魔導物語 お茶の時間にお話を 前編 Sweet それは、鉛筆を押しつぶした様な形の大きなテントだった。 内部は暖炉から漏れる煤と、月日を重ねた年代物の皮の変色によって赤茶けている。 それらは滑らかなグラデーションがユニークな壁画となり、なかなか趣のあるオブジェとなっていた。 それを見ただけで、この壁がどれだけ使い込まれたかの年月を悟る事が出来るだろう。 使い込まれ、古ぼけた皮の匂いは何故、不思議な懐かしさを感じさせるのだろう。 ちりん、と素朴な鈴の音が響く。 夢想的な感覚に浸っていた彼は現実に引き戻された。 シェゾの前に、子供ながらも清楚で整った顔立ちに、黒目がちの大きな瞳が印象的な少女がそっと歩み寄る。 先程の音は、少女の腰に付いていた細長い鈴から響いた音らしい。 そして、ヤクと言う羊に似た獣の皮を鞣した絨毯が敷かれたそこにあるローテーブル、と言うか荷物入れの箱の上に、錫で出来た皿に載せた菓子が置かれた。 少女はにっこりと笑っている。 「…サンキュ」 少女は、言葉こそ分からないがその意味は感じ取ったらしい。 えへへ、と微笑むと足早に母親の元へ戻っていった。 そして、先程までと同じく小さな木製の玩具で遊び始める。 至って無愛想ながらも彼なりの感謝の気持ちは彼女に伝わった様だ。 それを確認すると、無口な無愛想男、シェゾ・ウィグィイは菓子を一つ頬張った。 「…美味い」 菓子は味を楽しむだけのものではない。 こういう時は客を持て成し、家主と客の、心と心を橋渡す大切な鍵となる。 ちょっとした事でいい。 人間が嫌い、と言う事でさえなければ、それによる結びつきは一番、お互いの心を繋ぐそれとなる。 シェゾも、苦手な筈の甘い菓子で柔らになる心を感じていた。 こういったもてなし方は、特に定住を持たない民族に顕著だと言う。 いつ誰に会うか分からない。 いつ、誰と別離するか分からない。 だからこそ、常に協力し合い、助け合うのだと。 だから、客人は必ず笑顔で持てなすのだ、と。 ここはある高山地帯。 遊牧を生業とする少数民族が点々と存在する厳しい気候と土地の広がる世界。 彼らは定住を良しとせす一生山々を巡って放牧と僅かな売買で暮らす。 シェゾがそんな彼らに出会ったのは、ほんの偶然の事だった。 一日前に山に入り、昼の暑さと夜の寒さの温度差に驚きつつ震えて迎えた朝。 岩みたいにうずくまって太陽が昇るのを待っていたシェゾは、とあるキャラバンに発見される事となる。 シェゾは自分の事など放っておけ、と意思表示したが、長である大柄な男はずんずんと近づくと、シェゾを子犬みたいにひょいと抱えあげ、そのままテントに持ち帰ってしまった。 そして、まずは毛布にくるんで火の側にとん、と置いた。 シェゾは寒さで疲弊していた事もあり、今までにないその扱いに混乱したままだった。 そして、少ししてから離れて座っていた少女が、母親から菓子を渡され、シェゾに持って来たのである。 テントに連れてこられてから、小一時間後。 その間、特に会話を求められる事も何かを聞き出そうとされる事もなく、無言の時間が続いた。 聞こえるのは暖炉の炎が爆ぜる音と、子供が遊ぶ木製のおもちゃがたてる音、そしてテントに当たる風の音だけだった。 シェゾはふう、と深呼吸してから、改めて自分が居る場所を確認する。 ここは、遊牧民族の住む移動住居。 所謂ゲルと言う簡易建造物だ、と認識する。 だが、知識こそあれど初めて見るそれは、シェゾに軽いカルチャーショックを与えた。 テントに毛が生えた程度を想像していたのだが、それは充分に住まいと言うに相応しい居住性を持っていた。 中央にある暖炉をぐるりと囲んでテントは円形。 その床面積は実に二十平方メートルを超え、天井も充分に高い。 皮や布、木材、紐、それから牧草。これだけの材料でこの大きさのテントを作るとは、感心に値する。 頂上にはちゃんと煙突を突き出す穴と、それとは別に天窓が空いており、空気の入れ換えも採光もそこから行える。 自然に空気の対流が起き、酸欠の心配も無い。 実際、ゲルの中は全然息苦しさを感じなかったし、ランプと暖炉の灯りだけではない明るさがあった。 シェゾはその生活の知恵、伝統に感心する。 これが組み立て式で、しかも小一時間で作れるというのだから。 そして。 俺みたいな、胡散臭いのにまでね…。 その心の広さ、大らかさにも。 シェゾは山羊の乳を原料とした菓子を食む。 軽い酸味があり、まぶした砂糖との組み合わせは疲れた体に潤いを与えてくれる。 「くふふっ」 さっき菓子を運んでくれた子供だ。 柔らかく微笑む母親の背中から、のぞき込む様に半分顔を出して悪戯っぽく笑っている。 何だ? とシェゾは思ったが、どうやらいつの間にか自分の顔が笑っていたらしい。 「……」 一人でにやけてしまった自分を意識して、シェゾは尚更照れくさくなり、笑ってしまう。 そして、子供も更に笑った。 笑顔は、笑顔を呼ぶから。 貰ったのは、菓子だけじゃない。 菓子も充分いいものだが、もっといいものを貰えた。 シェゾはそんな感覚的な充足感を心に感じ、彼としてはそうそう見せない筈の破顔した顔をテント内の家族に晒す。 そんな彼を見て、テントの中はようやく本当に一つになった。 大柄な父親、ふくよかな母親。少女、籠の中の赤ん坊、座椅子にもたれている祖父。みんながそれぞれの笑い方で笑った。 すごいな…。 シェゾは素直にそう思った。 確かに菓子、と言うか食い物は人を安心させる。 人にとって最も基本的な欲求を満たしてくれるのだから、そりゃ気も緩むだろう。 だが、それ以上にコミュニケート橋渡し的な力は計り知れない。 至って素朴なその菓子は、どんな高級な菓子にも真似できない魅力を包み込んでいた。 ゲル内には、小さな焚き火による柔らかな灯りと不快にならない程度の火の匂いがゆっくりと漂う。 シェゾは、そんな光景にどこか、自分が小さい頃の自分を、自分が住んでいた家の光景を重ねた気がした。 あまりにも曖昧な記憶。 天井の模様。壁の色、窓からの明かり。 そして家族の顔。 すべては記憶の彼方へ追いやった筈なのに、何故か鮮明に重なるその光景。 それでいて、何一つ輪郭はピントを合わせない。 水の中で、もがいているかの様だった。 「……」 頭の片隅にあるそれは、こことはまるで環境が違う筈。 なのに何故だろう? と彼は考える。 シェゾは息苦しい様な、むずがゆい様な感覚に包まれた。 そして、どうあがいてもそれに対する答は出そうに無い。 答を捻出する代わりに彼の元にまた少女が来て、今度はミルクのたっぷり入った紅茶を渡す。 ミルクティーどころか、ミルクで煎れたそれはチャイと言うらしい。 ここまでしてもらっていいのか? とテント内の長たる父親に顔を向けると、父親も堅い皺だらけの顔を破顔させて頷く。 「ありがたい」 シェゾは、彼にしては随分素直に礼を言う。 紅茶の類はストレートを好む彼だが、今の体には有り難かった。 「ドコヘイク?」 片言の共用語で父親がシェゾに問う。 シェゾは旅に出てから今の今まで、出会った誰もが知っている言葉を喋らなかったので、正直助かったと思った。 彼ならば他心通も扱えるが、それ自体が面倒なのと、そこまでして話したい相手にも会わなかったので、今の今まで彼は殆ど口を開いていない。 元より言葉の少ない彼である。 特に苦痛ではなかったが、今は素直に安心できた。。 「『赤い谷買うへ、行く」 シェゾは言った。 「アンタも、オウにイドムのか…」 父親は驚いた、と言うよりもやれやれ、と呆れた様な顔で言う。 「エイエンノイノチとカミノちからヲもち、それをタクワエ、ふやしツヅケルオソルベキマモノ…。オソロシイことだ。アカジシノオウも、それにイドムものも…」 長い人生を印象づける深い皺に埋もれたその瞳。 一体、彼は今まで何人の無謀なる『挑戦者』達と出会ってきたのか。 「ああ」 そんな瞳を見て、シェゾはそう言うな、と言う風に笑う。 王。 シェゾはそれに会いに来た。 そしてどうするのだろう。 挑むのだろうか。 その力、奪うのだろうか。 まだ答は出ていない。 だからこそ、彼らに会えたのだ。 シェゾは後にそれを感謝する事となる。 彼が普段住む街から、馬で四日程度の距離にある中堅の大きさの街。 その街にある図書館の奥のまた奥、半ば存在すら忘れかけられ、おろした錠前もさび付いたままの書庫に、その文献は眠っていた。 シェゾはいつも通り門外不出の本が並ぶ書庫に勝手に入って、勝手に文献を読みふけっていた。 彼に言わせれば、読まれもせずに朽ち果てそうな本を隅から隅まで読んでやってるのに文句言われる筋合いは無い、と言うところだろう。 カビの臭いが鼻につくその場所。 そんな場所で朽ちかけた本を読んでいるのだから、彼の言う事も一理あるといえるだろう。 実際、本が喋れるのならば彼に感謝の言葉の一つでも送っていたかも知れない。 そんな本の中に、その文献はあった。 読むと、その文献にある魔物の初見は、実に三千年前まで遡る。 赤の谷に棲み、近づく者を喰らう魔物。 獅子の体に赤茶けた竜の顔、ヤクの様な長い毛を持ち、背中には奇怪な模様のあるいかめしい甲冑の様な甲羅を背負っている。 足には鋭い蹴爪を生やし、その尾は長く、堅い鱗に覆われていると言う。 そして、永遠の命と膨大な魔導力を蓄え続けているその魔物を倒した者は、その総てを得る事が出来る、と。 文献だけの話、しかも三千年前となればまぁ、逆になんらかの物体が居たと言う意味で信頼性があると言っても良いが、他の文献と違うのは、それが現代に至っても同じ姿、内容で語り継がれていると言う点だ。 赤の谷は今もって未開の地として実在し、魔物の噂も噂以上に真実みを持って語られ続けている。 彼がそんな噂を耳で聞いたのは、ほんの偶然だった。 ここより更に遠い街のカフェで、どこからか長旅をしている人物と偶然相席した時の事だった。 そして持ち前の探求心、と言うか面倒事へ首を突っ込みたがる性分が働く。 シェゾは初老らしき旅の男性からありったけの記憶を聞き出し、だめ押しとばかりに書庫で関連すると思われる文献を読みあさった。 そして二週間後。 彼は目的の山へと到着する。 『赤獅子の王』に会う為に。 会ってどうするのだろう? と言う基本的理由も持たぬままに。 「魔物は居る。誰にも、倒せない…」 枯れ木でこしらえた仏像みたいに黙って座っていた老人、あの子供の祖父が呟いた。 驚いた事に一番流暢な語りだ。 アルマジロみたいに丸まった背中。 しぼんで小さくなった体。 言っては失礼だが、即神仏と言っても一瞬頷けるその顔立ちだった。 他の家族と比べると、やや面長に感じる顔。 目元には入れ墨。 若い頃は、きっといい男だったのだろうと思わせる顔立ちだった。 シェゾは瞳を見る。 尤も、老人のその瞳は、開いているのか閉じているのか分からない。 だが、年齢という存在感が確固たる存在感を示す。 シェゾは黙って耳を傾けた。 それは願ってもない、現場の生情報でもあるのだから。 深淵の闇に深紅の双眼が輝く。 「それは、血が光った様な…恐ろしく巨大な瞳を持っている」 どこが瞳でどこが白目か分からないが、その燃える瞳がぎろりと闇の中を動く度に、空気までが押しのけられ、風が吹きつけた。 「その瞳に睨まれた者は、万に一つの例外なく、足をすくませ、瞬き一つ出来なくなる」 背中がぞわりと凍り付く。 神経が音を立てて縮みあがった。 冷や汗でびっしょりになるかと思いや、汗は粒一つも出ない。 真の恐怖とは体のあらゆる感覚を麻痺させる。 「闇の王…。その、岩すら切り裂く強靱な爪は、前からも後ろからも、空間を飛び越えて襲ってくる…」 彼らが闇に入って大分経つ。 随分目も慣れた筈の闇の中から、突如驚く程近い間合いで、凍てつく氷の様に青白く光る爪が迫ってきた。 とんでもない速度で飛来している筈なのに、それは随分とゆっくりに見える。 まるで羽が風にたゆたうかの様に。 だが、自分の体は鉛の様に重かった。 「その力は、時すらも自在に操るかの様だった」 目の前、そして背中からも何本もの爪が飛来する事が分かっているのに、今、目の前に迫っているのに、体が動かない。 いや、体は動いている。 だが、体に蔦が絡みついてしまうかの如くその動きは緩慢だった。 今なら、ナメクジにすら余裕で徒競走に負ける事が出来るだろう。 「鋭きその爪は、ナイフよりも剣よりも切れる。いや、ナイフすら切り裂く…」 爪の一つ一つが、とてもゆっくりとその体に食い込んでいった。 だが、不思議と痛みが伝わってこない。 切り裂かれた肉すら痛みを感じていないのか、血を流すのを忘れていた。 グロテスクに赤い筋肉の色が嫌に鮮明に目に映る。 「だが、それこそ一瞬の戯れ。地獄は、確実に与えられる…」 何時間も、何十時間も爪が体を蹂躙していた様に思えた。 それは永遠かとすら思われた。 だが。 瞬間、体中の神経という神経が悲鳴をあげる。 体から溶岩が吹き出したかと思われた。 血の泡にまみれた悲鳴が声帯を引き裂く。 音すら失われたかの様な永遠は、瞬時に阿鼻叫喚の永遠の地獄に変わった。 何処とも知れぬ大地の上で目を覚ましてから暫くの間、痛みだけが記憶に留まり、戦った記憶は何年もの間思い出せなかった。 墨の様に深く黒い長髪が白髪交じりになってしまったのはそれからの事。 「闇の王。赤獅子の王は、恐怖を食らう…。楽しそうに。本当に楽しそうに…」 老人は少々息を上げつつ、そこまでを語った。 今、彼の目の前にはその時が蘇っている。 まるで、自分の目の前に赤獅子の王が居るかの様に。 立つ事すらままならぬ様に見える園からだが小刻みに震えていた。 シェゾも、不思議とその情景が恐ろしく鮮明に想像できた。 彼の言葉には、事の葉の力が含まれているのかも知れない。 そして老人は、やおら己の体をくるんでいた、何重にも重ねられた民族衣装をむしる様にしてはぎとる。 その上半身があらわになった。 「……」 シェゾは少しだけ眉をひそめた。 その老人の上半身には想像を絶する巨大なかぎ爪にえぐられた傷跡があった。 鍬で溝を掘った様に深いその傷跡は赤黒く残り、一番大きな溝は喉元から鳩尾まで一直線にえぐられている。 そして、老人の右腕は肩から先がすっぱりと存在を消失させていた。 見苦しいので見せられないが、足の腿にも似た様な傷を負っているという。 切断こそ免れたが、足は両方とも殆ど棒と同じだそうだ。 この様なものを見ても、子供は平然としていた。 初めて見たのではないから当然にしても、やはりこの様な土地に住むだけの度胸は幼くして確実に持っているらしい。 「だが…儂はまだ幸運だった。命を、この世に留める事が出来たのだから…」 老人が赤獅子の王に戦いを挑んだのは血気盛んな若かりし頃。 そして、同じく戦いを挑んだ同世代の戦死八名の中で、家族の元に戻ってきたのは他には誰一人として居なかったそうである。 「恐らく、儂はわざと生かされたのだ。哀れで、愚かな挑戦者をあざけり笑い、そして戒める為に…」 老人は服を着る。 そして彼はそれきり、何事もなかったかの様に黙りこくると、左手をぎこちなく動かして茶を一口すする。 老人はそのまま、再び時を止めた。 …力を求め、力にねじ伏せられ、か。 暖炉の木が爆ぜ、空間をゆらりと音が巡る。 「……」 「チョウロウのハナシハほんとうだ」 主がシェゾを静かに見つめる。 シェゾは大きく深呼吸して菓子を一口食む。 先程まであんなに甘かった菓子が、今は妙にほろ苦く思えた。 |