっ!」
 空でウイッチが叫ぶ。
 アルルの首筋に牙が食い込み、血が噴き出す。
 その瞬間、血液の中に何かが入ってきたのが分かる。
 体中の血管という血管の中の血が、まるでゼリーの様に凝縮したかと思えた。
「…シェゾ…シェゾぉっ!」
 急激に遠のく意識の中、アルルは手に持っていた薬をシェゾの背中に突き刺した。
「!」
 シェゾの体がびくりと痙攣する。
 逆流した血が薬の色を変えるが、それもすぐに体の中へ流れ込む薬と共に消える。
 十秒ほどでそれは全てが注入された。
 シェゾ、アルル共に動かない。
 ウイッチは息をするのも忘れてその光景を見続けていた。
 やがて、アルルが倒れ、シェゾはがくりと膝をつく。
 大きく深呼吸を繰り返し、玉の様な汗をかくシェゾが天を仰いだ。
 その瞳は蒼。
「シェ…シェゾぉっ!」
 ウイッチは弾ける様にしてシェゾの元へ降りた。
「シェゾ! シェゾですわよね!」
 すぐ前に立ち、涙をぼろぼろとこぼしながら繰り返す。
 シェゾは疲れ切った瞳でウイッチを見る。
「…ああ」
 その姿は未だ子供のままだ。
 だが素っ気ないその返事は、確かにシェゾの返事だった。
 シェゾは真っ青となり首から血を流して倒れているアルルの横へかがみ、左手首を闇の剣で斬った。
 ウイッチは過激なその行為に息をのむ。
 手首からしたたり落ちる血を左手で受け、それをそのままアルルの首筋へ当てる。
 そして気を練りはじめる。
 やがて、首筋から何かどろりとしたものが流れ落ちはじめ、それと比例して青白くなっていたアルルの血色が回復する。
 少しして手を放す。
 アルルの首の傷はほぼ消えていた。
「アルルさん…」
 涙と共に笑顔がこぼれ、ウイッチは服が汚れるのも構わず、血だらけのアルルを抱き上げ、そのまま頬ずりして抱きしめた。
「ウイッチ、アルルをつれて、それから周りの魔女連中を出来る限り遠くへ逃がせ」
「え?」
 顔を上げる。
 そこにいたのは、元の姿、青年の姿へと戻ったシェゾだった。
「直ったのですね!」
「早く行け。間に合わなくなる」
 シェゾは剣を天に向けて促す。
 ウイッチが視線で追った先には、もうその姿がはっきりと見て取れる程に近づいたツインドラゴンが居た。
「は、はいっ! あのあの、シェゾ!」
 シェゾの助けで箒にアルルを乗せ、自分も大あわてで乗りながらウイッチが言う。
「何だ」
 箒を浮かばせ、目線が同じになった時、ウイッチはシェゾに、小鳥のついばみの様にそっと唇を重ねた
「がんばって!」
 ウイッチは飛んでいった。
 シェゾはやれやれ、と口元をゆるめ、そして天を仰ぐ。
「さて、後始末だ…」

「ウイッチ!」
「おばあちゃん!」
 ウイッチは他の魔女の箒に相乗りしていたウイッシュを見つける。
「おばあちゃん! 急いで全員を退避させてください! 大急ぎ、超特急です!」
「分かりました」
 その言葉の意味する所を理解したウイッシュは、天に向けて花火の様な光を発する。
 それは見えなくとも波動で関知できる信号だ。
 落ちた者を乗せた箒や、傷ついた者を箒毎引っ張りながら、魔女達が一斉にその場から離れて行く。
 それは蜘蛛の子を散らすと言う表現がまさにぴったりだった。
「ウイッチ、見ておきなさい。発動してはならない魔導です。ですが、見る事が出来るなら、それは魔導士として幸福とも言える魔導です。尤も、自分に向けて発動された日には堪りませんけどね」
「は、はい」
 ウイッチは全速力で後退しつつも、空を覆い尽くす雲、そこから落ちる稲妻。
 そして、その下に居るシェゾの方向を見つめ続ける。

「お前自身には罪はないんだろうが…」
 あとわずかでこちらの世界へ出現しそうなツインドラゴンを見上げてシェゾは呟く。
−主よ。
 闇の剣が語りかける。
−今、主の体はぼろぼろだぞ。
「分かってるって」
 シェゾは何のためらいもなくその体に気を溜め始める。

「!」
 箒に乗せられたまま気を失っていたアルルが、びくりと飛び起きた。
「きゃっ!」
 ウイッチが驚いて落ちそうになる。
「あ、アルルさん! 危ないですわ!」
「いい、今…空気が…ずぅんって…」
 蒼白となった顔でアルルが言う。
「流石におわかりね。もうすぐ、大変な魔導をご覧になれますよ」
 併走しているウイッシュが言う。
「え? あれ? えと…シェゾ! シェゾは?」
「ご心配なく。あなたの作戦は成功です。今、彼は後始末をしているのです。しっかり見届けましょう」
「……」
 けだるい体を起こし、アルルは後ろを見た。
「み、見えるんですか?」
 既にシェゾの居る地点から距離は十キロは離れようとしていた。
 最早雲すら小さな固まりに過ぎない。
「彼は闇の魔導士でしょう?」
 その声を合図にしたかの様に、後方から地鳴りが響く。
 空気が重々しく振動し、陽炎の様に揺らぐそれは衝撃波となって迫る。
「全員シールド!」
「う、うわぁっ!」
「きゃ!」
 ウイッシュのかけ声と同時に衝撃波が到達し、皆が木の葉の様に揺らされた。
 そして、地上の一点から空間を切り抜いたかの様な黒い筋が天に向かって伸び、雲に空いた穴へ到達する。筋は一気に太さを増し、遅れて轟音と突風がウイッシュ達を襲う。
 竜巻がそよ風かと思える程の凶悪な風はひとときも休まることなく吹き続ける。十キロ以上離れてこれなら、一体、彼の周りはどうなっているのか。
 雲の中へ伸びた黒い筋は周囲に稲妻を纏いながら異世界へと突き刺さる。
 恐らく、計れば直径で四、五十メートルはあるであろう闇色の柱。
 それが突き刺さった穴の中から耳を覆いたくなる悲壮な絶叫が轟いた。
 ツインドラゴンの断末魔なのだろう。
 絶叫の後、闇色の柱、アレイアードは消滅した。
 空気すら削り取ったと言うのか、今度は中心部へ向けて真逆の方向へ突風が吹き、ぶつかり合う空気はそれだけで魔物の叫び声の様な音を出す。
「うわわっ!」
「きゃあああっ!」
 アルル達、魔女達は先程の戦闘より恐ろしいその光景、余波に死にものぐるいで身を守る。
 空気はやがて収まるべき場所へ収まり、風はそよ風へと変わり、そして消えた。
 暗雲は消え去り、今はもう月と星空のみが空を満たしている。
「…終わったんですの?」
「ですよね?」
「終わりました。全て…。あの子達の、弔いは…これで…」
 ウイッシュは、流れ続ける涙を拭おうともせず、ただ泣き続けていた。




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