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魔導物語 葉桜 前編
 
 
 
  火照り
 
 木々が新緑を力強く茂らせ、風が無数のそれをざわめつかせる。
 夏の陽差しは緑をより濃く、力強くその存在を強調させた。
 春先、淡い桜色に染まっていたこの森は一変して、若々しい緑の森と化している。
 風が、葉の香りを運んだ。
 ざわざわと葉が揺れ、一瞬とて同じリズムを刻む事無く、しかし聞き入ってしまいそうになる程の美しさとなり、その演奏を奏でていた。
 瑞々しいその香りは、深呼吸すると咽せそうになる程力強い生命の息吹を持つ。
「……」
 彼は、深く息を吐くと、今度はゆっくりと、ゆっくりと森の空気を吸い込んだ。
「ふぅ…」
 一瞬、視界の色調が鮮やかに濃度を増した気がする。
 緑の中に自分自身も埋もれている。
 そんな錯覚はしかし、とても心地よいものだった。
「……」
 彼にとっては、何の気無しの散歩のつもりだった。
 だが、ここに来てしまったとなると心のどこかで意識していたと言われても仕方ないだろう。
 それは、彼も認めざるを得なかった。
 
 最近、逢ってないな。
 
「……」
 いや…、会って、だろう。
 彼は意識して言葉の意味を変えた。
 誰も見ていない筈の森の中で、彼は一人、ばつが悪そうに頭をかく。
 いや、誰かが笑った気がした。
 微笑みにも思える。
 桜の木かも、森自体だったかも、精霊だったのかも知れない。
 だとしたら見える筈がないのに、何故か彼はそう確信する。
 だが、それは何故か気分を害するものではなく、彼はむしろそれを感じると、ふっと静かに笑った。
 人が見れば、それだけで心奪われてしまいそうな笑みで。
 突然、氷で冷やした様な風が一つ吹いた。
「……」
 彼は空を見上げる。
「来るか…」
 いつの間にか、真っ青と真っ白の二色で構成されていた空に鉛色が加わり、三色になっていた。三つ目の色は、見て分かる程の勢いで勢力を伸ばす。
 そして、それは景色だけでなく音でも支配を強める。
 遠い空に、重い音が響いた。
 二つ、三つと地鳴りの様な音が近づき、今度は空が光った。
 一秒ほど遅れて、空気を震わせる音が響く。
 鳥が数羽、大慌てでどこかへと飛んでゆく。
 もう空は鉛色一色だった。
 とつ、と肩に音がする。
 黒いシャツに大きめな、黒より更に濃い黒の点が浮き上がる。
「やれやれ」
 逃げ遅れたな…。
 大粒のスコールが彼を襲うのは、それから僅か数分後。
 小鳥程度では、飛んでいると雨で落ちてしまいそうな程のスコールだった。
 
 次の日。
 昨日の雨は、夏の雨にしては随分長く降っていた。
 だが、おかげで今朝もやや曇り気味で、朝から涼しかった。
 彼にしては今朝の目覚めは快適だ。
 てのりぞうから尻にキックを食らわなくても起きる事が出来たから。
 形ばかりの朝食を済ませると、彼はまた、何となく出掛ける事にした。
 今日は湿気が多い。
 彼は薄手で肩口の広い白のシャツに身を包み、外に出る。
「ぱお」
 てのりぞうがいってらっしゃいをして、彼を見送る。
 すこしして、てのりぞうの気配も消える。奥へ引っ込んでしまった様だ。
 
 昨日の雨は、最初から比べて弱くなってはいたものの、夜半まで降り続けた。
 朝になっても地面はぬかるみ、空気は湿っている。
 緑も久々のシャワーのおかげか、その色をより鮮やかに輝かせ、水玉で美しいアクセントを装う。
 街に、と思っていたが、足が自然に桜の森に向いてしまった。
 涼しい桜の森を見たかったのか、それとも、何か他にある様な気がしたのか、とにかく彼はそこへ向かう。
 何故か、いつもと違って気分がやや重い。
「…何だよ」
 彼は、ここに来てこんな気分を味わうのは初めてだった。
 否応にも気持ちが揺らぐ。
 
 桜の森、今は新緑の森。
 ここの空気も湿気を含み、時折吹く風が葉の上に残った水滴をシャワーの様に散らす。
 その水玉が肌に心地よく、光景は桜の花咲く頃とは別の美しさを表現している。
 いつもの森だ。
 そう思って安心していた時。
「……」
 彼の耳は、その音を聞いた。
 聞き慣れた柔らかな羽音。しかし、どこか重々しい。
 彼は、素早くその音源を探し当てる。
「…ハーピー」
 視界の奥、森の木々の間。目線より少し高い程度の高さを、彼女はややふらふらしながらゆっくりと飛んでいた。
 時折、大きく羽を羽ばたかせる。
 ハーピーの羽は確かに飛行の為のものだが、実際の鳥の様に浮力を直接生む為のものではない。
 彼女の羽は、浮遊の為の魔導に使用するジェネレータであり、その羽の大きさは魔導力の反応する力場を広げて、より小さな『力』で浮遊する為のもの。
 だから、普通はせいぜい方向を調整する為程度にしか使われない。
 それが、時折羽ばたいている。
 自分の羽なのに、彼女はその度に辛そうな表情を浮かばせる。
 痛々しかった。
 大げさな言い振りなのだろうが、彼にはそう思えた。
 ただでさえはかなげな彼女のそれは、通常の何倍も痛々しさを強調する。
「ハーピー!」
 彼は自然に大声で彼女を呼んだ。
 ぴくり、とハーピーは動きを止める。少しだけきょろきょろと見渡し、大股で近づいてくるその姿を見つけた。
 …シェゾさん。
 ハーピーは、何かひどく安堵の表情を浮かべた。
 嬉しい、と言うより安心した様なその笑顔。
 すがるものを見つけた様な、不安の解消から来る微笑みだった。
「どうした? お前が…何て言うか、悲しそう、だ」
 シェゾは上手く言えなかった。
 饒舌でない自分が恨めしい。
 あ、いえ、何でもないんです。ただ、ちょっと気分が優れなくて…。
 そういうハーピーの顔はかすかに赤らんでいる。
「ちょっと待て」
 シェゾはハーピーの額に手を当てた。
 ハーピーが突然の動作にびくりとする。
「…おい」
 ハーピーは、何かもじもじとしている。
 気付いて欲しくなかった、とでも言いたげに。
 あの、別に私…。
 何か言おうとするが、シェゾがそれを許さない。
「只でさえ体温の低いお前だ。俺が触って熱いのが何でもない、なんて言うなよ」
 …は、はい…。でも、大した事は…。
 ハーピーは観念したみたいにうつむく。
 それと同時に、何か気が抜けたのだろう。ふらりと体がよろめく。
「おっと」
 シェゾはハーピーの肩を抱く。その手からも、じわりと熱が伝わる。
「やっぱり熱い。いつもは体のどこ触ってもひんやりしているくせに」
 ……。
 ハーピーは、体の火照りとは別の感情で顔を赤らめた。
「どこかに出掛けるところだったのか?」
 いえ、本当に大した事は…。ただ、ちょっと薬草を採って来ようかと思って…。
「この体でか? 充分大した事ある」
 そう言って、シェゾはひょい、とハーピーを抱き上げる。
 あ…。
 彼女の体は軽い。
 人が息をするかの如く自然に、浮遊魔導を常時使用した状態にあるせいもあるだろうが、それでも彼女の体は華奢で軽い。
 強く抱きしめると、折れてしまいそうな程に。
「薬草はどこだ」
 は、はい。この先に…。
 湿った空気は、視界を鮮やかにする。
 純白の羽と、淡い桜色のウエーブヘア、そして、白い肌を控えめに覆うこれも白い衣服を纏うハーピー。
 そんな彼女を抱き上げて歩くシェゾも、今日は白を基調とした服装。
 二人は、どこか幻想的な光を纏って森に現れた精霊の様にも見えていた。
 人が見たら、瞬間には常世のものとは思えないであろうその光景。
 二人は森を歩いた。
 やがて、ハーピーの言う薬草の場所にたどり着く。
「この森のことは大体知っているつもりだったが、こんな場所があったのか…」
 桜ばかりだった森が、他の木々と草花の混在する世界になっていた。
 なだらかだった地面も岩やくぼみが多くなり、荒々しい野生を感じさせる。
 この辺りは、手つかずの状態なのだろう。
 シェゾさん、あれです。
 ハーピーが指さしたその先、木の根本には、赤紫色の小さな花を、無数に咲かせた背の低い植物があった。
 あの花の、葉が欲しいんです。
「…あれは、あれは傷に効くやつじゃ無かったか?」
 薬草の知識は彼にもある。特に、怪我に事欠かない仕事ばかりしているのだから当然の事だ。
 はい。
「熱冷ましじゃないのか?」
 今は、これが欲しかったんです。
 彼はハーピーを降ろす。
 ややもたつきながらも、ハーピーは自分でその草を摘み始めた。
 シェゾは辺りを見回す。
「…熱冷ましは、あれか」
 少し離れた場所、小さな川の水辺に、青い睡蓮の様な花を付けた草があった。
 あれの根を煎じて適量を服用すると、そこらの下手な薬より効果がある。
 味はかなり苦いと言う、ありがちな欠点を持つが。
 根を引っこ抜き、側を流れる川の水で洗うと白い根が現れた。華奢な花と比べて逞しい根だ。
「これでいいか?」
 あ、すいません。ありがとうございます。
 ハーピーは両手に傷用の花を持ち、微笑んだ。
 そして、シェゾの持つ薬草も受け取ろうとする。
「飲めよ」
 え…。
「何だ?」
 …いえ、あの、これ、苦いですよね…?
 すす、と身を引きながら愛想笑いをする。珍しく作ったような笑い方だ。
「……」
 シェゾは軽く溜息をつくと、彼女にそれを渡した。
 と、代わりに今度はハーピーを持ち上げてしまう。
 きゃ。
 再び彼の胸の中に収まるハーピー。
 もう、動けなかった。
「家はどっちだった?」
 こっちです…。
 そして、それに抗う気も無かった。
 帰りの道中、ハーピーは普段と違い逆に冷たく感じるシェゾの肌を心地よく思い、その胸に顔を埋めながら、夢心地で葉桜の森を楽しんだ。
 
 ここです。
 暫くして、シェゾは彼女の家の前に立つ。
「…初めて来るが…、ここか」
 滅多なことでは驚く顔はしない彼だが、それでも思わず息をのんだ。
 それは、森の奥に忽然と、しかしあって然るべきと納得できる程自然にそこにあった。
 
 
 

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