魔導物語R D 第四話 鮮血 「!…」 シェゾはその身を、彼にしては随分無様に廊下に転がらせた。 回転の勢いを生かして跳ねる様に飛び起きるも、頭が上を向いたかと思った瞬間にそのまま吹き飛ばされ、再び転がる。 それが止まったのは、背中を壁に打ち付けたからと言うだけの事だった。 「…っつ」 軽い脳震とうを起こしていたかも知れない。 薄暗い視界が二重、三重に揺らぐ。 そして、揺らめいた視界に、更に揺らいだ水面の如き陰が近づき、シェゾを覆い尽くすかの如く迫る。 「ふっ!」 シェゾは息吹をバネに、壁を思い切り蹴る。 剣に気を込め、弾丸の様になってその『揺らぎ』に突進した。 揺らぎと剣が接触した時、まるで火打ち石でも打ち付けたかの如く接触部分からまばゆい閃光が煌めき、それはそのままシェゾを突っ切らせる。 『……! シェゾが膝を着きつつも着地する。 彼に膝を着かせるとはそれだけでも相手の技量が察せると言うものだ。 その中心に大穴が空いた『揺らぎ』は、それと同時に四散し、霧の様にその場から消滅していた。 「逃がすかよ」 彼は天井を仰ぎ見てその気配を追う。 シェゾの体が、まるで火を吹き消したみたいにしてその場から消えた。 転移による瞬間的な己の消失感は何度やっても慣れるものではない。 彼の様な猛者とて、このまま塵になってしまうのでは、と不安にならない事は無いのだから。 だが、彼は必要とあらばいつでも、どんな体調でも臆することなく発動する。 それは、今の様にやらない事を後悔したくないからだ。 「ご対面、か」 シェゾの刃から逃れたそれに追いついたその場所は、城の最上部に近い一室だった。 城の規模にしてはさして広くもない寝室。 そこに、人が眠っていた。 ありえない。 この城は、『人』の消えた城だ。 「…誰、ですか?」 が、意外にもその声は正に寝耳に水、と言った感じに驚きを含んでいた。 「……」 シェゾは無言で真っ白なベッドに近づく。 「…ここに、人が来る用など、無い筈です。この城は、誰も住まなくなり、誰も近づかなくなった筈…」 「お前が居る」 シェゾはもう目の前だ。 「…私は、私は、ここの『管理者』です…」 そこまで言い、声の主はベッドから身を起こした。 「…その者なら、艶やかな黒髪を持ち、迷い人を導く存在の筈だ…」 唄い語りの唄の一節である。 その声に呼応するかのように、ベッドの上の人物はゆっくりと身を擡げた。 シェゾは正直、息を呑んだ。 厚手のカーテンが部屋を暗くしていたのでどんな人物か分からなかったが、身を起こしたその相手は濡れた様な黒髪を腰まで下げた女性だった。 その瞳も艶やかな漆の如き黒色。 そしてそれとは対照的に肌は透き通る様に白かった。 更に、身に纏うネグリジェも正に透き通る様なパールホワイトで、その不自然なまでの美しい白と黒の対比は、一瞬人形の様な美しさにも見えた。 シェゾは足を運ぶ。 「…あなたは…誰ですか」 「平たく言えば泥棒さ」 その言葉に黒髪の女性はぴくりと身を強張らせたが、悪びれる風もないシェゾを見て不思議とそれ以上の嫌悪感は表さなかった。 「でも、ここには、何も高価な物は…」 「それは、人に拠る」 シェゾは女性の目の前まで迫る。 「とある唄にあった。城を守る妖精がいる、と…。その妖精は迷い人を導く存在だ、とあった…」 「…私の、正体を…」 その女性はにっこりと微笑んだ。 「……」 シェゾも礼儀程度に微笑み返す。 女性が立ち、シェゾに寄り添う。 そのまま彼に身を重ね、まるで愛しい人に逢ったかの様にその細腕をシェゾにまわした。 「…ずっと、誰も、来る人は、居ませんでした…。こんな風に、人と会えるなんて…。嬉しい…嬉しい…」 「城の『お偉いさん』の事が分かるか?」 「伯爵、の事ですか?」 「そうだ」 彼は表情を眉一つ崩さずに問う。 他の男なら先程の包容だけですっかり骨抜きにされているところだ。 「では、私に付いてきてください」 女性は名残惜しそうにその身を離し、振り向く。 そして、振り向いた先の空間に、波紋を広げたみたいにゆがんだ空間が穴を開けた。 「ここの先…」 そう言いかけて再びシェゾに振り向いた瞬間、その透明な瞳の先に、それよりなお透明な剣、クリスタルの剣が音もなく迫っていた。 堅いフローリングに切っ先が乾いた音を立ててのめり込む。 女性は何処にも居ない。 「……」 シェゾはふん、と言う顔で周囲を見渡した。ゆがんだ空間の向こうは、ただならぬ漆黒を映し出している。 歪んだ空間が悲鳴みたいな音を立てて消滅した。 「どこに繋がってんだか…」 ふと、空間から声が聞こえる。 『何故だ? 「何故だと思う」 『あの姿は、お前の記憶よりイメージした姿だ。お前の思い浮かべる妖精と寸分違わぬその姿、何故お前はそれを斬れた? 「…器用すぎて徒になったな」 シェゾは剣をぶん、と一振りして中段に構える。 「唄い語りのばあさんはその辺、ごにょごにょして聞き取れなかった。俺が勝手に想像しただけだ」 『成る程… 「そんな想像通りの奴が現れて不思議がらない奴なんざ居ないよ」 そして、シェゾはもう一言付け加える。 「さっきも、今も、同じ『ジャコウ』の香りがしたしな」 その言葉の終わりと、押しつぶされそうな気の強襲は同時だった。 シェゾは瞬時に構え、気の吹き出す虚空の一点を凝視する。 「!」 そして、漆黒の鳥は飛んだ。 次の瞬間、闇を更なる闇の一閃が無情に光り、袈裟懸けにその気を切り裂く。 声にならない悲鳴が空気をかき回した。 「貴様の力、じっくりと調べさせてもらう…」 シェゾは剣にまとわりつくその『気』そのものにスキャンを試みる。 だが。 「くっ!」 シェゾの体がびくりと痙攣けいれんを起こす。瞬間的に、体中の毛穴から血が吹き出る様な感触が体を襲い、シェゾは受け身も取らずに床に体を叩きつける。 今のたった一撃で、身を起こそうとしたその手がしびれて力を入れられない。 「…な、んだ? これは…」 『私は、死ねる時を待っていました… シェゾの頭に声が響く。 だが、今のその声は女性の声に聞こえる。 「んだと…?」 『私は、あなたに殺されるために今まで無惨に生きながらえてきたのかも知れない…。 「おい…」 シェゾはふらりとしながらも身を起こし、立ち上がる。 視界にはそれらしき物体も、気配もない。 『愛しい人を己の一部としてしまった過ち。あなたは、分かってくれる…。どうか、この悲しみから私を救って…。あなたは、その悲しみを誰よりも知っている…。あなたなら…。 シェゾは気づいた。 『奴』は、既に彼の体の中なのだ、と。 「てめぇ…勝手に人の『中』に入って来るなんざ…」 彼の最も嫌う行為だ。 自分の『心』に干渉される行為だ。 『このまま、このまま、私を吸収して…。私は、こうでもしなければ精神まで死ぬ事が出来ない…。命の吸収で強制的に生きながらえるのはもう、嫌…。 シェゾは悟った。 唄い語りのばあさんが唄えなかった力の内容。 それは自分の力と似た力だったのだ、と。 ただ、違うのはその吸収は己の意志とは関係が無い、と言う点だ。 生物がいれば生物から。それが居なくなれば今度はマナまでも吸い取る。 だからこの城には無限の筈のマナが希薄であり、その影響で魔導力の発動が不安定になるのだ。 「だからって、俺に背負わせる気かよ…」 『貴方は、闇の魔導士…。だから…。 シェゾは言葉を紡ぐ間もなく、問答無用で自分に染み込んでくる力の激流を感じた。 まるで、体の細胞が一つ一つ倍に増える様な奇妙な膨張感。 ここまであからさまなエネルギーの流入は初体験だった。 「む、無理矢理ってのは、好きじゃ…ないぜ…」 苦しい表情ながらも口元を緩ませる。 そこらの人間ならば、体中の細胞の隙間全てに何かが潜り込もうとしているその苦痛とおぞましき感覚によって既に泡を吐いて悶絶、いや、悶死している筈だ。 それでも笑うとは何という精神力か。 シェゾよ。 『闇の魔導士、シェゾ・ウィグィィ…。私を、殺して…。私を、吸収して…。 悲しい懇願はシェゾの頭を強く揺り動かした。 「女を殺すのは、もう沢山なんだがな…」 だが、女の涙にとことん弱いのもまた彼が彼たるゆえんであった。 『お願い…。死ぬのは、構わない…でもせめて、優しい人に殺されたい…。 「馬鹿が…大馬鹿が…」 シェゾは心に閉じこめていた光景を一つ、思い出した。 愛した女を己の力としたその時を。 だと言うのに、心から喜び、微笑んで、手の届かない所へ逝ってしまった女の事を。 『…優しい人…。私も、どうか…。 シェゾの心を見た様に、今はシェゾが彼女の心を見ていた。 「…悲しい女だ…」 シェゾはつぶやき、そして決して認めなかったがその瞳に一筋の光の粒をこぼした。 『…ありがとう…。 意識は消えた。 残るは力のみ。 だが、正直今残っているそれはシェゾにとってもいかほどの影響を及ぼすか分からない、未知の力だった。 だが、シェゾは受け止める。 一人の女が、哀しみを忘れて逝く事が出来たから。 それだけの為に、彼は時折平気で命を晒す事が少なくない。 これを捨て身の人生と取るか常に命がけの人生と取るか、それは人それぞれだ。 しかし、一度行動を起こした彼が後悔をしていない事。それだけは確かだと言える。 それから少しの後、ウイッチがシェゾと合流出来たのは同じ部屋の中だった。 「…シェゾ?」 「ウイッチ、か…」 彼は部屋の奥、ベッドに背中を預けてしゃがみ込んでいた。 「どうしましたの? どこかケガでも? それとも魔導による障害でも…?」 ウイッチは慌てて駆け寄る。 「……」 「しっかりなさって!」 普段なら元気づけられる様な科白をかけられれば、バカにするなとばかりに平静を取り戻す彼だが、今は何とも言えず行動が緩慢だった。 「び、病気か何かとか…」 ウイッチは色々と嫌な事を考えてしまいおろおろと慌てる。 場所が場所だけに魔導による失調や疫病、あらゆる事態が想定出来るのだ。 しかし。 ウイッチがくん、と鼻を利かせる。 思いがけない香りを感じたのだ。 「…? シェゾ、あなた、香水なんて付けていらしたの? しかも、こんな…なんて言いますか、えっと…オトナな感じの…」 何げにシェゾに顔を近づけて鼻を利かせるウイッチ。 「……」 ウイッチが彼から感じた官能的な香り。 それはジャコウの香りだった。 |