魔導物語 さくらよさくら 最終話 寿限無 参った…。 正にそんな光景だった。 ファル、ルミル、エル。 そして今森の奥からやって来た、ヴァルと呼ばれたもう一人のマンドレイク。 間違いなく、三人の仲間だろう。 そして揃った四人が、四人とも泣きじゃくっている。 ハーピーがおろおろと四人をなだめているが、彼女のあやしですらマンドレイク達を泣きやませるには至らない。 ど、どうしましょう…。 ハーピーも、思わずシェゾに助けを求める。 「いや、どうしようと言われても…」 泣く子に勝てる奴は居ない。 多分それは正しい。 本当に正直な事を言えば帰ってしまいたいところだが、生憎と乗りかかった船はそうそう降りられるものではないし、降りるのも癪だ。 まだハーピーの歌も聴いてはいないし、何より多分、自分は今回の事柄の理由を知っている、いや、予測出来るだろうから。 「……」 その予測を考えると少々頭が重い。 が、小さく溜息を吐くとシェゾは、自分なりの解決策を案じ始めた。 「ゆっくりでいいから話せ。ファルは、何処で居なくなった?」 しゃがみ込み、ヴァルと呼ばれたブラウンのロングヘア、そして頭には黄色と黒の花を咲かせたマンドレイクに問う。 本人としては出来る限り優しい口調で。 「…うう…」 ヴァルはハーピーに埋めていた顔を上げ、弱々しく顔をシェゾに向ける。 「わたしたちのおうちから…。ベッドでねていたのに…わたしが来たときには…どこにも…」 「木はどこにある?」 「え?」 「木だ」 「木って…」 ヴァルは困惑する。 言う間でもなく、周囲は木だらけなのだ。 あの、シェゾさん? 流石にハーピーもシェゾに問う。 「いや、別に周りのただの木の事じゃない」 「…?」 ヴァルだけではなく、アウル達三人も訳が分からない、と首をかしげる。 「こいつらの様な木の事だ」 シェゾは、森の一角を守護するその『木』の群れを指さす。 「あ」 四人は、ああ、と納得する。 「たいじゅさんのこと?」 「そうだ。お前達のだいすきな、たいじゅさんの事だ」 「たいじゅさんは、ここらへんにたくさん…」 そう言いながら、ルミルはぐるりと周囲を見渡す。 「この周囲だけか?」 「うん、だとおもう」 「最近、おかしな所は?」 「おかしな?」 「大樹が弱…いや、最近、モンスターが内部に入り込んだりとか、そう言う事は、無いか?」 「…アウルが、このまえ向こうがわのたいじゅさんのほうで、こわいものがはいりこもうとしていたって…」 ルミルがぼそりと思い出してつぶやく。 「あ、うん…」 アウルは頷いた。 「そこはどこだ?」 「でも、いまはファルを…」 アウルが嘆願する。 「関係がある。連れて行け」 静かだが、有無を言わせぬ何かがあった。 アウルは、半ば操られたかの様に道を先導する。 途中。 シェゾさん。 ハーピーが訪ねる。 「ん?」 一体、何が…? 「嬉しくはない事が起きているかもしれない。こいつらにとって、な」 …? 彼女達にとって、何か良くない事。 ハーピーは笑みの消えているシェゾの顔を見て、急激に心に不安が渦を巻き始めるのを感じていた。 歩き出してから十分程経った頃。 「もうすこし、さきのほう…」 少し息が切れてきているアウルが、そう言いかけたその時。 「止まれ!」 後ろの方で言葉どころか呼吸音すら聞かせなかったシェゾが突然声を上げた。 聞いた事のない様な厳とした声に、マンドレイクとハーピーはすくみ上がる。 声と同時に、しんがりだったシェゾはただの一歩で全員をまとめて飛び越し、その着地地点は二十メートルも前となる。 同時にシェゾは闇の剣を亜空間から抜く。 勢いよく取り出したその刀身は、次元間の摩擦によって青白い火花を滝の様に散らす。 まるで光のカーテン、もしくはオーロラの様に。 カーテンの勢いは治まる事なく吹き出し、それは意志を持つかの様に道筋を伸ばす。 驚いた事に光の滝はやがてマンドレイク達の周囲をすっぽりと包み込み、彼女達は光の滝の中に収まってしまった。 アウル。 アウルの頭の中にシェゾの声が響く。 ファルの特徴を見せて貰う。 「え?」 頭に響く言葉の意味が分からなかった。 数秒後。 光の滝が尽きると同時に、マンドレイク達は眩い光を放つ滝の中で、ハーピーを中心にもたれる様にして、眠る様に倒れてしまう。 「分かった」 シェゾは振り向きもせずにその場を去り、風の様に森の奥へとかき消えていった。 数分後。 突風は森を突き進んでいた。 風の弾丸は密集している木々の間を縫う様に駆け抜け、やがて一本の巨大な大樹の前にたどり着き、そのまま大樹に突っ込む。 巨大な大樹は、無数に重なり合った大樹の結界林の中央に立っていた。 周囲の大樹は中心の大樹に比べると赤茶け、明らかに枯れかけの状態と分かる。 だが、そんな木々でも迫り来る疾風には最大限の攻撃を仕掛けてきていた。 無数の気の砲弾が風に突き刺さる。 しかし、それはどれ一つとして風を止める事叶わず、氷が砕ける様に消えていった。 「ふっ!」 息吹と共に風はシェゾの姿へと戻り、速度落とさぬまま、亜空間より出現した闇の剣がその刀身で目の前にあった巨木、大樹の一本を真正面から貫いた。 瞬間、周囲の大樹が風もないのに枝葉を揺らす。 それはまるで悲鳴の様に響いていた。 シェゾは最低でも樹齢三千年は越えているであろう巨木に真っ直ぐに突き刺した闇の剣を、一瞬の停滞もさせる事無く、まるでバターをえぐるかの様に上方へ振り上げる。 木の幹に剣を根本まで突き刺すだけでも非常識だが、それを更に切り裂きながら動かす。 一体、どのような技か。 刀身の長さから見れば、樹木にとってはほんの刺し傷程度の傷の筈だった。 だが、勢いよく振り上げた剣がついに幹から抜けても尚、裂傷は幹の上部へ向かい、ひびが樹皮を内面から破りつつ昇っている。 生木が勢いよく割れる、すこし湿った甲高い悲鳴が周囲に響いた。 シェゾはその身を大きく後ろに飛び退かせる。 裂ける音の上昇と共に、音の通過した箇所の枝という枝が揺れ、小枝や葉、松笠に似た木の実が雨の様に落下する。 現実にして非現実的な事実。 亀裂は樹木の頭頂部まで達し、千年を越える寿命を誇る大樹は、まるで麦の穂が倒れるかの様に真っ二つに分かれ、そのまま根本から倒れた。 あっけなく倒れたとはいえ、千年を越す樹木である。 幹の根本は大きく土がえぐられ、まるで地下へ地下へと続くかの様な大穴が口を開けていた。 「むっ!」 だが、息継ぎする暇もなく、シェゾは倒れた樹木に再び駆け寄る。 瞬間、切り裂かれた幹の間から墨の様な煙が吹き出す。 シェゾの頭の中に悪意が吹き込んできた。 しかし。 シェゾはちゃちな精神攻撃を一笑に付し、どす黒い霧の固まりを闇の剣で袈裟懸けに一閃する。 無形である筈の霧が、まるで固形物の様に切断面で真っ二つに裂ける。 切断面には小さな稲妻が走り、何やら切断された部分同士を近付け様としていた。 だが、二つに分かたれたそれのお互いは磁石の同極であるかの様にずれ続け、ともあれば反対に引っ張られているかの様に離れてしまう。 やがて、互いに分かれた半身は永遠にふれあう事無く、正に煙の様に消滅した。 障気の様に渦巻きながら消えた煙を確認し、シェゾはようやく思い出した様に溜息をつく。 疲れから来るそれで無い事は、彼の不機嫌な様な、悲しんでいる様な表情から読み取れた。 シェゾは倒壊した大樹の奥を眺める。 その奥の更に遠く。 そこには、木々の影に守られる様にして遮られてはいるが、まるで天から地面を押さえつけているかの様な巨人の足を思わせる、あまりにも巨大な木、大樹があった。 恐らく、あれは大樹を束ねる長なのであろう。 静かな、しかし厳とした気をシェゾは感じていた。 大樹の結界林を進むも、今は彼の足を止める要素は何処にも無い。 それどころか、どこからともなく吹く風はシェゾの周囲を川の様に流れ、背中をそっと押し進める。 まるで、あの大樹の元へ導くかの様に。 大地を編み固めるかの様に張り巡らされた根を踏み越え、大樹の目の前まで歩いた。 端から見ても巨大だったが、間近に見ると尚のこと巨大である。 周囲を見渡さなければ、それはまるで壁の様だった。 岩の割れ目の様に堅く、巨大で深い樹皮に手を添える。 見た目に反し、それはほのかに暖かく、堅いには違いないと言うのに硬質なイメージを抱かせぬ触り心地だった。 シェゾは手を触れたまま目を瞑る。 閉じられ、闇と化した世界に、不意に白い光が輝いた。 同時に、声が響く。 何を言っているのかは分からなかった。 だが、意志を感じる事が出来る。 一瞬にも、幾千年にすら思える錯覚を起こしてシェゾは目眩を感じた。 「…なるほど」 瞳を開く。 頭を上げると、そこに巨大なうろが穴を開けていた。 「あそこか」 シェゾは崩れた岩山の様に荒々しく裂けた樹皮に足をかけ、登り始めようとする。 その時。 不意にシェゾは登り掛けた木から足を離し、ゆっくりと後ろを振り向いた。 「良く分かったな」 そこには、申し訳なさそうな表情でおどおどとシェゾの顔を見上げるハーピーがいた。 マンドレイクと違い、ハーピーは多少の魔力には耐性がある。 先に目覚めるのは分かっていたが、ここに来るのには、少々驚いてた。 わたし、シェゾさんの居る場所なら、ぜったいに分かります。 何げに恥ずかしい事を面と向かって言われ、シェゾはつい顔を逸らしてしまう。 怒らせる事を言ってしまったのかと思ったハーピーは、慌ててシェゾに近寄り釈明する。 あ、あの、わたし、おじゃまする気はありません。ただ、お一人で何をされるのかと思って、それが危ない事だったらと思うと…つい…。あの…。 シェゾは俯いて言葉尻を下げるハーピーの頭に手を乗せ、そっと撫でた。 ぴくりと身を震わせてから、その手が自分を叩く為に上げられたのではないと気付き、ハーピーはやっと安堵の表情を見せた。 「あいつらはどうした?」 あの子達は、大樹の林の中でまだ、眠っている筈です。大樹が、きちんと守ってくれると、そう私に語りかけてきました。 そうか、とシェゾは再び大樹の長の木に振り向く。 この木が、大樹の…。 「自己紹介は無いが、大樹達を束ねる長だ。間違いはない」 シェゾは木のうろに向かって昇り始める。 うろまでの高さは七メートル程度で、足を掛ける位置も豊富にある木を昇るのはまるで苦労が無かった。 ハーピーも、自らの羽でシェゾを追う。 わたしが、シェゾさんを運べればいいのですけど…。 申し訳なさそうに呟く。 「あんまりその恰好は想像したくないぞ」 シェゾがくすりと笑って呟く。 ……。 ハーピーは、抱いているのか抱かれているのか分からないその様子を想像して赤面した。 シェゾはうろに手を掛け、その中を覗き込む。 「居たか」 …! シェゾの後ろからそっと中を覗いたハーピーが息を呑む。 大人でも、少し屈めば入れる程度の巨大なうろの奥。 覗き込んだ薄暗い闇の中。 静かな顔で横たわるファルが、そこに居た。 シェゾは体をうろに潜り込ませ、猫の様に丸まったまま、ぴくりとも動かぬファルを抱き上げる。 ハーピーは、妙に優しく彼女を扱うその姿に、思いたくない、子供に対して思いたくないと必死に思いつつも、心のどこかで確実に妬いている自分を自覚していた。 何時から自分はこんな風になってしまったのだろう。 こんな自分だから、声を出して歌を歌えないのだろうか。 ハーピーは自問する。 そんな彼女だからこそ、この世でただ一人の声なき声の、至高の歌姫なのだとは気付かぬままに。 シェゾはファルを抱きかかえ、うろから一気に飛び降りる。 些か乱暴な行動にハーピーが息を呑むも、それは杞憂と気付く。 シェゾの足は地面に近付く程にその速度を落とし、ついにはほんの枯れ枝の上に足を置いたというのに、それの上に立ってしまった。 一呼吸置くと同時にやっと重力らしい重力がシェゾに働き、足の裏の枝がぽきりと力無く折れる。 ハーピーはシェゾの抱くファルにそっと顔を寄せた。 頭の花が、ほぼ咲いていた。 シェゾさん…。 アウル達の話は聞いている。 ハーピーはその事実に肩を震わせた。 「大樹は、一体大樹はどういう存在なのか、お前には分かるか?」 突然の質問にハーピーは目を丸くする。 いえ…すいません。わたしには…。 申し訳なさそうな顔で自分を見るハーピーに、シェゾは気にするな、と微笑む。 「マンドレイクは、森の子供だ」 周囲の森を見渡しながらシェゾは言う。 風が吹き、緑一色だった森にどこからか桜の花びらが少しずつ舞い始めた。 思わぬ事にハーピーが周囲を見回す。 風は変わらぬのに、桜の花びらは瞬きするごとにその数を増す。 いつしか、周囲には桜の木は一本も無いというのに、桜の森より尚数が多いやも知れぬと思わんばかりの桜吹雪が舞っていた。 「そして、森の子供が居るなら、森の母も居る」 母親、ですか? 「これだよ」 シェゾはバベルの塔の様にそびえ立つ巨大な大樹を目で指した。 …!? ハーピーはぽかんとした顔で大樹を見上げ続けた。 え? これ、が…? 「こいつらは、正確に言えばドリアードだ」 ドリアード? 世間一般の定義がどうかは知らんが、ドリアードは見た目、全くの樹木だ。だが、こいつらは植物であり、魔物であり、一種の霊的存在だ」 これが…魔物…。大樹は、みんなそうなのですか? 「そうだ。ただ、大樹にも役目がある。こいつらが普通に大樹と呼ぶドリアードは、大樹の子供、マンドレイクや森を守る存在だ。そして、その中でたった一本だけ、言うならば女王蟻の様に生命を生む事の出来るドリアードが存在する。それが、この大樹。大樹の母だ」 …この大きな樹が、マンドレイクや、ドリアードを…? ハーピーは信じられない、と言った表情で大樹の母、ドリアードの長を見上げる。 花びらは今も、大樹の周りを渦巻く様にして回っていた。 シェゾはほんの少し、ドリアードの長を見詰めてから、諦めた様な表情で振り向き、歩き出した。 「あいつらの所へ、帰るぜ」 あ、はい! ハーピーは一度振り返ってから歩みを止め、ふと振り返ると、何となく大樹の長、ドリアードに頭を下げてから、改めてシェゾの背中を追ってゆく。 少しすると、この場にあれだけ舞っていた桜の花吹雪は、先程までの光景が嘘の様にどこかへと流れていってしまった。 残されたドリアードの長は、ただひたすらに沈黙したままで時を止める。 まるで、森の時が止まったかの様だった。 「ファル!」 「ファルだ!」 「ファルだぁっ!」 それぞれの声が、様々な形で心の底から歓喜を表していた。 マンドレイク達が駆け寄る。 「アウル! ルミル! ヴァル! エル! ミルっ!」 ファルはその場にあるのが当たり前の様に形良く収まっていたシェゾの胸から飛び降り、もみくちゃになって抱き合った。 ファルの頭の花は、ほとんど閉じている。 一度は咲きかけた雪の様に白かった花。 マンドレイク達は、まるで子猫が組んずほぐれつでもみ合い、喜び合っている。 泣き声が幾重にも重なる。 シェゾとハーピーの二人は、その後程なくして先程の場所に戻る。 シェゾはハーピーに未だ眠っていたマンドレイク達を起こす様に促し、ハーピーがマンドレイク達を軽く揺すると、ほんの昼寝から覚めたかの様に四人は目を覚ました。 そして、彼女達はシェゾが抱きかかえているマンドレイクを発見、間違えようのないその名を呼んだ。 彼女が消えたのは、時間にすればほんの半日程度だろう。 だが、まるで生き別れの姉妹が出会ったかの様に再会を喜び合う彼女達を見て、ハーピーはただひたすらに、良かった、と涙ぐんむばかりだった。 その表情には確かに安心がある。 だがしかし、同時にその瞳にはえも言われぬ虞と悩み、気怠さの色が入り交じっていた。 その水晶の涙、安心の輝きのみではないらしい。 森に風が吹く。 風が、どこからともなく桜の花びらを誘い込んでいた。 雪の様に花びらが舞う。 「ハーピー」 シェゾは雪の精の様に静かにたたずむハーピーに、静かに言う。 は、はい…。 涙をそっとぬぐい、気丈に振る舞って顔を上げる。 だが、その瞳はもう真っ赤だった。 「『声』まで出さなくてもいい。それでいいから、今日は俺じゃなく、こいつらの為に歌ってくれないか?」 この子達の為、ですか? 不思議そうに、残念そうに問うハーピーに、シェゾは頷いた。 「あの桜の森で、こいつらの為に、歌ってやってくれ」 シェゾの声が脳に刻まれる。 その声。 人、魔物、妖精すら魅了するハーピーをして、それこそが抗いようのない魔性の声に他ならなかった。 ふわりと、二人を包む様に花びらが舞う。 …歌います。この子達の為に。 「ああ」 シェゾは微笑んだ。 優しく、そして瞳の奥に深い悲しみを封じ込めた表情で。 みんな、わたしの住んでいる森に、遊びに来てくれる? わたし、春の歌を歌うわ。 「わぁ!」 「本当?」 「ファル、良かったね!」 「ハーピーの歌だぁ!」 皆がそれぞれに喜ぶ。 笑顔が花開く森の一角。 桜の花びらは更に更に数を増し、春の香りと視覚、暖かな感触を森に満たしていた。 ハーピーの森。 明るく太陽差し込む桜のステージで、ハーピーは『歌って』いた。 声なき歌。 だが、どのような歌よりも、どのような声よりも美しい歌。 マンドレイク達は自分たちの為だけに唄われる『声』に酔いしれ、皆が夢心地だった。 眠った様な顔で聞き惚れる者。 真摯な瞳で不思議な歌を紡ぐハーピーを見詰める者。 頭の中では分かるのに、どうしても口に出せないその歌詞を必死に輪唱しようとする者。 小さなコンサート会場は桜と風、緑に包まれ、光のプリズムに彩られていた。 「アウル、よかったね…」 エミルがそっとアウルに呟く。 「ん? うん」 満面の笑みで、ファルに気付かれぬ様に笑うアウル。 「よかったよ。ほんとうによかった。こんなきもちでうたをきけるなんて、おもわなかったもん」 アウルは眠たそうな程に心地よい表情で歌に聴き惚れるファルの手をそっと握る。 手に加わった暖かみ。 ファルはアウルを見て手を握り返す。 「アウル…」 愛らしい微笑み。 その瞳には、いつしか涙が溢れていた。 「ファル」 アウルは、その涙を喜びと受け取る。 シェゾはそんな宴を、一歩離れた場所から眺め続けていた。 初めてあったときのアウルの言葉を思い出す。 アウルは、シェゾに抱きかかえられていた時、涙ながらに訴えた。 ファルはもうだめかもしれない。だから、遠くの遠くの森から時折、ほんのちょっとだけ『聞こえて』いたあの綺麗な歌声を間近で聴かせてあげたい。 そう言って、泣いていた。 アウルは今、全く違う気持ちで歌を聴いている。 ファルと、心の底から喜び合いながら歌を聴いている。 そう思っている。 静かに歌を奏でていたハーピーの瞳がシェゾと重なり合った。 にっこりと微笑むハーピー。 しかし、その瞳に深い憂いが浮かんでいた。 シェゾにしか分からぬその深い憂い。 故にハーピーの歌は優しい。 悲しみを柔らかな慈しみで包み込み、太陽の日差しの様な暖かな風で歌を奏でる。 マンドレイク達の為に。 ファルの為に。 別れを、少しでも癒せる様にと。 ハーピーは心からの優しさで微笑み、マンドレイク達の頬を染めさせていた。 シェゾの周囲に風が舞う。 ファルは、マンドレイクではない。 ファルはアウル達とは似て異なる存在。 彼女は、ドリアードだ。 大樹。 ドリアードである彼らは、長を中心として森を守ってきた。 だが、静かにして強大な力を誇るドリアードにも寿命はある。 ファルは、通常ならばマンドレイクを生み出すドリアードの長が、数千年ぶりに生み出した新たな長なのである。 力を弱めた大樹の長は悪性の魔物に犯され始めていた。 他の大樹にもそれは広まり、シェゾは大樹の一本に潜んでいた本体である魔物の霊体を大樹ごと粉砕する。 マンドレイクとして過ごしていたファルは、本来は一定期間を過ごしてから大樹の長の元へ戻り、そしてやがてはその姿を若い大樹へと変える筈だった。 だが、力を弱めた大樹が魔物に狙われ、ファルは戻れなかった。 大樹として生きるには親の元で生まれ変わらねばならず、それが出来なかったファルはみるみる体を衰弱させていった。 やがてファルは、親である大樹の危機をどうしても見過ごせず、弱った体を押して大樹の長の元へ向かう。 例え自分が消滅しようとも、再び新しいドリアードが生まれる事を願い、全ての力を使って対峙しようとファルは覚悟していた。 だが、それは大樹の長、母によって止められ、自らの体内にファルは隠されていた。 本来、花が開く前に変身せねばならないファルの体力は限界に来ており、しかし魔物によって犯された地ではそれもままならなぬままに、ただ時を過ごすしかなかった。 シェゾは、大樹の意志からそれを読み取る。 ファルを助けて欲しい。 ファルに、最後に友達と笑って欲しい、と。 シェゾはファルに力を与えた。 だから今、こうしてファルはみんなと笑える。 もう一度、改めて別れる時が来るまで、笑う事が出来る。 やがてファルは皆の前から消える。 皆は悲しむだろう。 だが、その悲しみはやがて思い出となり、季節の風と共に時を重ね、木々や体の成長と共に心の奥底へと大切にしまわれてゆくだろう。 そして、時々は思い出すのだろうか。 どれだけ風が好きだったか。 どれだけ森を愛していたか。 甘い花の匂い。 瑞々しい草の匂い。 夜遅くまで語り合い、昼が過ぎても子猫の様に丸くなって眠っていたあの時を。 過ぎた時は戻らないけれども、新しい時は瞬きする毎に深緑が芽吹く様に力強く、優しく、そして暖かく重なり、一つになって行く。 そんな季節の中、彼女達は思い出すのだろうか。 あの子はもう居ないのだ、と。 幾年月を重ねた後。 彼女達は出会うだろう。 新しく生まれた命に。 何人もの新しい命に出会うだろう。 そして、気付くだろうか。 その中に一人、遠い記憶の思い出に生きた少女によく似た子がいる事に。 彼女達は気付くのだろうか。 あの子は、『母』だったのだ、と。 歌姫の歌が響く。 六人の天使が微笑み合う中、声なき歌は森に響き続けていた。 吹けよさくら。 この森に。 この日がその記憶に留まる様に。 その想いよ届け。 さくらよさくら。 その目映きほどに切なく美しい桜色と、儚く、優しき、そして罪なる美の歌声よ。 さくらよさくら 完 |