魔導物語 Cataract 前編 Call 地平線の端から端まで平らだった。 そこは、砂粒程の起伏も、針穴程の沈降も一切見あたらない、冗談みたいに平らな土地だった。 だが、乾燥しきった地面と切り抜いたみたいにはっきり分かれた、青と白のツートンカラーの空が支配するその世界に、ただ一つだけ頑なに時を動かし続けるそれはあった。 視界の中心、地平線のほんの僅か下方に、小さく小さく、白い霧が見える。 地面から浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すそれ。 それだけが時を受け付けていた。 ふと、そんな無粋な世界に足を踏み入れた者が居る。 これ以上は無いと言うくらいに無味乾燥な世界だったが、その男の姿はこれもまた負けず劣らず味気無い姿。 足首まで伸びた黒一色のマント。 足下から除くブーツも黒。 マントの隙間から覗くインナーも、金属部分こそあれどそれ以外は黒一色。いや、金属部分すらも燻した金色なので黒に近い。 溜め息どころか諦めの空気すら流れそうな程にモノクロの男だったが、その銀髪、そして蒼の瞳だけは一切の妥協を許さぬとばかりに輝いていた。 そして何より、その瞳が据えられた顔。 どこか気だるげ。 だが、鋭い眼光と黄金のラインで結ばれた表情は、その男がまるでこの世の者あらざるとばかりに、その世界で異彩を放っている。 彼の者が向かう先。 その男に足を向けさせるそれとは一体何なのか、とでも言いたげに、男の歩いた道筋は息を吹き返したかの様な色彩が灯っている。 そは魔導の泉となりしマナの沸き出した証。 万物に宿りしマナすら枯渇させた土地を、歩くだけで息を吹き返させるとは、一体どのような秘術を使ったというのか。 魔導識学者が雁首そろえて首を捻るであろう奇跡だが、当の本人はそれすらも何の興味も意味もない、とばかりにもくもくと歩き続ける。 周囲の土地一帯が、ここ数世紀で最も騒がしくなる時が近づいていた。 ふと、男が呟く。 「…まったく、阿呆か、そいつらは?」 男が歩きながらぼそりと言う。 地平線から地平線まで見渡しても、その男以外に人、と言うか生物らしい生物は見あたらない。 砂虫とてこの様な場所に一日と居たいとは思わないだろう。 だが。 『その阿呆を追いかけている阿呆は誰だ? 声にあらざる声が聞こえる。 「……」 男が言うな、と言う表情で顔を顰める。 気を取り直して懐から革袋を取り出し、一口生ぬるくなった水を飲むと男は言った。 「皮肉はいい。それより、何か感じるか?」 『主が感知できぬものを我が感知できる筈無かろう。 言ってしまえば身も蓋もない返答だが、それでもその主と呼ばれた男はそうだな、と呟いて視線を地平線の先の霧に移した。 視線の先。 地面から沸き出しているかの様だった霧が次第にその姿を現し始める。 視界のそれがはっきりし始める位に歩いた頃、やがてそれに併せて音も聞こえ始めた。 どうどう、と重く重厚に、幾重にも重なって響くその音。 そして湿度も比例してあがる、と言うか常識はずれな水しぶきにより発生した霧はあっという間に男のマントを湿らせた。 艶やかな銀髪にも、いつの間にか水滴が滴る。 まるで土砂降りの中に立っているかの様だった。 「着いたか」 男が視界にそれを納める。 それはただただ、ひたすらに巨大な滝。 緩やかなUの字に湾曲した川幅は約五百メートル。滝壺までの落下距離は不明と言う、あまりにも巨大なその滝だった。 四日前。 黒ずくめの男は、とある農村地帯に建つ教会の一室に居た。 「よう来てくださった」 質素ではあるが客室らしく丁寧な作りの部屋。 周囲に飾ってある調度品はやや不思議な、悪く言えば不格好な姿の木製偶像が多く、そこから、この土地が土着の神を祀っている地域と知る事が出来た。 男は椅子に座ろうともせず、周囲のそれらをしげしげと見回していた。 「この神様に興味がおありかの?」 声の先。 使い込まれて黒光りした木のテーブルに、しがみつくようにして座っている老婆が居た。しわくちゃで腰も曲がった小さな老婆は、目を瞑ったままで感心するような口調で彼に問うた。 「…興味、ね」 男は鼻で笑ってその一つを手に取り、値踏みするような瞳で眺める。 「信仰するかどうかはともかく、興味はある筈じゃよ。たとえ闇の魔導士、シェゾ・ウィグィィと言えどもね」 老婆はへばりつくみたいに机に肘を着き、目の前に二客あるティーカップの一つから熱い紅茶をすすった。 「あちゃちゃ、あたしゃもうすこしぬるくないと火傷しちまうよ。まだ温度を覚えてないねぇ、あの子は…」 多分、先程紅茶を運んで来て、シェゾの顔を見るなり林檎の様に頬を染めて出ていった若い娘の給仕の事を言っているのだろう。 ぶつぶつと言いながら老婆はそっともう一口茶を飲んで、それからやっとシェゾの顔を見た。 「ま、立ち話もなんだ。ほれほれ、ぼーっとしてないで座りなされ」 闇の魔導士。 世の識者からすれば彼の者に対してとんでもない物言いをしていると恐れおののくところだが、シェゾは素直に席に着いた。 シェゾも出されていたティーカップを手に取り、無遠慮に一口飲んだ。 レモングラスの香りが呼吸を心地よく喉に通す。 「で、わざわざ俺が誰か分かってて呼び止めたって事は、それなりに納得できる理由があるんだろうな?」 「勿論じゃ。それに、お前さんがここを通る事は半月も前から分かっておった」 「……」 そうかい、と言う顔でシェゾは斜めに老婆の顔を眺める。 二十分ほど前。 シェゾはある遺跡に興味深い魔導器があると言う文献を見つけ、無駄足を踏んで来た帰り道にこの村に立ち寄った。 そこで、ふと目の前の老婆に声をかけられる。 普通、だからといって立ち止まりはしないが、闇の魔導士殿、などといきなり言われては関心を覚えざるを得ない。 シェゾは興味半分、警戒半分で老婆の言葉に従い、こうして部屋の一室に足を踏み入れる事となる。 「で?」 「うむ、実は、お前さんを見込んで話があるのじゃ。悪い話じゃないよ」 「悪い話で呼び止められた日にゃ暴れる」 先の探検が不発なだけに、その辺りの反応には敏感である。 「まあ聞きなされ」 老婆はシェゾの返答も聞かずに話を始めた。 この土地には、三千年程の昔に遡る独特な信仰の源となる神話があった。 元より痩せた土地だが、ここを北に四日ほど歩くと痩せた枯れた所ではないほどの乾燥地帯が広がっている。 地面をナイフで削ったみたいに平らで何もない、地平線の端から端まで平坦なその大地だが、そのほぼ中央部には恐らくこの大陸でも一二をあらそう巨大な滝があると言う。 「ちょっとまて」 「ん?」 「この辺りの地図は見た事があるから、平らなのは知っている。等高線一つないフライパンみたいな土地にどうやって滝があるってんだ?」 「まぁ、話を聞きなされ。それはの…」 トーストにバターを塗ったみたいに平らなその大地。 その中央部に、上空から見る事で確認できるが、ある地点から黒い細い線が蛇行しながら走っている。 近くで見ると分かるのだが、それは狭い渓谷に挟まれた川であった。 そして、その渓谷を先へと進むと、その先は大きく扇状に谷が開かれていた。 地上から四十メートルの落差を誇る渓谷は巨大な川となり、そこから更に地の底へ抜けんとばかりに暗く大口を開けた滝があった。 大きく川幅を開けた滝口の先から、渓谷は再び線のようにすぼまり、滝の先は水の音すら聞こえぬ深いクレバスとなって闇を飲み込んでいる。 未だ、滝の底を見た者は居ない。 「じゃが、人間とはすごいものでの、その渓谷、滝の両脇の絶壁に何と石窟を掘って、そこを信仰の地としたのじゃ」 「……」 老婆の目には感心した、と言うふうに映ったシェゾの顔。 呆れていた、とは言わぬが華だろう。 「なぜそこまでして人がそこに石窟を作ったか、それはの、その滝に神が住んでおられたからじゃ」 「ほう」 「よその土地にある様なすかしっ屁みたいな伝承とは違うぞえ。そこに行って滝壺を拝んだ者は腰痛が治ったり、不治の病が完治したり、嫁さんに恵まれたり、それに魔物に襲われても、そこに逃げ込むと魔物は追わなくなったり、追ってきても弱ってしまい、退治されたりしたのじゃ」 「……」 前半は無視するとしても、後半の魔物云々が少々シェゾの気を引いた。 「で、神様ってのはどんなやつだ?」 「言い伝えでは、滝壺から吹きあがる水しぶきの霧の中に、大きくて立派な眼が浮き上がる事があるそうじゃ。人々は、全てを見通される万能の神様とあがめ、そして石窟を作り、信仰してきたのじゃよ」 「ほう」 「じゃが…」 老婆は、そこまで誇らしげに語っていた口調を急に落とした。 「百と十年程前になるが、突然石窟の信仰者達が一人残らず消えてしまったのじゃ。争った跡も、魔物に襲われた跡もない。ただの一人も残さず、きれいさっぱり人が消えてしまったのじゃ」 「捜索は?」 「無論じゃ。だが、一日以上捜索を行った者は、誰一人の例外なく帰ってこなかった。今までの話も、行って来てすぐに連絡を取るために帰った者が居たから分かった情報じゃ。それ以上の探索を行おうとすると、誰も帰って来なくなった…」 老婆は悔しそうに肩を落として、小さな体を更に小さく丸める。 「最後に人が消え、探索が打ち切られたのは百年前。最後にそこに向かって、最後に消えたのは…あたしの弟さ」 シェゾには、その姿が妙に萎縮して見えた。 「…で?」 やや冷めてきた紅茶をごくりと飲み込み、シェゾが淡々と問う。 「あたしは知りたいんだよ。だが、そこらの人間には解決できない、分からない何かがあそこで起こっているんだ。あんたなら、それを探ることが出来る…。お願いだよ。あたしの持っている財産なら、この教会から土地から、全部あげるよ。だから…あそこで何が起きたのか、あたしの弟がどうなったのか…いや、それは無理としても、とにかく、何故人が居なくなったのかを…あたしは知りたいんだよ…」 老婆の声は後半涙声だった。 ふむ、と考えてからシェゾは気付く。 「ちょっと待て」 「なんだい?」 「百年前を境に、誰も帰って来なくなったんだよな?」 「そうだよ」 「そこに弟?」 「そうだよ」 「…婆さん、何歳だ?」 「女に歳を聞くもんじゃないよ」 「茶化すな」 「…そうさねぇ、今年で、確か百と六十二だよ」 「あんた、教会なんてやっているくせに魔女だったのか」 シェゾが別段驚いたそぶりもせずに聞く。 「分かるかい?」 「その年齢、そして未来を読む術っつーか占いは魔女が特に長けている。俺の来訪を予知したからには本物だ」 「伊達に魔導士じゃないねぇ」 所謂魔導士と違い、一種の種族でもある魔女はこうしてひっそりと人間の世界で共存している事が意外と多い。 知に長けた薬師から、ある程度正体をばらして占いを行っている魔女まで、その生体は実に様々。 この老婆の場合は、その魔力を上手く生かして教会のシスターをやっているらしい。 年齢からして人ではないと周囲も知っているであろうにも関わらずこうしてシスターでいられるのは、彼女の人柄及び土地のおおらかさもあるのだろう。 「しかし、ならなぜあんたが行かない? 魔女ならちょっとやそっとの事でくたばりはしないだろう」 「行ったさ。でも、追い出されたよ。とても調べるなんて出来なかった。だから、こうして百年間待っていたのさ」 「……」 ゴシップではない謎の人間消失。 魔女をも寄せ付けぬその結界らしきその聖地で起こった何か。 シェゾはふつふつと、その余計なほどに旺盛な好奇心を刺激されていた。 「で…」 あれから暫くの歩き詰めの後。 シェゾは水を被るのと大差ない、猛烈な水しぶきによる霧が吹き出す巨大な滝のすぐ側まで辿り着いていた。 流石にここまで来ると平らだと思っていた地面は様相を変える。 巨大な渓谷が押し広げられた様に顔を覗かせる滝。 そして滝壺どころか落下する水すらも途中から靄で見えないと言う、底を覆い隠して尚もうもうと沸き上がる水しぶき。 シェゾはそのやけくそみたいなスケールの滝を見て呟いた。 「で、石窟はどこだ?」 『見えぬな。 異次元と言う名の鞘に収まった闇の剣が応えた。 この世に存在せずとも、その『目』は主と同じものを見るらしい。 地面から滝となった川辺までの距離の落差は聞いた話より距離があり、それは五十メートル以上ある。 話では、川までの壁面を削り取って石窟が広がっている筈だった。 しかし、霧に見え隠れする向こう岸の壁面を見ても、崖っぷちから足下を覗いても、石窟どころか洞穴一つ確認は出来なかった。 それどころか、最低ある筈の下へ降りる階段はおろかロープ一本見あたらない。 「つーか、聞いた幅より滝の幅、広くないか?」 聞いている滝の川幅は約四百メートル。 だが、今目の前に広がる川の幅は、目測で見ても優に五百メートルを超えていた。 地面から川までの距離も十メートル程深い。 そして、そう言えば、滝に通じる崖はどう見てもその表面が新しいのだ。 濡れているとかそう言うのではなく、明らかに時が経った表面では無かった。 「まさか」 シェゾが半ば確信して問う。 『滝の底、だな。 「だよな」 およそ三千年の歴史を誇る石窟。 両脇に七十を超えて作られていた歴史的建造物の全てが、つい最近らしき両岸の崩壊と共に滝に飲み込まれていた。 「…調査もクソもないっつーの」 調べるべき石窟が根こそぎ消滅したとあっては、いかな探偵であろうともお手上げだ。 どこぞのパイプ片手に鹿打ち帽を被る名探偵と言えど、これはどうにもなるまい。 『だが、手詰まりでは無さそうだ。 「ん?」 珍しく、闇の剣がアドバイスを提示する。 「……」 シェゾは崖のギリギリまで近づき、白い霧に包まれた滝壺を凝視する。 「見えない」 無論、靄に包まれた滝壺の事ではない。 「成る程、思ったより、面白いかも知れないな」 シェゾはいよいよ本格的に興味を覚え始める。 『見えない』のだ。 何かが、それを遮っている。 無いから見ようがないのではなく、明らかに遮断されているのだ。 しかもそれは言いようのない圧倒的な濁流。 色と言う概念を失う程に白い世界だというのに、それは逆にグロテスクな程に濁って見えていた。 傍目から見れば雄々しく美しい自然。 だが、ほんの僅かのフィルターを通すとそれは様相を一変させる。 「この滝っつーか、川の流れ自体にも気を感じるが…それも関係しているな」 シェゾは実に面白そうに呟く。 彼は感じているのだ。 先程から、妙に身を引かれる感覚がある。 滝が重力でも発しているかの様に。 「何かが、呼んでいるのか?」 『これ以上我がものを言う必要はあるまい。 闇の剣は黙る。 「どれ」 シェゾは探索を開始した。 最初の一歩。 それは簡単だった。 前に歩いて、足の下から地面を無くし、滝壺に飲み込まれる。 ただ、それだけ。 眩いほどに黒い男は、不快な程に濁った白い世界に消えた。 |