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魔導物語 Cataract 中編



  Coffee

 視界が意味を失う。
 白い世界に彼が包み込まれるまでは、一秒もかからなかった。
 自分は今、真っ逆様に滝壺に向かって落ちている筈だ。
 しかし重力を感じない。
 只々、ひたすら白いその世界。
 既に頭上も足下も不確か。
 距離から考えれば三度は滝壺に落下している筈だが、白い世界は時を止めて尚も濃密さを増すのみ。
「……」
 と、言うことは、とシェゾが行動を開始する。
 ここが足下だ、と彼は宣言する。
 すると、不確かな手応えでこそあるが足の下には確かに『地面』が現れた。
 同時に重力が舞い戻る。
 白の世界。
 無の世界は、全てが不確定であると同時に、全てが思いのままとなるのだ。
 無論、それを願う者の力にこそ寄るが。
 シェゾは地面を足下に引きずり出して歩き出す。
 宛もなく歩き出した訳ではない。
 丁度この世界に落ちたと同時に、『それ』を感じたからだ。
 嘘だろ?
 シェゾはそう思った。
 あらゆる感覚を狂わせ、麻痺させるこの空間。
 自分で言うのも何だが、闇の魔導士としての超人的感覚あればこそ、こうして自分の存在を留めていられるのだ。
 そんな非常識な世界。
 だが、その感覚は確かにシェゾを刺激する。
 シェゾを刺激するそれ。

 コーヒー。

 その芳醇な香りが、確かにシェゾの鼻腔をくすぐったのだ。
 いい豆だな…。
 すう、と深呼吸する。
 程良い酸味と、控えめな甘い香りが脳をくすぐる。
 良いコーヒー豆には、味にこそ出ないが甘い香りを楽しませる豆もある。
 フレーバーコーヒーはあまり好まぬが、豆自身の香りで楽しめるそれは好みだ。
 シェゾは、大変に非常識なその現実に臆する事無く、軽快に歩を進める。
「……」
 少々歩いた。
 シェゾは、いよいよ非常識な光景を目の当たりにする。
「どこの阿呆だ」
 思わず呟いた。
 相変わらず、地面にあらざる地面を進む以外は白一色の世界だというのに、突如それは現れた。
 年季の入った、渋い赤茶色に染まったそれ。
 ブロンズの取っ手細工も美しい、一枚のドアが、シェゾの目の前に現れた。
 ノッカーの悪魔像は禍々しくもコミカルに鉄の輪を噛んでいる。
 異様極まりないそれだが、シェゾは臆する事もなくノブを握り、それを回してドアを開いた。
 枠もないのに金属が響く音がする。
 ドアの向こうに見える世界。
「来たか」
「……」
 シェゾはドアの先に足を踏み入れる。
 世界は既に部屋の中に変わっていた。
 広いその室内、窓の外には空が見えている。
 鳥すら飛んでいる空が見える。
 どうやらそこは広々とした居間らしい。
 そして、声の主がどっかりとソファーに座っていた。
「サタン…」
 シェゾは呆れた様にその名を呼んだ。
「まぁ座れ」
 まるで、ごく普通に客人を招いたかの様な口調のサタン。
 そう言って口元に運ぶコーヒーの香りが、先程鼻腔をくすぐったそれらしい。
「……」
 シェゾはとりあえず腹を決めた、とばかりにどっかりと座る。
 ふと入ってきた扉を見ると、既に何もない。
 訳が分からない、とばかりに眉をひそめるシェゾの前に、やや尖った耳を持つメイドがコーヒーを持って参上した。
 音一つ立てずにコーヒーを置いてから一礼すると、メイドはそのまま入ってきた扉の向こうに消える。
 シェゾがゆっくりと香りを楽しんでカップに口を付けてから、サタンは話し始めた。
「おまえがこんな所に来るとは…夢にも思わなかったぞ」
「俺もだ…っていいたいところだが、嘘つけ」
「うん」
 サタンが阿呆みたいな返答であっさりとそれを認める。
「……」
 シェゾは逆に呆気にとられて言葉を失った。
「時間がないのだ。単刀直入に話す」
「そりゃ助かる…」
 シェゾはもう一口コーヒーを飲んで自分を落ち着ける事とする。
「この一帯、名をグニルパと言うが…なぜこんなに平らな土地なのか分かるか?」
「知らん」
「平らになったからだ」
「…おい」
 シェゾは一瞬納得しかけたが、ちょっとまて、とサタンを睨む。
「聞け。グニルパの意味はな、険峻な山と言う意味なのだ」
「えらく似合わない名前だな」
「だが、約三千年程前までは似合っていた」
 ややアンニュイな顔で語るサタン。
「三千年前…」
 その言葉にシェゾの顔も曇る。
「この一帯、三千年前は標高千メートルを超す山脈が連なっていた」
「嘘だろ?」
 街からここまで、視界には丘どころか岩一つ目に付く物は無かった。
「本当だ。この一帯は、周囲で最も大きなゲートだったのだ」
「…ゲート、か」
「詳しく話すと半月かかるので省くが、三千年前の悲劇…Armageddonの末期に『それ』は起きた」

 三千年の昔。
 この周りは人もまばらな世界だった。
 この一帯はグニルパと呼ばれる荒涼とした高山地帯だった。
 この周囲一帯は季節を問わず山越えの困難な、荒れた山脈が連なっていた。
 そしてこの山脈こそ魔界と人間界を繋ぐ当時としては最も巨大なゲートであり、周囲の環境と併せて難攻不落の拠点となっていた。
 誰にとってか?
 それは、魔界の者達にとって。
 人間の歴史など何度繰り返すか分からぬ程の過去より、魔界は天界との抗争を繰り広げてきた。
 抗争はやがて両世界が見向きもしなかった人間界にも持ち込まれる。
 煉獄と呼ばれ卑しき生物が徘徊する場所としてリンボ並に蔑まれていた人間界だが、しかしその蔑むべき人間の中には、時折目を見張る程の力を持つ者が現れていた。
 両界共、その力を見過ごせぬと認めるや否や、様々な形で人間界に介入を始める。
 人間界に秩序と混沌が生まれたのはそれからの事であった。
 だが、元々は無関係の地を利用し、戦乱に巻き込む事に因って、両界は今までは有り得なかった状況に直面する事となる。
 足の下の虫程にも思っていなかった筈の、利用するだけの存在であった筈の人間が、両界に刃を向け始めたのだ。
 実行するのは人間界に置いても異分子と呼ばれるごく少数の者だけだったが、それだけに彼らの力は正しく人外中の人外であった。
 天界、魔界を問わず刃を向けた彼らは恐るべき事にその刃の力を時と共に増大させ、ついには彼らの剣の前に倒れる者が現れ始めた。
 驚嘆した両界は全力で彼の者達を討ち滅ぼす。
 しかし、肉体を滅ぼしてもその『意志』、『力』、そして『想い』は絶てず、時と場所を越えてその刃は両界に向けられ続けた。
 まるで、人間界そのものがその力を増大させてゆくかの様に成長を続けた。
 やがて両界は数少ない盟約を結ぶ。
 人間界は両界の火花を散らす血の盟約、『人間界への不介入』と言う約束事を結ぶ事によって一応は安息の日々を手に入れる事となる。
 だが、それは直接的な人間界を刺激する介入を禁ずると言うだけであり、よほどあからさまな違反でなければお互いに目を瞑るという、お互いにとっては都合の良い、人間界にとっては迷惑な、しかも肝心の人間界への了承無しと言うものだった。
 それ以来、魔界、天界は手を変え品を変えて、『こちら側』へ人間を、力ある人間を取り込もうと策を弄する事となる。
 何時しか、それは両界の思惑を無視して二つの力を生み出す。
 即ち、大いなる神の光と、畏れるべき魔の闇。
 両界の理想である筈の光と闇の存在が、しかしお互いの想うがままに動かぬ様を見て、両者は両者をあざ笑いつつも画策を繰り返す。
 いつしか起こるであろう決戦への駒として両者を懐柔する為に。
 だが両界も、そして光も闇も、全ては思うがままには事を進める事が出来ないまま、時は現在へと流れる。
 天界も魔界も、光も闇も、誰にも決して出来はしないのかも知れない。

 未来を決める事は。

 さて、話は三千年前の事件に戻る。
 とある些細な両界の実力者同士の争いから起こった闘争、人間界で言うところの神々の争い、Armageddonは他の何処でもない、この地を舞台に勃発した。
 人の世界の戦争と同じで、事が起きてしまうと契約だの盟約だのは、それが終わるまで飾り以下の存在になってしまう。
 人の世界を巻き込んだ闘争はいつしか両界の消耗戦となり、業を煮やした天界は形振り構わぬ決戦兵器を投入した。
 それは、ほんの小さな『卵』。
 だがそれは一つの宇宙と言ってもよい恐るべき卵だった。
 次元のゲート。
 所謂人間界と魔界を繋ぐ次元の亀裂にそれを送り、幾億にも重なった次元の亀裂をほんの僅か削り取り、固定を緩める。そしてそれによって発生したエネルギーを魔界に流し込んで壊滅的打撃を与えようと言う、想像を絶する兵器だった。
 エネルギーの方向に正確な指向性を持たせる事は不可能だが、無論それが逆流しても打撃を被るのは人間界であり、天界は最悪でもその数パーセントの損害で済む。
 理想的な作戦だった。
 だが、エネルギー自体は卵に注入できても、発火する為の火種が問題だった。
 その火種は、発生した瞬間に有効となる。
 火種となるエネルギーは現場で調達する必要があり、それこそが悩みの種となった。
 たかが火種とは言うものの、次元崩壊を引き起こすエネルギー連鎖を誘発させるそれは大変な質量と性能を要する。
 しかも、火種で気付かれる恐れもある。様々な懸案が考慮され、天界は卵の為のうってつけの火種と作戦を行う地を選んだ。それがグニルパの山脈である。
 ゲートの真上であり、質量エネルギーは申し分ない。しかも休火山でもあった為に熱エネルギーや地龍に因る龍脈の気が満たされている。
 天界は、一級の戦士であるエンジェルコマンドを惜しみなく囮として、卵をグニルパに投入、最終決戦が始まった。

「で、どうなった?」
 シェゾが、三杯目のコーヒーをすすりつつ問う。
 サタンは冷たくなったコーヒーには目もくれずに続けた。
「正直、私が見ても恐ろしい光景だった。エネルギー吸収が始まると、グニルパの山脈が砂山を崩す様にして消えていった。しかも、周囲の悪魔も、エンジェルコマンドすらも敵味方無く吸収して、だ」
「区別無し、かよ」
「私は作戦自体には気付いていた。話自体は密偵が教えてくれていたからな。だが、実行するとは思っていなかったのだ。甘かったよ」
「天界に潜り込める密偵なんて飼ってたのか」
「それより話の続きだ。私は実行に気付いた。近づけば全てを吸収するそれを止める方法は何か無いか、と考えた。盾となるコマンドの相手をしていては全てが手遅れとなるからな。そして、思いついた」
「ほう」
「火種を着火させなければいい、とな」
「どうやった」
「いろいろややこしい行程があるので省くが、周囲のエネルギーというエネルギーを根こそぎ消滅させたのだ。卵に吸収される前にな。そして、可能な限り対消滅が可能な負のエネルギーも送り込んでやった」
「成る程」
「臨界点ギリギリだったが、それは成功した。卵は、不完全燃焼状態となってパワーを落とし、活動を止めた」
「ほう」
「だが、代償は大きかった。結果、グニルパの山々、周囲の気、マナ、精霊、全てが失われて、この場所はこうなったのだ」
「…火種起こすのに、山脈一つ必要だったのかよ」
「それでも足りぬから、周囲の『全て』を吸収しようとした。対消滅も使わねば、臨界に達していただろうな」
「物騒な卵だぜ」
 シェゾは角でかしこまっていたメイドに四杯目のコーヒーを注がせる。
「で、その話は終わりとして、なんでお前がここに居る?」
「終わってないから居るのだ」
「あ?」
「卵はまだ生きている」
 サタンは重々しく呟いた。




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