第四話 Top 最終話


魔導物語R D 第五話



  霧
 
「ジャコウが好き、か」
 シェゾはその香りを自分でも感じていた。
「…シェゾ?」
 ウイッチがシェゾの肩に手を置く。
「!」
 シェゾの肩がぴくりと跳ねた。
 だが、むしろ驚いたのはウイッチだ。
 シェゾが肩を震わすなど想像だに出来ない事。
「あの、どうしましたの?」
 ウイッチは何の警戒心もなくシェゾの顔を覗き見る。
「シェゾ…」
 その表情は静かだった。
 白く、透き通るほどに。
「一体、一体、どうなさったの? ねぇ、シェゾ!」
「……」
 ウイッチは返答のない彼に困惑する。
 饒舌でこそ無いが、会話が下手な人ではない。
 普段とは違う彼にウイッチは不安や焦り、悲しみや憔悴と言った様々な感情を膨れあがらせた。
 ウイッチ自身も、意識こそしていなかったが彼にそこまで依存していた自分に、多少ならず動揺している。
 彼女が自分のその気持ちにきちんと気付く事が出来れば、今よりも彼と近づけるのだろうか。
「…吸血鬼って奴は、どうして血を好む様になったんだろうな…」
「え?」
「単なる栄養としてなのか、それとも血液中の何かが欲しいのか、あるいは…」
「シェゾ、まさか、あの、ここに住んでいると言われるドラキュラに会ったんですの?」
「会ったも何も…」
 シェゾは億劫そうに答えた。
 脱力。
 正にその言葉が似合う弱々しい声。
「まさか、負け…」
 ウイッチはそれこそ弱々しく問う。応えられるのが恐かった。
「まぁ、な」
 シェゾはあっさりと答える。
 これが良くなかった。
「シェゾ…!」
 ウイッチがシェゾにしがみついてきた。小さな手がいっしょうけんめいにシェゾの背中をつかみ、これもまた小さな体がシェゾにくっつこうとする。
「お察ししますわ…。シェゾが負けるなんて…よっぽどの相手ですのね…。だから、こんなに落ち込んでいますのね。かわいそう…シェゾ…」
 自分の事みたいに嘆くウイッチ。背中の手が震えていた。
 まずい。
 そう思うも時既に遅し。
 シェゾはウイッチをそのまま胸に納めていた。
「シェゾ…」
 不思議とウイッチは落ち着いていられた。
 恐怖はない。
 苦しい程に抱きしめられたその体も、とても心地いい。
 これだけでウイッチは大抵の事は受け入れられる気がしてしまった。
 そして改めてシェゾの変調に彼女は気付く。
 自分の頬に触れたシェゾの頬が冷たかった。
 布越しに触れている手も、それでも解るくらいに冷たい。
「……」
 シェゾがくっと口を歪める。苦しいのか、嘆いているのか。
 そしてそんな彼の口元に決定的なものを確認した。
 
 その白い牙を、ウイッチは確認した。
 
「…!」
 ウイッチは流石に息を飲む。
 ああ、そうなのか、と彼女の頭の中に驚きと理解、とまどいが同時に押し寄せた。
「シェゾ…。あなたが、あなたが、まさか…吸血鬼に…」
「情けないが、な」
 ウイッチはそんな、と顔を背けた。
 ふと、シェゾの視界にウイッチの首筋が飛び込む。
「!」
 ウイッチは心臓が飛び出るかと思った。
 次の瞬間、そんなそぶりも見せなかったのに、シェゾの唇が自分の首筋を甘噛みしていたのだ。
 しかも、微かに二つの牙が肌を押している。
 鋭いそれは一瞬、死に神の鎌の切っ先にも感じられた。
 あと一歩に及ばなかったのは偏に彼の精神力の賜物だろう。
「…シェゾ…」
「…悪い」
 そう言ってシェゾは実に名残惜しそうに唇を離す。
 ウイッチが名前を呼んだ気がするが、その声は耳に届かない。
 彼は明らかな欲情と闘っていた。
 情けない事だ。
 俺が、こんな感情としのぎを削るとは…。
 かろうじてそういう事を考える理性を保ちつつも、たった今も、ウイッチに紛れもなく欲情しているシェゾだった。
 その布越しに置かれただけの手にすら、得も言われぬ感覚が流れる。
 肌に触れた指先が感電しているみたいな感覚を背骨に伝わらせていた。
 中々味わえない感覚ではある。
 面白いと言えば面白い。
 これが今の彼の精いっぱいの皮肉だ。
「…シェゾ、苦しいんですの?」
 シェゾは、ふとその声に快楽とも苦痛ともつかないその感覚が緩んだ気がしてウイッチを見る。
 彼女が、白く輝いて見えた。
 その金髪が、青い瞳が、白い肌が、そしてなによりもそのきめ細やかな細い首筋が。
「……」
 彼は自分が信じられないと思った。
 元より子供を好く趣味は無いし、年頃だとしてもそこらの馬の骨の様に欲情を剥き出しにする真似も、その気も無い筈だった。
 女に興味が無いとは言わないが、元より女を、いや、人を近づける事を苦手とする彼にとって、そう言った対象が近くに居ると言う事は『怖い』と言っていい。
 プライドや思想云々と言うより、正直口下手であり、優しい真似が出来る訳でも無い不器用な、不完全な自分を曝け出してしまいそうになるからかもしれない。
 はっきりと自分で意識している訳ではないが、彼の心の奥底には、少なからずそんな劣等感があると言えた。
 だが今、彼ははっきりと目の前の少女、ウイッチに対して、男としての本能を腹の奥底で確かに疼かせていた。
 今、ウイッチが肩をもう少しさらけ出してしまえば止まらないだろう。
 だが、同時に彼の鋼の理性は違和感も脳に叩きつける。
 
 違う。
 
 シェゾは直感した。
 感情のどこかが微妙に、そして決定的に違う。
 今も、来るなと言う声を無視して目の前まで近寄るウイッチ。
 そんな彼女の大きくて真っ直ぐな瞳。
 白い顔と、髪を絡ませた白い首筋。
 濡れた服に刻まれるのは、小さな撫で肩から柔らかく、しかし鋭利に流れる腰から臀部へのライン。
 無論、それらはすべて少女の域を出ておらず、胸に至っては、辛うじてふくらみが分かる程度だ。
 シェゾはそんなウイッチに紛れも無い欲情を感じる。
 しかもそれは尋常ではない感情。
 そしてそれが己の意識だけでは無い証明は彼自身が良く知っていた。
 血が、体を流れる自身の血一滴一滴がウイッチを欲しているのだ。
 …何を欲する?
 
 ウイッチ、か?
 
 いや、違う。
 
 血。
 
 血だ。
 
 暖かな、その鮮血だ。
 
 なめらかな肌の下に流れる、その暖かな血だ。
 
 そう、シェゾの脳が、牙が、それを求め、渇望している。
 
 今、彼が最も嫌悪する部類の感情である無様な劣情を催しているそれは、彼女の躯に対してではない。
 彼女の、その白いなめらかな皮膚を薄紅色に染める暖かな鮮血に対してなのだ。
「……」
 彼は、今こそ決定的な敗北を認めた。
 
 これが、吸血鬼の存在意義か。
 
 今までにも何度も吸収しきれずに体に変調を起こした事のある力は数あれど、ここまで体を、精神を蝕む程のものは無かった。
 はたして、この力は『馴染む』のだろうか?
 いや、そもそも己を保てるのか?
 吸血鬼の下部となった連中にはどう見てもまともな奴は居ない。
 そうか…。こんな感情にずっと頭の中ぶんまわされているんじゃあ、そりゃ自我も無くすわな。
 シェゾはどうでもいい事実を身をもって知る事となった。
 さて、この感情、どう処理する…?
 目の前には魅力的な首筋。
 しかもまるで無防備、いや、それを望んでいるとすら言える。
 ほんの少し気を楽にすれば、次の瞬間には今の彼にとっての至福が待っている。
 だが、それはウイッチにとっては最悪の事態。
 彼女はそう思わないかも知れないが、少なくとも彼女の家族、知り合いにとっては万が一にも喜べる事ではないだろう。
「……」
『苦労性だな。
 闇の魔導士としては優しすぎる男だ。そんな主の苦悩に対して、闇の剣は、呟いた。
「…ウイッチ」
 シェゾが問う。
「は、はい」
 怯えを含みつつも、その声に逃げは無い。
「今の俺が、恐いか?」
「…そんなこと、ありませんわ」
 その返答に迷いはない。
 その小さな体がシェゾへの密着を深め、ウイッチがシェゾの首にかじりつく。
 その唇は暖かかった。
「こうして、血を吸うんですわよね?」
 くすりと笑うウイッチ。
「…参るね」
 シェゾは女の強さと言うモノを思い知る。
 そして。
「…あ…ん…」
 何か言おうとしたウイッチの唇がシェゾの唇でそっとふさがれる。
「ん…んー…」
 冷たい唇が変に心地よかった。
 元より自分を無条件で墜としめる効果のある彼の唇だが、今は普段のそれを上回る。
 彼の唇自体が吸血鬼たる効果を生みだしているのだろう。
 …使った事ありませんけど、媚薬ってこんな…感じ、です…かし…。
 思考が麻痺し、背骨を伝わって腹部の下から脳天まで、快楽と言う閃光が走る。
 それはピストン輸送みたいに体を往復し、ウイッチの理性をたたき壊す。
 ほんの少しの後。
 シェゾの後ろにあったベッドに寝かされた自分に、ウイッチは気付いていただろうか。
 
 
 

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