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魔導物語 お茶の時間にお話を 中編



  Bitter

 夜は雨になる。
 そう言って、一家は今夜はここに泊まれとシェゾに勧めた。
 しかし、彼は充分世話になった、とパオを後にした。
 金は用を成さないそうなので、礼に何か置いていくと言ったのだが要らぬと言う。
 それどころか、大きな葉に包んだ携帯食まで土産につけて、家族はシェゾを見送った。

 最後に振り返った時、印象に残っていたのは最後まで手を振り続けた子供。
 シェゾは珍しく素直に手を振り返した自分を思いだして苦笑する。
『まだまだ若いな。
 闇の剣が珍しく語りかける。
「かもな」
 これもまた珍しく、素直に認めた。
 どうやらよほど気恥ずかしかったらしい。
 今のところ空は快晴だ。
 シェゾはやや薄青い空を仰いで、懐から小さなアイドルを取り出す。
 この辺りで信仰されている神の像だと言う。
 別れがけに老人ががお守りに、と渡してくれたもう一つの土産だ。
 十センチ程の大きさの石彫りのそれ。
 年期を感じる気の黒ずみ具合が、いかにこれが大切にされていたかを物語る。
 しかも感じるのは年期だけではない。
 何らかの力を秘めている。
 シェゾは一瞬、その力に意識が吸い込まれそうな気がしてはっとする。
 確かに、少なくともお守りとしては上等な物の様だ。
 下手な魔物など、本当に魂を抜かれてしまうかも知れない。
「…いいのか? こんなもん貰って」
 シェゾは赤獅子の王と戦って生き残った唯一の男、あの老人の顔を思い出す。
 神の像は、地方の信仰に多く見られる異形の姿だった。
 それはどことなく角の付いた悪魔を連想させる顔立ち。
 すっかり塗料は剥げ、角は丸くなっているが、溝には朱色と金色が残っていた。
 金塗りの神仏像、という所だったのだろう。
 シェゾは少しの間それをじっと眺めると、ポケットに再びそれを仕舞った。

 夜半。
 予言の通り頭上には鉛色の雲が覆い被さる様に渦巻き、更に先程から、とつとつと天の落とし物がシェゾに降り注ぎ始めている。
 そしてそれは程なくして大粒のスコールとなった。
 尾根を低い音と共に風が走り抜け、その度に雨がシェゾを横から叩いてゆく。
 ふと下を見ると、足下にはいつの間にか即席の小川が数本も走っている。
 まだ平気だが、この雨が続けば土砂崩れの危険も出てくるだろう。
 植物すらまばらなその世界に、まるで生えているみたいに突き出た黒ずくめの男の上に降り注ぐ、無数の水晶の粒。
 見た目には幻想的と言えなくもないが、当人にとっては正直御免被りたい雨だった。
 空気も冷たく、雨もまた氷の様に冷たく大粒、しかも風が加勢している。
 普段ならば魔導によって空気の膜を張る事も周囲の温度を調整する事も出来るが、この場においての余計な魔導の発動は、目的に対して不要な刺激を与える事となりかねない。
 刺激ならまだしも、目的に万が一逃げられては目も当てられない。
 そもそも魔導はシェゾのようなベテランにとってすら、ある意味切り札だ。
 ほんの僅かな消費の差による威力が生死を分けかねない。
 因ってシェゾは己の足と地図のみを頼りに歩かなくてはならなかった。
 魔導を知らぬ者がこういう場面を想像すると大抵実情が分からないので、歩くのが楽で便利だ天気に左右されなくてうらやましい、肖りたいと口を揃えて言う。
 が、実際は魔導力を持っているからこそこういう場面では不便となる。
 皮のフードは水を含んで倍にも重さを増し、その水が体温を奪う。
 いつもの事だが、それでも慣れる事はないな、とシェゾはうんざりして溜息をついた。
 風雨はその通りだ、とばかりに激しさを増す。
「……」
 降り続く雨。
 シェゾは、まるで目的に近づく事を一切合切拒否しているかの如き天候に辟易する。
 考えてみれば最初からそうだった。
 だからこそ、あの家族に会えた訳でもあるが。
 近付く事許さぬその存在。
 しかし、近付いたが最後、決して帰さぬその得体の知れぬ存在。
 だが、シェゾは進む。

 俺は近付いているぜ。

 逃げるのか? 王よ。
 
 体中を返り血と己の血で赤黒く染めし、狂った獅子の王、赤獅子の王よ。

 彼の足は前に進む。
 次の日、そして同じ時刻。
 シェゾは高台の上で足を止めた。
 視界には地平線まで続く壮大な渓谷が広がる。
 そこは、あの家族と別れてから丸二日程歩いた場所。
 既に尾根を幾つ越えたかは分からない。
 宵に降り始め、明け方には止んだ雨も、太陽が沈む頃になって再び雨雲となり、我が物顔で天を覆い始めていた。
 まるで、この場に陽光降り注ぐ事まかり通らぬ、とでも言いたげな雲だった。
 シェゾは何となく思い出す。
 彼らは、今も同じ空の下のどこかで旅を続けているのだろうか。
「ふむ」
 シェゾは目を閉じて気をほんの少しだけ高める。
 彼の体から、無数の白い糸の様な線が一瞬、飛び出した様に見えた。
 それはいわばレーダーのパルス。
 物体に限らず、霊体、魔導障壁、その他のエネルギー全てに対応する万能のレーダー波が紡ぎ出す波の幻覚。
 数秒の後。
「ビンゴだ」
 報われた、とばかりに彼はにやりと口元をゆるめる。
 甘く、ほろ苦い甘美なる時間。
 狩りの時間が始まるのだ。
 何も変わらず降り続けていた風雨が、瞬間風を止めた。
 音もなく雨が降る。
 世界中から音が消えたかの様だった。
 そして。
 雨が何かに押され、降る方向をねじ曲げられる。
 風も無いというのに、遙か向こうに降る雨は美しい曲線を描いて降る。
 まるで、その曲線は型で押したかの如く繊細。
 それはまるで、迫り来る何かを映し出しているかの様だった。
 シェゾの手には、いつの間にか『取り出した』闇の剣が握られている。
 その刀身、たった今現れたとは言え、これだけの雨の中にして一滴の雨も受けてはいなかった。
 雨すらも恐れ、避ける魔剣よ。
 そして、その所有者たる男。
 闇の魔導士。
 シェゾ・ウィグィィよ。
 ごん、と空気が鳴った。
 耳には何も聞こえぬと言うのに、それは厚い鉄板を岩で殴った様な無骨極まりない衝撃音だった。
「SHOW TIME」
 シェゾがにやり、と笑みを漏らす。
 美しくも、それは邪悪だった。
 そして遠くから、小山が歩いてきたかの様にそれは迫っていた。
 咆吼とは思えぬが遠くから轟く。
「生物か? 本当…にっ!」
 言うと同時にシェゾが跳ぶ。
 ほんの一瞬前まで彼が立っていた場所に大穴があいたのは声と同時。
 音一つなかった世界にやっと、『音』が響いた。
「ぬ!」
 跳躍したシェゾが宙で体を捻り、闇の剣をプロペラの様にぶん、と一回転振るう。
 それだけで旋風を巻き起こしそうなそれは同時に強力な波動を生み、雨の壁の向こう側に勢いよく消えた。
 一瞬の静寂の後、ずん、と岩が落ちた様な音が響く。
 ここに来て初めて、『向こう側』以外から聞こえた音だ。
 シェゾの着地と音は同時。
 しかし彼の姿は着地と同時に、轟音の聞こえた雨のカーテンの向こうへと消えていた。
 この男、動作に予備と言うものを必要としないのだろうか。
 見えた!
 シェゾが声なき声で叫ぶ。
 そこらの魔物などすくみ上がる息吹、気合いだ。
 だが。
 渾身の一撃。
 余計な程に振りかぶったその剣戟は、獲物を切り裂く事適わず空気を切り裂いた。
「!」
 彼の目には見えていた。
 一抱え以上もある巨大な獅子の顔が。
 だがそれは露と消える。
 あれほどの鮮やかな朱に近い赤い顔だったと言うのに、それは残像も残さず消え去り、彼は目的を見失う。
 それはまるで、水に映った鏡像の様だった。
 そして、プレゼントのお返しとしては充分すぎる返礼が彼を襲う。
「ぐぅっ!」
 背中に、炎を押しつけられた様な熱い痛みが走る。
 同時にシェゾの体は正面に向かって遠慮無く吹っ飛び、頭程の大きさの岩が無数に転がる荒々しい絨毯の上を跳ねる様に転がった。
 止まった、と言うより止められた、と言うべき衝突を繰り返してから、体は斜めに横臥した。
 感覚が肥大し、顔にざんざんと降り注いでいる雨の感覚がいまいち現実味を帯びない。
 鉛色の空も、まるで夢の世界の様に色とりどりに映り、ゆらゆらと揺れて見えていた。
「…糞ったれ…」
 大きな深呼吸と共に、鉄の味がする息で咳き込みながら悪態を付く。
 だが、常人ならこれだけで致命傷、いや命を落としていだろう。
 悪態を付いた彼に対し、姿見せぬ敵が一瞬怯んだとは、本人が知る由もない。
 シェゾは頭を押さえながら立ち上がる。
 岩で強くぶつけたのか、押さえていた手に赤い色が付き、すぐ雨に流されて消えた。
 大した事は無いらしい。
 怪我の程度自体より、頭部の流血が視界を邪魔しない事に彼はほっとした。
「こっちは、まだ掠ってもいないぜ」
 一方的なゲームを好む彼ではない。
 悲鳴を上げて抗議する己が体も気に止めず、シェゾは闇の剣を中段に構えた。
 見えざる敵だが、それでも彼には見える、いや感じるのだろうか。
 シェゾは風にかき消える様にして跳躍した。
「まず結界っ!」
 シェゾは空に跳躍していた。
 その足に何かが絡み付こうとするが、彼を止める役には立たない。
 宙に足場を形成し、シェゾは半ば逆立ちする様な格好で件を上段に構える。
「そこっ!」
 次の瞬間、シェゾは気合い一閃で闇の剣を振り下ろした。
 剣から透明な光がオーロラの如く吹き出し、周囲をまばゆく輝かせる。
 視界が白に染まった。
 そして。
 降りしきる雨のカーテンの向こうから悔しげな咆吼が轟く。
 次の瞬間、空間が歪んだ鏡の様にぐにゃりとねじれ、まるで透明な膜が破れたかの如くそれは散らばり、消えた。
 シェゾが地に戻る。
「……」
 立ち上がって周囲を見渡す。
 先程と同じ場所。
 しかし、まるで違う風景にも見えていた。

 結界は破れたのだ。

途端、雨のカーテンを押しのけて不規則な駆け足の音が聞こえる。
 駆け足と言っても、それぞれの音が丸太を地面に打ち付けた様な音。
「象か?」
 たとえ像でもこれよりは可愛い足音を響かせるものだろうが、とりあえずそんな感じかと予想する。
 数秒後、シェゾの視界に赤い壁が映り始める。
「ほ」
 シェゾは感心した様な声をあげた。
 赤獅子の王。
 それは、意外にもあっさりと姿を現したのだ。
 その巨体は像よりも巨大。
 その体は炎の様に赤い。
 その顔も然り。
 首長竜の首を縮め、前進に燃える様な赤い毛皮をかぶせた感じだった。
 巨大で面長な顔の頭頂には枯れ木をそのまま植え付けた様な巨大、かつ雄々しい角が二本並んでいた。
 顔には無数の傷が刻まれ、まるでそれ自体が遺跡のレリーフを思わせた。
 正しく、歴史の重みという奴なのだろう。
 そして、体中から身震いする様な覇気を吹き出し、王はシェゾを睨み付ける。
「誰だ。貴様」
 岩をぶつけ合う様な声がシェゾの鼓膜を引っ掻く。
「名乗れ。小さき愚か者よ」
 シェゾは耳をほじりながら五月蠅い、と言う顔をしている。
 そして数秒の沈黙の後。
「五月蠅いぜ。でかい愚か者」
 そこらの剣士など気を失ってしまいそうな声だというのに、シェゾはまるで見当違いな事を考え、あまつさえ答を求めぬ質問を投げかけた。
「毛皮と剥製、どっちがいい?」
「ほう」
 王はその言葉に口元をにやりと緩める。
 最も、ゆがめたその口の隙間だけでも丸太が一本そのまま通り抜けそうな大きさであったのだが。
「久しぶりだの。久しぶりに、馬鹿に出会ったわ」
「やかましい」
 赤獅子の王は幾分先程よりも柔らかな目でシェゾを見る。
「名声か?」
「ん?」
「それとも力の証か? 賞金でも出るか? それでなくば、何かの使命でもあるのか?」
「……」
 一瞬シェゾは拍子抜けした様な顔をする。
 理由。
 理由があるからこそここに、王に会いに来た。
 そして、戦いに。
「そうだ、な…。そうだな、お前は、なぜここに居る?」
 今度は王が目を丸めた。
「ほ、質問されるとは思わなんだ」
 笑っているつもりなのだろうか。
 のどの奥から岩を転がす様な音がする。
「ここは儂の世界。儂の世界に儂が居る。それの何処に疑問が、問題があろうか」
 かすかな静寂。
 そしてシェゾは王を見上げて呟いた。
「お前の世界とは、何だ?」
「……」
 王が困惑の表情を見せた。
 まるでその表情が初めてだ、とでも言うかの様にぎこちないそれ。
「儂の、世界とは…。儂の世界、か」
 王は深くこうべを下げ、そしてハッとしてその巨大な頭を持ち上げた。
「…面白い奴。儂を悩ませおった。流石、何故かは解らぬが、どうにも気にかけさせる奴の事だけはある」
 そしてもう一度大声で笑う。
 どうやら、彼には何かある。
 そう思ったから出てきたらしい。
 先程と同じ豪快にも程がある笑い声だったが、どこかその音は澄んで聞こえた。
「小さき者よ。お主の答えも、まだ儂は聞いておらぬぞ?」
「…俺の答え、ね」
 シェゾも困った様に苦笑する。
「ここまで来ておいてそれとは、存外、不器用な奴よの」
「あんたもな」
 二人は笑った。
 少しの間、二人は心の底から笑った。
「小さき者よ。理由など、要らぬよ」
 そしてふと、王が素に戻って言った。
「そうだ、な。要らないな」
 シェゾも繰り返す様に言った。
「言いたい事、考えている事が喋って全部理解出来た日にゃ、苦労なんか無い」
「む」
 不意に、二人がじわりと距離を離す。
「闇の力受け継ぎし闇の魔導士よ」
「知っていたか」
「阿呆。お主の様な特異な存在など、近付いただけで判るわ」
 やれやれ、と眉をひそめてから、王は再び問うた。
「理由は要らぬ。とあらば、お主はどうする?
 己が欲するがままに、闇の魔導士が闇の魔導士たる故に、我が力を、おのが物とする為に欲するか?」
「それもいいな。何て言ったって、楽に力が増強される」
 その右手には、既に闇の剣が握られている。
 一体、何時その刃を出現させたのか。
「儂を、倒せるか?」
「倒すさ」
 シェゾは流れる様にして歩を進めた。
 王も前足を一歩進める。
 瞬間、シェゾは疾風と化した。
 蒼の瞳が氷の様に輝き、それは残像を残して王との距離を縮めた。
 恐ろしく透明な音が響いた。
 剣の刃と、王の牙が正面からぶつかり合った音だ。
 シェゾは吹っ飛ぶ様に後ろに跳んだ。
 同時に、王もそれに併せて跳んだ。
「!」
 その巨体からは想像できない速度の体当たり。
「がっ!」
 シェゾは木っ端の様にして、今度こそ遠慮無く吹っ飛んだ。
 脇腹に鈍い痛みを感じるが、無理矢理なら無視できる痛み。
 シェゾは宙でぐるりと回転すると突然速度を落とすと、速度こそ非常識だが羽の様に柔らかく落下し、見事に着地する。
「二度もっ!」
 シェゾは小さく叫ぶとそのまま再度の突進を敢行する。
 疾風は風にかき消える。
 先程と同じ攻撃に見える
 だが。
 筋をちぎる様な音が響き、続いて虚空に赤黒い噴水がまき散らされる。
「!!」
 それと同時に、声とは思えぬ悲鳴があがった。
「せぁっ!」
 肝心の姿が見えなかったが、気合いを込めた声と同時に今度は王の体の反対側から同じように嫌な切り裂き音が聞こえ、血のシャワーが地面を染めた。
 王が丸太の様なしっぽを振り回し、体の周囲をえぐる。
「っと」
 シェゾは、突進し始めた位置に再び姿を現した。
 着地と同時に足下がめり込みそうな程に岩を踏みしめる。
 気を抜いていたのであれば、おろし金の様な岩肌で身を削っていたのだろう。
「…流石、闇の魔導士」
「お前もな」
 体の両脇から血を流す王。
 対して、シェゾも一体何時攻撃が届いたというのか、肩を割っていた。
 マントの切れ目から赤い血がにじむ。
 王が、扉の様に大きな口を開いた。
 シェゾが身構えたその瞬間、口から溶岩の様な炎が噴出する。
 シェゾの体は瞬きする間もなく炎の固まりの中に飲み込まれた。
「つぁっ!」
 次のシェゾの声は、まるで違う場所から聞こえた。
 王は体をしならせ、後ろを見る。
 そこには、体中から白煙を上げつつ苦悩の表情を浮かべるシェゾが座り込んでいた。
「良く生きていた」
「…シールド効かねぇなんて、反則だぜ」
 肩で息をするシェゾ。
 服には焼けこげが目立ち、その左手にも火傷を負っていた。
「仕留めたつもりだったがのう」
 よだれの代わりに残り火を口元からこぼしつつ、王は愉快そうに笑う。
 口元から落ちた炎の固まりは、地面に落ちると水蒸気爆発を起こして四散する。
「ほれ、次じゃ」
 王はステップを踏む様にして軽やかに、しかし恐ろしい速度で襲いかかった。



 

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