魔導物語 三月三日の野望 第一話 二月二十七日 「足りん! 足りんぞおおぉぉぉぉっ!!」 サタンは巨大な部屋で叫んだ。 乾いた空気が振動し、重厚な石壁に木霊を何重にも響かせる。 「やかましいっ!」 声と同時、いや、それよりやや早く、腰の入ったコークスクリューパンチが明日に届けとばかりにサタンのチンを捕らえ、粉砕する。 「あぁんっ!」 脳をシェイクされ平衡感覚を狂わせたサタンは、涙と鮮血となんかを振りまきながら、きりもみして踊る様に床の上に倒れた。 倒れたサタンに応じた訳でもあるまいが、窓の外では同時に満開の梅がさあっと花びらを舞わせる。 一つとして同じ軌跡で落ちるものは無く、つむじ風が花びらを捕らえるたびにピンクの色彩は、太陽の光を浴びて淡く輝いた。 それは、桃色の波が淡くうねる様にも見える。 梅の花は八部咲きという頃であろう。肌寒い空気が、梅の花に染められるみたいにして少しずつ暖かくなり始める季節だった。 「あんたね、魔王様ならもうちょっと落ち着きな! まったくいいトシして…」 その怒り任せの声はブラック。 彼女は無様に床に転がるサタンの足を、おまけとばかりに蹴飛ばすと、こぶしを撫でながらソファーに戻る。 腕が立つとはいえ、拳自体は女のもの。細い指が少し赤くなっていた。 二人の遥か後方では、殆どブラックと同じ格好のメイドがティーポットを持ちながら、今の恐れ多いどころでは済まない所業におろおろするばかりだった。 「…ま、まま、ままままおーさまと思うなら、も…もももう少しそれ相応の扱いが、あああるのではないかぁ…?」 まだ膝が笑っているが、何とか立ち上がって反対側のソファーに座る。一呼吸して、やっと今の言葉を発する事が出来た。 視界がまだ定まらず、眼球は安定を求めて痙攣している。気の毒に思うべきか、笑っていいものか。 「黙りな。あんたが悪い。いきなり立ち上がって叫んだら普通何事かと思うでしょうが。バーカ!」 とても魔王様に対する尊敬語とは思えない。ブラックは憮然として言った。 「…何事かと思うなら、フツーまずは声をかけてくれるものでは…?」 サタンは不安定な音程でやっとこさ非難の言葉をぼやきつつ、落ち着いてきた視界を確認する。 そして、どうしてこうも自分は痛い目に遭うのかと、答の無い質問を頭で繰り返した。 しかも、全てを許せるカーバンクルや実力拮抗の他の魔界の実力者、某あほたれ闇の魔導士、そして愛しの后(超希望的予定)ならいざ知らず、今魔王に向かって拳を繰り出したのはただの暗黒メイドである。 メイドに殴られた魔王って、歴史見ても居ないよなー…。と、サタンはちょっぴりセンチになっていた。 ついでに、そう言った暴挙に対して報復を考えない魔王も一切例が無い。 「で? 足りないならどうする? ん?」 言葉でサタンの尻を蹴り上げるブラック。ここまで遠慮が無いとむしろある意味気持ちがいいと言える。 ブラックは、おろおろしたままのメイドが出した羊羹を味わいつつ返事を待つ。 皿の上、色の配色のアクセントとして添えられている梅の花びらのなんと可愛く、美しい事か。 「あ、ああ。そうだな…。もう時間も無い。ここは一つ、餌で釣るとするか」 サタンも一口で豆大福を頬張る。 「ま、頑張りな」 ずずっと、何故かティーカップに煎れられた玉露をすするブラック。 もしここにキキが居たら、茶碗を出せと大騒ぎするところだろう。 掃除と同じで、本来の用途以外に使われる器を見過ごせる性格ではないのだ。 「だからお前も手伝ってくれよぅ…。その為に呼んだのだと何度…」 サタンの毎度おなじみ、はた迷惑極まりない『偉大なる計画』は水面下で着々(?)と進行していた。 ブラックははいはい、とまるで興味なさげに窓の外を見る。 そんな彼女の視界の真ん中に、ふっと梅の花びらが舞っては消えていった。 二月二十八日 今の季節、もうじき咲き始めようと準備を始めている桜に負けてなるものか、と梅は満開だった。 最盛期を過ぎ、はらはらと散り始めたピンク色の花びらはそよ風に美しく舞い、かすかな甘い香りと共に、見る者の目と鼻を楽しませる。 今の公園って、ちょっとした夢の空間みたいだな…。 そう、彼女は思った。 「きれいだね、カーくん」 そして彼女は思わず声にも出す。その嬉々としたした声のなんと爽やかな事か。 「ぐー!」 カーバンクルは、それに対して返事をしている様に聞こえる声を出す。が、それは単に今食べているリンゴ飴への賛辞かも知れない。 そう思いつつも、少女はとりあえず梅がほころぶ幻想的な公園の光景に心を奪われて、うっとりしていた。 普段はその名の通り花より団子だが、それでもこんな圧倒的な美しさを目の前にすると、少女の胸は自然にときめく。 その土地の中心に、霊験あらたかぷよ大明神を祭った巨大な公園。 そこは今、盛大な梅の祭真っ最中である。 中央の社に繋がる大きな通りでは出店や大道芸が所狭しと自分達をアピールしながら人々を楽しませていたが、一歩わき道にそれれば、もうそこは満開の梅と、蕾を膨らませて今か今かと自分の出番を待つ桜の木が視界を埋め尽くす。 通路付近では花見に興じて宴会を催す人々も多いが、少し更に奥へ行けばもう、人は殆ど居ない。 森は、特にこの周囲の森は決して人の物ではない。 人が足を踏み入れられるのは、その広大な領域のほんの僅か。 それより奥は、魔物の領域だ。 だからこそ森は美しく、そして妖しい。 それだけに森はより美しく一つ一つの季節を映し出す。 一見当たり前だが、それに気付ける人は意外に少ない。 音楽も喧騒も消え、風と鳥の囀りが幻想的な空間をよりファンタスティックに彩っていたその世界。 「アルル、なにやってんの?」 そんな彼女の耳に入った声は、聞き覚えのある声。 「あ、ドラコ」 振り向いた先。 ドラコは、周囲のなかでも一際大きな梅の木の上に居た。 程よい傾斜にしなる枝に背中を沿わせて座っている。 彼女は、いつも通りのトレードマーク的な紅いチャイナドレスだった。しかし、今は格闘向けの仕様ではなく、本当のドレス。 光によって軟らかく煌くドレス。やや薄手の布は、スレンダーなドラコのラインを悩ましげに縁取っていた。背中の羽が、人にあらざる少女と言う不思議な魅力を際立たせる。 いつものスパッツをつけていない為、ドレスの大きなスリットから白い二の足が覗く。女のアルルでも一瞬ドキッとしてしまう。 しかも暑いのか胸の部分をはだけてしまっているので、その胸元を見ては誰でもどきりとしてしまうだろう。 「何しているの?」 アルルは近づいたが、出来るだけ上を見ない様にして話し掛ける。何となく、今の格好のドラコは下からは見づらかった。 スカートからのぞく足はどうにも目のやり場に困る。 そんなアルルを気にする風もなく。 「んー。花見酒。今やっている祭っていいよね。こんないい酒もあるし〜」 ドラコはそう言って、木に隠れていたお猪口を手に持った。 良く見れば、ドラコの頬はほんのり紅い。 「んふふ…」 目も、やんわりと虚ろだ。そんな瞳は、意識せず色気を匂わせる。 「…大丈夫? 落ちたりしないでね?」 素直な心配。 「へーきへーき。さっきも言われたけど、そーんなドジ踏まないもんねー」 「そう。ん? さっき? 誰か来たの?」 「教えない」 ニヤニヤ笑うドラコ。 「なんで?」 「あんただから」 もっとニヤニヤするドラコ。不思議と嫌な感じはしないが、明らかに自分がらみの事である。 「どして〜? ボク絡みなら教えてよ〜!」 「やだ。ふふーん」 どうにもアルルはすっきりしなかった。 そこへ、来訪者が訪れる。 「ドラコさん! もう…そんなところに登って、しかも飲んでいらっしゃいますわね。危ないですよ!」 後ろから声がした。 「あ、キキ」 「ん〜? やーだ」 ドラコは相変わらず木の上でふにふにしている。 「もう…。この季節は正体を無くしてしまう人が多くてホント、困りますわ」 キキはアルルの横に並ぶと呟いた。 愛用のモップを担いで、ふう、と溜息。 「…公園、見て周っているの?」 「別に監視とかじゃありませんわ。ただ、あんまりマナーが悪い人がいると、物を壊したりする事があるので、そういうのは許せませんわね」 ふと、キキの持っているモップを見ると、何やら柄の部分に染みの様な色を見つける。 「…ね、ねぇ? どんな風に許さないの?」 アルルはおずおずと聞く。 「別に酷い事はしませんわ。ただ、私も礼を知らない人に礼は返しません」 そう言って、キキはモップのブラシ付近を持つ。 そして、おもむろにモップをぶん、と器用に回転させた。 まるで、棍を扱うように。穏やかな彼女が、その瞬間例えようもなく凛々しく見えたのは多分気のせいではないだろう。 「あ、あはは…」 礼儀知らずには厳しいメイドである。そこらに遠慮がないあたり、流石ブラックと姉妹だな、とアルルは再認識した。 「あ、それじゃ、ドラコに注意したのも、キキ?」 「え? いえ。私は、今初めてここに来ましたわ」 「あ、そうなの?」 「んふふ〜。こーゆーカッコには弱いみたいなんだよね〜」 そんな下の会話を聞いてか聞かずか、ドラコは器用に木の曲線に合わせて身をのけぞらせると、楽しそうに笑った。 「…なんなの? 一体…」 木の上で猫の様にしなやかに、くすぐったそうに笑うドラコと、その下でもどかしそうにしているアルル。 木登りが上手い猫と下手な猫、そんな光景に見えた。 三人を包み込むようにして、梅の花びらは空気を淡い桃色に染める。 季節はもうすぐ春を迎えようとしているのだ。 |