魔導物語 闇に生きると言う事 第一話 人魚の湖 次の日 午後1時50分 太陽が頭上から下がり始める頃、彼は静かな、そして大きな湖の辺に立ち寄っていた。何となく、この風景が好きだったから。そして何となく、彼女と話すのが好きだったから。 「…シェゾさん」 その声は、透明な輝きをきらめかせる静かな湖から届く。 「また、いらしてくれたんですね? …あの、嬉しいです」 声は、ゆっくりと近づいてくる。湖面が微かに波打ち、小さくパシャパシャと音を上げて水色の髪の少女が近づいてきた。 「セリリ」 彼、シェゾはかすかに微笑むと水辺に降りた。元から表情に乏しい男だから、わずかな微笑みも新鮮に映る。そして、今の微笑みはその中でも特に優しかった。 あの時…、ウォーターパラダイスと呼ばれていた塔で彼女と会って以来、今までに出会った事の無い種類の彼女に、シェゾは不思議な親近感を覚えていた。 お互い、独りで生きていると言う親近感だろうか。 いや、彼女の場合はそう勘違いしているだけ。周りには、見守ってくれる人が沢山いる。 だが、それでも、彼女がそう思っている。それだけでも近い存在に思えたのだろう。 自分が自信を持って生きろと教えたから、彼女はやがて自分が独りではない事に気づくだろう。その時、自分はまた一人になる。それでもいい。今、彼女は少なくとも自分に微笑んでくれる。それで、いい。 シェゾもまた、自分の周りに居る人に気づいていない一人だった。周りの気苦労は、まだ暫くは続くのだろう。 ゆっくりと微笑むセリリの瞳が、わずかに霞む。 「シェゾさん、あの…どうかなさったんですか?」 「おまえには、やはり分かるか」 隠すでもなく、正直に言う。 「何か、お話して気が休まるのでしたら…」 セリリは、人の悩みでも自分が悩んでいるかのように心配してくれる。いや、人の悩みだからと言うべきか。彼女は、自分の悩みなら自分で閉じこめておけばいいと考える。そうすれば、人に心配をかけずに済むから。 そんな自虐的でさえある優しさも、シェゾは好きだった。自分には、到底出来ないことだから。シェゾは時折、それをうらやましいとさえ思っていた。悩んでいる彼女の心の痛みを自分が感じて、それに苦しむことなど出来るだろうか? そんな気持ちが、彼女への無意識な優しさを際立たせていた。 「……」 「シェゾさん?」 つかみ所の無い表情で見つめるシェゾに思わず不思議な興味を覚えて、無用心極まりなく近づく。花蟷螂に近づく蝶も、こんな気持ちだろうか。 「あ…」 蝶がつかまった。 不意に、シェゾがその大きな手をセリリの頬にあてる。指が優しく頬をなでつつ、親指が唇に触れた。セリリの顔は、シェゾの手に半分以上隠れてしまっている。 「…!」 突然の事にセリリが目をまん丸にして硬直する。顔が赤らんでゆくのが、見えない自分でも目に見えて分かる。しっとりとぬれた頬が、あっという間に乾きそうなほどに。 「あ、あの、わたし、濡れていますから…」 やっとその一言をしゃべる。他に言うことがありそうなものだが、まず相手を気にするのが彼女らしい。 「分かっている」 シェゾは、一向に気に留めず、戯れを楽しんでいる。セリリは瞳を閉じ、ただ彼のなすがままだった。ほんの少し、体が震えている。それは、恐怖とは正反対の怯え。 「セリリ…」 「は、はい」 普段から静かで高い声が、さらに裏返りそうになる。 「お前が、うらやましい…」 「え?」 驚いて瞼を開くと、今までに見たことの無い表情のシェゾがそこに居た。悔やんでいるような、悲しんでいるような、怒っているような、とにかく、理解しがたい表情だった。 「…?」 ひとしきりセリリの顔を弄び、その手が顔から離された。セリリはその行為で、すでに体中の力が抜けていた。触られたのは顔だけなのに、セリリはまるで自分のすべてをシェゾに触られてしまったような錯覚に陥っていた。 頬が、胸が熱かった。 「すまない。訳の分からん事をして」 「え? あ、いえ…」 その声はどこか空をつかむようだった。シェゾの言葉が聞こえていたのかどうか。 「また、来てもいいか?」 信じられないが、かすかに弱気な声を含むシェゾの質問。それを敏感に捉えたセリリは、ぶんぶん頭をふった。 「い、『いいか?』なんて言わないでください! いつでも、いくらでも来てください!わたし、いくらでもお相手しますから!」 必死のセリリ。 「わたしが、もうちょっと力があれば、水の中だけでなく、どこでも移動できるのに…。すいません、わたしが力不足で」 本来、鱗魚人(うろこさかなびと)は魔族に近い種族ゆえか、特別な努力無く浮遊を使える。『陸の人魚』たる所以だ。 ただ、セリリの場合は体力的なことか自信的なことか、ろくな時間の浮遊が出来ない体だった。 「優しいな…」 「そんな…」 しかし、あの日以来、少なくとも自分の弱さを嫌ったとしても自暴自棄になることはなくなった。何とかしたいと、思うだけでもいいからそう思いたいと願うようになった。 シェゾが、そうしろと言ってくれたから。 ありがとう、と言葉を残してシェゾは去った。 その後ろ姿に、セリリは言いようの無い何かを感じる。だが、とりあえずは先ほどの手の感触がセリリの思考能力を奪うことに成功した。再び頬を上気させて、彼女は心地よい黄昏に酔っていた。 |