魔導物語 小説『雲の下で』

第一話 Wheat




「リンボが、やばい」
 サタンはそう言った。
「あ?」
 シェゾは訳がわからない。
 リンボは分かる、が、何がヤバイのか。
 そして、こいつが何故俺に言うのかが分からない。
「場所はここだ。制限時間は…あと五時間弱と言ったところだな」
 サタンは赤丸の描かれた地図を広げて見せる。その場所は、街から離れた草原地帯。
「だから…」
「気合入れろ。でないと危ないぞ」
 サタンがっちり腕組みして、むう、と気合を入れている。一人で気張っているとしか思えない。
「…お前も何か喰え。それから、もう少し詳しく話せ」
 シェゾは皿に戻していたフォークを動かし、15オンスのステーキを再び食べ始めた。
 サタンは近くを通ったウエイターを指を鳴らして呼び止める。
「ウエイター。私には20オンスで。ミディアムだ。あと、白ワイン一本もって来てくれ。グラスじゃないぞ。一本だ。…そうだな、アルザス産があればそれを。無ければとにかく一番のを持ってこい。それと食後にアイスクリームだ。うむ、塩キャラメルのがあるな。それと…ああ、まぁいい。また後で頼む」
 ウエイターはかしこまりました、と大急ぎで厨房へ戻る。
「…腹へってんのか?」
「食事一つとは言え、お前如きのボリュームに負けるわけにはいかん」
 本人の目の前で実にはっきりと下らない優位性を強調するサタン。
 数分前。
 サタンは昼食をのんびり摂っていたシェゾの元へ突然やってきた。
 極普通にシェゾの前に座ったまではいいが、その口から出た言葉が意味不明だった。

『リンボ(辺土界)』

 天界でも魔界でも、自分達が居る現世でもないその異世界が、一体何だというのか?

「…で?」
「だからリンボ」
「具体的に言えっつうんだ。訳が解らん。略さずに言え」
 至極当然の要求。もっとも、それは普段のシェゾの言動にも言えるのだが。
「分っからん奴だな…。リンボと人間界の接触空間の一部で腐食が起きた。詳しく言うと、リンボと魔界、天界の三つの接点であっち側二つの気と魔界の気が障ったらしい。で、綻んだ空間の出口が人間界に繋がりかけている。それで、リンボに棲む物の怪が這い出ようとしているのだ。リンボと比べたらこちらの空間はさぞ居心地がいいだろうからな…と言う訳だ。ここまで話せば解ったか?」
「…解った」
 そう言わなきゃ、解る訳無いだろ。シェゾはそんな目でサタンを見た。
「で? どうしろっつんだ」
「お前、解ったと言っただろうが…」
「『状況』は解った。で?」
「だーかーら! お前にそれを撃退しろと言っているのだ!」
「何でそんなんをお前に命令されにゃいかん!」
 カリカリに焼き上げたポテトを頬張りつつ、つまらなそうに言うシェゾ。
「何でってお前…。リンボの魔物は我らが住む魔界のそれよりも、正直言って性質(タチ)悪いぞ。奴らに理性とか計画性とかそういうのはほぼ無い。例外なく本能のままに破壊し、蹂躙する。しかも能力は桁外れだ。そんなのが人間界に現れたら、そいつ一匹で国とは言わんが、田舎の地方の一つや二つは楽に滅ぶぞ。レベルによってはそこらの魔界の者では手が出ないくらいだ。しかもそんなのがごろごろしている」
「じゃ、お前がやれ」
 シェゾは、一応当り前と言える科白を伝える。
「魔界と天界、そしてリンボのショートが原因だってんなら、せめて今ここに居るお前が、大魔王様がカタをつけるのがスジと違うか?」
 話を聞いていた為、やや冷めてしまったステーキを急いで頬張るシェゾ。
 冷えた肉は急速に味を落とす。
「それが出来れば、わざわざこんな所まで出向いて飯まで食わんわ」
「飯食う必要はないだろ」
「目の前でお前に飯を食われておいて、この私が食ってないのでは、まるでお預けみたいで気に入らんわ。まったく、ついさっき昼食を食ったばかりだと言うのに」
 サタンは、先に来たワインを水みたいに飲みながら文句をたれる。
「知るかアホ」
「…お前も、もう少し言葉を選ばんとそのうち私じゃなくても誰かに命狙われるぞ?」
「んなもん、蚊が寄ってくるみたいにいつもの事だ」
「…だよな」
 サタンは肝が据わっているのか何も考えていないのか分からない、と溜息をついた。
「で、何で出来ない?」
「ああ、リンボ自体は言わば治外法権だ。知っているよな? あそこは、魔界は愚か、天界ですら中々手を出せんのだ。そして現世、人間界はまた別の意味で治外法権だ。『ここ』に関してもそうそう、我らも天界の連中も手は出せない。特に、私の様なトップクラスとなると逆にな」
「…納得出来んな」
「出来ようが出来まいが、次元を越えて正式に確約された数少ない、効果のある条約だ。だからこそ、こうしてお前に頭を下げるのだ。おい、ワインをあと二本追加だ。何? もうこのクラスはない? ならその下でいい。あ? 代金? ほれ、これでいいか? 何なら店ごと買うぞ」
 サタンは懐から金のインゴットをどん、とテーブルに置いた。
 ウエイターが目を丸くして全力で走り出す。
「話が逸れたな。とにかく、この私が頭を下げるのだ。滅多にどころか、一生を十回輪廻しても二度は無い、光栄きわまる話だぞ」
 まるで下げてないだろ。とは言わないでおく。
「そっちが原因で人間界に危機が転がって来たってのに、知らん振りかよ」
「少なくとも天界はだんまりだな。人間界においての出来事に奴らが関心を示す事はまず無い。お前なら、知っているだろう? 『神』は、木っ端人間になど感心は無い。うむ、このワインはなかなか美味いな。おい! あと五本追加だ! それと更に五本を土産にするから包んでくれ」
 ウエイターの代わりにやってきた支配人がもみ手をしながら、折れるような角度で頭を下げて厨房へとすっとんだ。

 お前なら。

 シェゾに言ったのかも知れないし、異空間にひそんでいる闇の剣に言った様にも聞こえる。
 もしくは、どこにいるとも知れぬルーン・ロードに言った様にすら聞こえた。
「『神様』はともかく、お前は?」
「こうやって、わざわざ人間界へ報告に出向いて来ただろうが。しかも私が直にだぞ。それだけで跪いて有り難がって欲しいくらいだ」
 普段から人間界に入り浸っているくせに…。
 シェゾは鼻で笑った。
「こっそりお前が片付ければいいだろ」
「阿呆。絶対にバレるわ。リンボのモンスターが魔界か天界に現れたと言うのなら、現れた方の世界で処理すればいい。だが、他の世界に出たとなるとやっかいだ。特に、今回のケースで言うと、例えば私が倒したら天界の者どもに借りを作らせたと言う事になってしまう。これは貸しどころか、むしろお互いにマイナスとなる。平和の均衡が崩れるのだ」
「崩れると?」
「お前は、聞いた事が無いか? 四千と、約八百年前に、この近くの土地でArmageddonが起こった事実を。まあ、表には出ない歴史だがな」
「……」
 シェゾの眉が、ピクリと動いた。
「知っているか?」
「…ああ。村が一つ死んだ。それが、最初の『余波』だったな」
 あまりにも凄惨な余波。
 シェゾは思い出したくもない、しかし忘れる事は出来ぬ、『語り継がれた記憶』を呼び戻す。
「余波だけで、数ヶ月も続いた。その後の惨状は…良く知らないがな」
「よく知っているな。まぁ、それの記述書が無い事も無いが、理由も無く深く知る必要こそ無いだろう」
 サタンは慰める様に言う。
 まるで、彼の『経験』を知っているかの様に。
「それを起こした我々魔界と天界ですら、Armageddon自体は好ましいものではないと考えている。だが、それは一部の者同士の話。普通、トップクラス及びブレーン連中になるとそうはいかん。相手の息の根を止めるチャンスにこそ思うだろうがな」
 そこまで言って、サタンはようやく運ばれてきた草履の如く大きいステーキにナイフを入れた。
 バターが表面を伝い、焼いた肉特有の香りが食欲を誘う。
「……」
 シェゾはもう食べ終わっている。
 話を聞きつつ、食後のワインで喉を潤していた。
「ああ、確かにこれ美味いな」
「コラ! 勝手に飲むな!」
「ケチケチすんな。俺にも三本包んでくれ」
 …払いは、私なんだろうな。
 サタンは頬を引きつらせながら、とりあえず話を続ける。
「とにかく、だから、私は手出しが出来ん。だが、Armageddonは御免だ。あれは気持ちのいいものではない」
「その時は、どれだけ殺した?」
「嫌な質問するな、お前」
 食のスピードこそ落ちないが、サタンが眉をしかめる。
「どうなんだ?」
「…お前は、袋に入った小麦の粒を数えた事はあるか? 十袋や二十袋どころではない数をだぞ」
 やや自嘲気味に言うサタン。その瞳が愁いて見えたのはシェゾの気のせいだろうか。
「そうか」
 シェゾはグラスのワインを飲み干した。
「そういう訳だ。解ってくれたか?」
 レンガみたいに分厚いステーキを刻みながらサタンは言う。
「要は、人間界は体のいい掃き溜めって事か」
「そう言うな」
「Armageddon自体はお前らの戦いだってのに、戦場は人間界ってのがどうしても気に入らないのさ。汚しても、壊しても、自分の世界に害はないってのがな」
 静かな非難にサタンは苦々しく笑った。
 シェゾは、少し前の経験を思い出して気が重くなる。
 だが、それは皮肉にも否が応でもシェゾのやる気を引き出す。

 二度と、あんな思いをするものか。

 そう思わせる。
 あの村の記憶は、生涯忘れる事は無い。
「ま、そう言う訳だ。よろしく頼んだぞ」
 サタンがシェゾのグラスに白ワインを注いだ。
 シェゾのグラスにサタンが飲み物を注ぐなど、そうそう、いや、それ以前に魔界の実質帝王が人間に飲み物を注ぐなど、それこそありえない筈だった。
 知る人が知れば、冗談ではなくショック死してもおかしくない光景。
「ま、話のネタくらいにはなるな」
「…お前、これ誰かに話したら殺すぞ。いやマジで。本当に」
 冗談だ、とシェゾは笑って返杯する。
「まずはここの飯代とワイン持ち帰り分。それから残りの報酬は終わった後でたっぷり請求させて貰うぜ」
「わーっとるわ」
 サタンはシェゾが注いだワインを一気飲みして、小さくげっぷした。



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