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魔導物語 少年の色々な意味で危険な一日 第六話



「…今、なんか…」
 アルルが眉を引きつらせる。
「どうしましたの? そんな顔して」
「う、ううん…?」
 その勘をもう少し他のに使え。
 シェゾはそっと思った。

 向かう先で明確に何かを掴める。
 そう確信出来ただけでも至高の喜びだ。
 シェゾは、久々の手応えを確認し、どのような企み、罠があろうとも、それに近づけるチャンスに感謝の心を送った。
 その時、耳鳴りがした。
 鼓膜が押しつけられ、一時耳から聴覚が失われる。
 代わりに脳に響くのは甲高い耳鳴りの音。
 突如、何気圧も下がったかと思える程の不快感と圧迫。
 割と久しく感じていない感覚だ。
「気圧を怯えさせる…楽しみだ」
 野生の虎ですら脱兎と化してもおかしくない。
 そんな肌には感じぬ『風』に晒されたまま、シェゾは静かな瞳で正面を見据え続ける。
 そんな風の中、足は動かない。
 いや、動かせなかった。
 額から静かに汗がしたたり落ちる。
 瞳は作り物の様に動かず、瞬きすら忘れ去られる。
 空気の動きが止まった。
 大きく息を吸う。
 その時。
 屋根の穴、家の両脇の割れた窓ガラスから、三つの影が音もなく飛び出した。
 屋根の穴からは点を突く様に。
 窓からはほぼ正反対の方向に向かって影が飛んだ。
 だが、瞬きをする間もなく影は突如直線を円運動に変え、三つが三つとも、シェゾの立つ点を円周の一点に捉えて飛来する。
 頭に影が重なる瞬間、シェゾは後ろではなく家に向かって弾け跳ぶ。
 銀髪が何かに触れ、数本が舞う。
 だが、本人はその時既に家の中に立っていた。
 家に飛び込んだシェゾの視界には、あばら屋の様な外見とは似ても似つかぬ漆黒の闇が広がっていた。
 既に入り口があった筈の背後にも光はない。
 ひたすらの闇がそこにあった。
 シェゾは何も持たぬ手を袈裟懸けに振り下ろす。
 次の瞬間、その手には闇の剣が握られていた。
 体に、染みこむ様な闇を感じる。
「! これは…!」
 シェゾは剣を握る手に力を込め、息吹と共に下段から頭の上まで、垂直に一閃する。
 何もない空間に、金属同士を擦り合わせたかの様な火花が飛び、インクを撒いた様な闇が灰色に色あせる。
「せぇっ!」
 気合い一閃、縦に裂けた闇に向かって闇の剣を突き刺す。
 何もない闇であった筈のそこ。
 シェゾはそこに、塗れた布団に杭でも打ち込んだかの様な感触を覚えた。
 紛れもなく、人の感触だ。
「!」
 だが、突如灰色の裂け目から十本を超える蔓の様な手が飛び出し、彼を持ってしても避ける事叶わぬまま、体中に手が巻き付いた。
「くっ!? うお…」
 あれ程柔軟に絡みついた蔦の筈が、巻き付いた瞬間に針金の様に堅く尖り、肌に突き刺さる。
 勢いで体が後ろに跳ね、剣が裂け目から抜けた。
 そして、灰色の裂け目に照らされ、鮮血が飛び散る。
 同時に、体の中に何かが入ってくる感触を感じる。。
「ぐ…!」
 暖かな血流の中に、まるで冷たいどろどろのゼリーでも流れ込んでくるかの様な異様な感触が走り抜ける。
 傷口からそれは広がり、その感触の後には一瞬乾涸らびたかの様な硬質な感触が続けて流れ込む。
 手足から広がり、胴体、体の中、そして頭へとそれは駆けめぐる。
 常人であれば発狂かと思われるおぞましい感触に晒されながら、シェゾは不快感は勿論として、驚くべき事にその感触の分析を始めていた。

「…ぅ…」
 二人が青い顔で口に手を当てる。
「どうした?」
「その感触、想像したら…」
「ちょ、ちょっと気分が…」
「するなよ…」
 情けない顔で安定感をなくす二人を見てシェゾは息を吐いた。

「力を…! 野郎っ! 闇の剣よ!」
 シェゾは剣を握る手を離す。
 と、闇の剣は蜂鳥の様に空中に留まり、そして突如鷹の様に鋭く動き出した。
 刃と蔦が触れ、火花を散らしながら切断する。
 時間にしてものの一秒もかからなかった。
 灰色の裂け目から飛び出たままの蔦は触手の様にうねり、得体の知れない乳白色の体液を散らしている。
 力を失った蔦をむしり取り、叫ぶ様な気合いと共に躰に侵入してきた異物感を吹き飛ばす。
 反動で傷口から血が噴き出し、シェゾは血まみれになった。
 だが、別に国王に謁見に来た訳でもない。
 容姿など気にも留めず、手元に戻った剣を
構えると、シェゾは改めて灰色の裂け目を袈裟懸けで切り裂いた。
 人、いや、何か生き物とだけ想像できる絶叫が轟き、切り裂かれた場所から闇は砕ける様に散ってゆく。
 黒い雪の様に砕けた闇が降り注ぎ、闇が消えると視界に見えるのは、何の変哲もない朽ちた廃屋の一室だった。
「…この、感触…」
 シェゾは自分の中で何かが冒され始めている事に気が付いた。

「これが四ヶ月前に起きた事だ」
「…四ヶ月間…そして、一ヶ月前にトイースの街が滅んだ…」
「あなたの、力が、それに…使われたと?」
「そうだ。あの時、俺の力が何割か奪われた。その力が奴らの企みに利用されている」
「奴らって? その、カドゥスの街にいる、新興宗教?」
「まず間違いない」
「それを取り戻すのが目的?」
「俺のな」
「俺のって事は?」
「力を奪われただけじゃなかった」
 シェゾは苦々しい顔で言った。
「奴らの正体を言ってしまえば、それはヴァンパイアだ」
「…ふーん…」
「そうですの…」
「……」
「……」
「ヴァ?」
「ヴァン!?」
「ぶぁんぱいあぁっ!?」
 二人の声が見事にハモる。
「…ままま、まさかまさかまさかっ!」
「シェシェシェ、シェゾ、まさ、まさか!?」
「そうだ、俺の体には、嫌と言うほどのヴァンパイアエキスが流し込まれた」
「うそおぉぉぉっっ!」
 二人が再び豪快にハモる。
「ヴァ、ヴァンパイアエキスって、あれだよね? 人をグールとか、ヴァンパイア化、しちゃうあの最悪の伝染物質!」
「せ、潜伏期間はどう延ばしても一ヶ月程度で完全に…」
「シェゾ!? 大丈夫なの!? 今太陽の下! はは、はやく日陰…いや洞窟かどこか!」
「は、肌が焼けますわ! 太陽光だけは再生不可の傷を負います! 早、早くどこかにっ!」
 だとすれば目の前にいるのはヴァンパイアだと言うのに、二人は我先にとシェゾの腕を掴んで叫ぶ。
「おまえら、論点が違うっ!」
 シェゾは両の手でずるずると引きずられながら抗議した。
「違わない!」
「シェゾが危険ですわ!」
「だから俺がおまえらにとって危険だとか思わんのかっ! ヴァンパイアだとして! あの超一級にたちの悪いモンスターだぞ!」
「シェゾは座り込む様に踏ん張り、ようやく二人の足を止めた。
「まったく、普通、危険だとかそういう反応が普通だろ」
「え? そう?」
「だって、シェゾですもの」
「…よく分からんがそれはいい。言っておくが、おれはまだヴァンパイア化していない。今の今まで、さんざんお天道様の下を歩いているだろうが」
「あ、だよね」
「でしたわ」
 二人の腕の力が抜けた。
「で、どうして? 本当なら、昼どころか朝夕だってまずいんじゃないの?」
「と言いますか、弱い人ですと、満月すら太陽の光の反射ですから苦手と聞きますわ」
 もしかしたらヴァンパイアを目の前にしているかも知れないというのに、あまりにも普段通りの二人にシェゾは気が抜ける。
「…ヴァンパイアエキスはな、個人差はあるが、細胞の新陳代謝を利用して浸食が進むらしいんだ」
「え?」
「そこで、もう一つの厄介事が絡んでくる。俺は、その後ウイッシュに会った」
「おばあちゃんにですか?」

「居るか?」
 声は巨大な洋館の一室に響いた。
 齢を重ねた黒木の柱と対照的な白い壁が、大きな窓から差し込む光で波の様な模様を描いている。
「あれだけ結界を壊しながらここまで来ておいて、『居るか?』は無いでしょう? これが他の人だったら、あなた一つ目の結界に触った途端に、里中の魔女に取り囲まれていますよ」
 広大、かつ異様な空気が流れ出す森。
 そこは魔女の森。
 そこは、ウイッシュの住む魔女の里。
 ウイッシュは普段里の最深部に鎮座する巨大な館に住んでいる。
 その日、魔導のエキスパートだらけである魔女の里を、一体どうやって宮殿まで誰にも気取られずに来たというのか、シェゾが不意に姿を現した。
 書き物をしていたウイッシュは半分体を回して彼に視線を合わせる。
「雑魚はいい。お前に用がある」
「…とりあえずの用件は、見れば分かりますね。ひどい顔色ですよ」
 ウイッシュは
「ヴァンパイアグラスが必要だ。今の俺がどの程度の進行具合かはさっきまでので検討がついているだろう」
「まぁ、その為にわざわざ足跡を残したんでしょうしね。見張り番の子達が取り乱していましたよ。ここまでどうやって入ってきたんだ? って」
「役に立たん見張りだ」
 里の長としての力があるからこそシェゾの侵入を気取り、かつあえて招き入れる。
 そこまではウイッシュの行動としてはシェゾの想定内だ。
 だが、それを差し引いても大人しすぎる。
「…他を当たった方がいいかもな」
 振り返ろうとしたシェゾに、ウイッシュはにっこりと微笑んで言う。
「交換条件とゆきましょう」
「……」
「あなたのヴァンパイア化の治療と引き替えに、お願いがあります。しかも、多分あなたの行動と線が繋がっている事です」
「どういう事だ」
「その前に…」
 ウイッシュは立ち上がり、シェゾに近づきながらドレスの襟を掴む。
 ちらりとシェゾを見て、不意に襟を引っ張り、首筋から肩までが一気に露わになった。
 あまりに大きく服を下げるので、胸がもう少しで見えそうになる。
 紫のドレスから解放された肩はひたすらに白く、なめらかな光を反射していた。
「……」
 シェゾは肩口を見てこそいるが、特に表情は変わらない。
 ウイッシュは、そんなシェゾの瞳の奥をじっと見つめていた。
「…どうやら、間に合うようね」
 ウイッシュは広げていた服を整え、更にシェゾに近づいた。
「だから来たんだ」
「もっとヴァンパイア化が進んでいれば、表面で平静を装っていても、無防備な首筋を見て血が騒がぬ訳がないわ。理性とかは関係なく、体が、細胞が欲する筈だから。良かった、この肌に噛み傷が付かなくて…」
「お前のんなとこに歯を立てたら、命が百あっても足りないな」
「なんか非道い言い方ね」
 ころころと笑うウイッシュ。
「用件」
「ああそうね。ええと…」

「ウ、ウイッシュさん…な、なんて事を…。シェゾ! おとなのおんなは危険なんだからね! 魔性が妖艶で女郎蜘蛛が有閑マダムの情事なんだからね!」
「お、おばあちゃん、まさか見せていませんわよね! 外見が二十歳そこそこでちょっと性格きつめででも心を許したら甘々になるタイプで落としがいがある美女に見えるからって、まさか間違いは起きていませんわよね!」
 二人が両の頬にくっつきそうな程に顔を近づけて真剣に問う。
「あのな、お前ら…」
 話した事を色々後悔し始めたシェゾであった。

「ローズヒップで良かったかしら?」
「何でもいい」
「蜂蜜は?」
「いらん」
「そう? 取れたてのクローバー蜂蜜なのに」
「用件」
「せっかちね」
 シェゾとウイッシュはテーブルを囲んで紅茶を飲んでいた。
 害は無い侵入者と知らされたおかげで、周囲の緊張感も解け、ウイッシュのお付きの少女がやや緊張した面持ちでティーセットを運んできた。
「ロサカニーナでございます」
 銀のティーセットを運んで来た黒髪の少女は、恭しくお辞儀をしてシェゾとウイッシュの前に紅茶をセットする。
 少女は手慣れた手つきでカップに琥珀色のローズヒップを注ぐと、カップを置きつつ、ちらりとシェゾの顔を見る。
 途端、少女の顔に火がつき、物音一つしなかった空間に、かちゃりとボーングラスの囁く音がそっと響いた。
 思わず動きを止める少女。
 シェゾは何事か、と少女の顔を見る。
 視線が少女を貫き、蒼い閃光が少女の脳天から背筋を突き抜けた。
 途端、少女は抜けた羽の様にゆっくりと腰を抜かし、客人の前での躾は徹底されて居るであろうというのに、情けなく尻餅を着いてしまう。
「アンナ?」
 ウイッシュが何事? と問う。
「も、申し訳ありません! あ、あの、すぐに…」
 アンナと呼ばれた少女は必死に立とうとするが、いかんせん腰が完全に抜けており、うんうんとうなる事しか出来ない。
「何だ? 一体」
 シェゾがやや興味深そうに少女を見る。
「申し訳ありません! ああ、あのあの、その…」
 シェゾの方を見て少女がとてつもなく言いにくそうな表情で口ごもる。
「……」
 シェゾはもしかして、と思い、やおら立ち上がると、腰を抜かして泡を食っているアンナを抱き上げた。
「!!!!」
「あら、お姫様だっこ。ふふ、可愛いわ」
 少女がいよいよ顔を真っ赤にする。
 何かしたいのだが、体が硬直して声一つ満足に出せない。
 ただひたすら、あわあわと戸惑うばかりであった。
「シェゾ、ところでいきなりどうしたの?」
「いや、腰抜けたみたいだし、なんか俺に自分を運べって言いたいのかと思った」
「あら優しいこと。アンナ、良かったわね」
 本来なら客人に対して非礼もいいところなのだが、ウイッシュは微笑ましげに笑う。
「ちちち…ちが、ちが、違い……ます」
 ようやくアンナが声を出す。
「わ、わたしはただ……失礼をして……あの、あの、申し訳ありませんと…言いたかっただけで…」
「あらそうだったの」
「こ、こんな嬉し…いえ恥ずかしい事、お願いなんて出来ません…」
 恥ずかしいやら何やらで訳が分からなくなっているアンナが泣きそうな声で言う。
 ウイッシュはからかいすぎたか、とそれでもやはり楽しそうに笑った。
 だが、その瞳は事態を静観している。
 彼の容姿なら、見とれるくらいは若い娘ならいくらでもあり得る。
 だが、今の反応はやはりヴァンパイア化による一種の症状だった。
 獲物となる相手に対してフェロモン的肉体官能要素、そしてシェゾ自身も気付いてはいないが、眼光による精神的官能要素を放っているのが見て取れる。
 事実、正直な所、あらかじめ防壁を張っていたにもかかわらず、先程は少々危なかったのだから。
「なんだそうか。っつっても、立てるのか?」
「え…」
 アンナの足は、未だ飾り状態だった。
「え、ええと…」
「シェゾ、給仕の子達の部屋に持って行ってあげて」
「え? え? こ、このまま…え? ええ!?」
「いいけどな…」
 少しの後、遠くの部屋で黄色い声が難渋にも響いた後、シェゾが何とも言えぬ顰めっ面で戻ってくる。
「…俺は見せ物か」
「いいじゃない、いい男なんだから慣れなさいよ」
「今度こそ本題に入れ!」
「はいはい」
 ウイッシュはくすくすと笑いながら、本棚から一冊の本を指さす。
「シェゾ、取って」
「…なんで?」
「あの本、重いの」
「……」
 ウイッシュの指さした本は、一瞬本棚にドアでも仕舞っているのかと思わせる様な、鈍重な威圧のある本だった。
「それ、本か?」
「大切な本よ」
 数分後、シェゾは腰に力を入れてようやく持ち上げる事が出来た本を机の上に置く。
「…本気で重かったぞ」
「シェゾ、その本、何キロあるか知ってる?」
「知るか」
「二百キロあるの」
「……」
「ヴァンパイア化による筋力の異常な強化が見られるわね」
 シェゾは自分の手を見て繭をひそめる。
「で、何ページだ」
「で、ええと…百四十九ページだったかしら?」
 シェゾははいはい、と粘土板でも捲っている気分になる重さの表紙を持ち上げ、やや赤茶けたページを捲る。
「そうそうここよ。ここは私たち魔女の里。そしてここから同じ森の中だけど、修行を積む場所として存在する村があるの」
屏風を眺めている気分になるページに、精密なペン画の挿絵で森の地図が描かれている。
 ウイッシュが指さした現在地点から、標高を数百メートル高めた山岳地帯に集落とおぼしき絵が描かれていた。
「ここで六日前、事件が…いいえ、虐殺があったわ…」
 絞り出す様な声でウイッシュは呟く。
 シェゾの眉がわずかに動いた。
 立ったまま、ウイッシュは紙に描かれた里をなでる。
「この里はね、魔女の中でも将来が特に有望な能力を持つ子達が修行をする場所なの。修行していたのは、下は七歳から上でも二十歳の若い子達ばかりが二十人。どの子も、修行をしっかりと収めれば、将来は大魔女になる事も夢じゃない、本当に素質のある、そして何よりも、とてもいい子達ばかりだった…」
 ウイッシュは顔を伏せ、ハンカチで目を押さえた。



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