Top 後編

魔導物語 BIRDCAGE 前編



 Bird

 どう、と風が唸る。
 風は山肌を駆け抜け、気を抜けば小さな石など吹き飛ばしてしまうぞ、とばかりに地表を凪いで吹き抜ける。
 そんな地表も風に負けず劣らず荒々しかった。
 岩だらけの鋭いシルエットをこれでもかと見せつける、痛々しい程に荒涼とした山肌。
 そして、そんな大地にしがみつく様にして、しかし逞しく木々は生えていた。
 辛うじて林と呼べる針葉樹の群は、あるものは岩に噛み付く様にその身を絡み付かせ、またあるものは雄々しくも岩を割り裂き、その間から傷だらけの幹を天に突き出す。
 植物が生えればやがて生物も住み着く。
 まばらな林の間をリスと思わしき小動物が走る。
 小さな口を木の実で一杯膨らませながら走り、そして頬袋の重力をものともせず幹に登り、そのまま木の上のどこかへと消えた。
 天を見れば猛禽類と思わしき巨鳥が悠々と巨大な羽を広げて滑空し、それは不意に甲高い声で鳴いて森の中へ突っ込んでゆく。
 数秒後、逞しい蹴爪を有効に活用し、その足に大きめの鼠らしき獲物を捕らえたそれが大空に舞い上がる。
 どの様な不毛の地に見えても、食物連鎖は輪廻を途絶えさせる事なく続いていた。
「……」
 そんな場所に一人の男が現れる。
 薄い緑、白い岩、薄茶の地面。
 どちらかと言えば淡い色彩が多くを占めるその世界。
 男だけが墨で塗った様に黒い。
 そして、これもまた原色のオレンジの点が相乗効果でその世界に栄えていた。
「本当にここか?」
「ぐー」
 凄みすら感じる不機嫌な問いかけに対して、返答は脳天気、と言うか何も考えているとは思えない声だった。
「…ならいいが」
 が、それに対し、男はなら仕方ない、とまっとうな言葉で返答する。
 どうやら到底意味を成すとは思えぬ鳴き声だが、聴く者によっては意志的なものは一応含んでいるらしい。
 オレンジ色の物体。
 その額に希少な宝石、ルベルクラクを頂く魔法生物。
 カーバンクル。
 そして黒ずくめの男。
 天、魔界、いずれからも人にあらざる扱いを受ける闇の魔導士。
 シェゾ・ウィグィィ。
 奇妙この上ないデコボココンビが結成されたのは四日程前の事となる。

「お仕事なら、してくれるよね?」
 栗色の髪の毛が、かしげた顔に合わせてさらりと流れる。
 その笑顔は無垢な可愛さと整った美しさを含むが、お仕事という一言が彼の顔を正直曇らせた。
 頼み事。
 特に目の前の少女が低姿勢で振ってくる話には何かとやっかいな事象を含む事が多い。
 そして、実際それはそうだった。

 彼にしてみれば、ケチが付いたのはたまたま早起きしてしまったその時点からだった。
 普段なら朝食と昼食を一緒にするくらいの時間にベッドから起きあがるのが普通だが、何故か鳥の声で目が覚めた。
 六時前だと言うのに自発的に目が覚め、あまつさえ妙にスッキリとした目覚めを迎えてしまう。
 一人の時にそれを味わうなど一体何年ぶりだろうか。
 シェゾは仕方がない、と起きあがると朝風呂に浸かり、それから腹が減っている事実に気付く。
 だが買い置きの食料は丁度底を突いていた。
 あるのは酒類や乾物、魔法調合用の素材ぐらい。
 たまにはまともなものを食うか、と彼は腰を上げ、まだひんやりとした空気と霧を漂わせる森を下った。
 それが始まり。
 街に降り、適当な食堂を見つけて腰を下ろす。
 前に来たのは二ヶ月以上前だというのに、店主の髭達磨みたいな親父ははっきりと彼を覚えていた。
 ゆっくりしていけ、とサービスたっぷりのモーニングセットが運ばれ、シェゾは素直にそれに従った。
 普段は食事を終えるとすぐさま席を立つ癖のある彼だが、その日は珍しく食後のコーヒーをお代わりする程にゆったり時の流れを楽しんでいた。
 だが、それがいけなかった。
「あ、シェゾー!」
 明るく、抜ける様な透き通った声。
 やや甘い囁きすら響かせるそれ。
 だが、彼には何故かその声が死刑執行を告げる鐘の音にも似て聞こえていた。

「いやー、ちょっと危険な場所なんだけどさぁ」
 実際そうだったのかもしれない。
 シェゾの前に座った少女、アルルは何下に物騒な事を話しはじめたのだ。
 シェゾはため息の代わりにコーヒーをのどに流し込んでから呟く。
「つまり要約するとだ」
 ある物質には、性質的に同一ながらそれが起こす作用的にはまったく正反対の反応を起こすものがある。
 分かり易い例で言えば磁石のプラスとマイナスが有名だ。
 そしてその世界で有名な物資として、ルベルクラクとアゾルクラクがある。
 どちらも物質的、魔導的に貴重、かつ能力的に大変な力を持つ。
「で、カー公か?」
「うん、カーくんなら目を瞑っていても居場所が分かるんだって」
「…なら」
「お前がいけ、は無しね。ボクじゃそこまで行けないし、役目果たせないの」
 どちらの物質も一般から見れば危険なものに代わりはない。それが作用反作用の性質を持つと言っても何の関係もない。
 例えは飛躍するが、原子炉も原子爆弾も同じという事だ。
「アゾルクラクがね、とある山脈にあるらしいって言うか、出現したらしいんだ。しかも、なんかすっごい危険らしいの。えと、つまりね、エネルギーが多分、飽和状態に近いらしいの」
「お前の話には確定要素が一つも無い」
 シェゾが呆れて言葉を返す。
「まぁまぁ。でね、そのアゾルクラクがエネルギー的にも、その性質的にも良くないものらしいんだ。んと、空間の…じゃなくて…えーと…ディ…ディメンジョンゲートを引き寄せる性質を持ちだしたらしくて、空間優先順位を無視して…えー…バイレイヤーリンクを無理矢理グループ化しようとしているらしいの。だからめちゃくちゃ危険らしいの…じゃなくて、なの」
 アルルは視線をあちこちに泳がせながら、そこまでを一気に喋り終えた。
「意味、分かって言っているか?」
「も、もちろん! うふふふふ」
 これ以上ないと言うくらい分かり易い作り笑顔のアルル。
 笑い方まで棒読みだし。
 シェゾはほう、と意地悪く笑う。
「復唱してみろ」
「……」
 一瞬何を言われたか分からない。
「え?」
 脳に意味が伝達してからようやくアルルの目が点になる。
「ついでに、プライオリティブレイクが引き起こす空間融解による問題点の面からの危険性を順を追って説明してみてくれ。何なら天界か魔界からの力場崩壊から導いた視点でも構わないぞ」
「ゑ?」
 ハニワみたいな表情になるアルル。
 どうやら一回喋ったはいいが、既に記憶は脳から飛んでいるらしい。
「あ、あの…あの…」
 まるで迷子の子犬みたいに困り果てるアルル。
 今なら耳をつけても似合うな、とシェゾは本人の困惑も顧みず口元をゆるめる。
「え、えと…」
 万事休すかとアルルが肩を落とした。
「で、何をどうすりゃいいんだ?」
「え!?」
「早く言え。それくらいカンペ要らないだろ」
「あ、え…うん、大丈夫…じゃなくて!」
 最早わやくちゃになるアルル。
「何でもいいからさっさと言え」
「…あ、はい…」
 メッセージマシンと化したアルルは慌てて内容を伝えた。
 到底演技とは思えぬ演技だったが、それを意識する必要が無くなったので逆に先程より話し方は流暢だ。
「えーとね、つまり…」
 アルルはまず、オレンジ色のパンの役目から話し始めた。
 アゾルクラクのエネルギーは波長の強さこそあれ、分かり易く言えば性質は長波に近い。その為、距離が離れると急速にその反応は様々なエネルギーの妨害で薄まる。
 波長が届かぬ以上こちらからの索敵は無意味。
 そこでアゾルクラクに対してのアンチエネルギー体であるルベルクラクの出番となる。
 エネルギー反応と言うより精神感応に近いそれは距離を無視して繋がり合う為、それに対しては完璧なレーダーとなるのだ。
「で、カーバンクルか」
「うん、カーくんがね、案内してくれるの。だから距離は遠いらしいけど、絶対に道間違えないから」
 アルルが桶みたいな大皿のカレーに一心不乱でむしゃぶりついているカーバンクルの頭を撫でる。
「こいつの場合、無意識に道をはずす危険性があるんだがな」
「大丈夫だよぉ。ボク、いつも一緒だけど以外にカー君っていい加減じゃないんだよ」
 太鼓判を押します、とアルルが笑う。
「そう、か」
 そりゃ、お前も道を外しまくりで歩くからな、とは言わないでおいた。
 その後シェゾはなし崩し的に『お願い』を受ける事となり、カーバンクルをアルルから借り受ける。
 そして町を出発したのが四日前の事である。

 三日後。
 シェゾはカーバンクルの至って不安な導きに因って緑もまばらな山脈地帯にたどり着く事となる。
「本当にここか?」
「ぐー」
「…ならいいが」
 カーバンクルはシェゾの肩から降りると、ストレッチみたいに体を伸ばしてから無意味に踊り始める。
「……」
 踊るか食うか寝るかしかしねぇのか、とシェゾは何度目か数え切れぬ溜息をつく。
「なぁ、カー公」
「ぐ?」
「言っておくが、食料はもう殆ど無い。これ以上遊ぶと、飯抜きで帰る事になるぞ」
「ぐ!?」
 カーバンクルは慌てて走り出す。
「ぐーーー!」
 早く来いと、先程までとは別人の様な素早さで道を急ぐ。
「……」
 シェゾは呆れる程に本能に忠実な彼に、ある意味での尊敬を覚えた。
 やれやれ、とシェゾは空を仰ぐ。
 その空には一羽、小さな鳥が旋回しながら透き通った鳴き声で囀っていた。
「鳥、か」
 シェゾはオレンジ色の物体を追いかけ、少し早足で林の奥へと駆けていった。

「心臓に悪いよぉ…」
 アルルはシェゾと分かれた後、とあるカフェで不満を漏らす。
 ね? と言いかけ、カーバンクルが今は居ない事を改めて思い出す。
「あ、そっか…」
 気持ち軽くなった肩を確認し、アルルはそうだった、と笑う。
「まぁ、引き受けてくれたからいいではないか。少々心配だったがな」
 アルルの前には濃いグリーンの長髪と、そこから顔を出す二本の角も逞しい男が座っていた。
「危険、じゃないよね? ボク、イヤだよ。何かあるなんて…万が一にだって…」
「奴は危険な程興味を強める。だが、それに屈した事はあるまい?」
「う、うん」
 不安に変わりはない。
 しかし、信じる事は出来る。
「ならいいだろう」
「でもさぁ、なんか…多分、黒幕がキミってばれているんじゃないの? ボク、ぜーんぶ見透かされたみたいでどきどきしたよぉ。これでよかったの? サタン?」
 サタン。
 魔界の四大実力者にして一番の変わり者と称される男。
 キミ呼ばわりされて平然としている事からもそれは容易にうかがい知る事が出来る。
「あーあーそんな事はどうでもいいのだ。あのあほたれ、私が面と向かって頼むのでは到底素直にうんとは言わぬからな。それどころか、私が困るとか言い出すとそりゃ結構とか言い出すだろう。まったく、あまのじゃくめが…」
「そ、そだね」
 アルルは、少し前にシェゾもまったく同じ様な事をサタンに対して言っていたのを思いだし、必死に笑いをこらえる。
「とにかく、私が言うよりばれていようが何だろうが、お前の言う事の方が聞くからな」
「そ、そかな? ボクの言う事なんて全然聞いてくれないよ?」
「やつの手綱捌きに掛けては自負していいぞ」
「…そう、かなぁ?」
 途端にアルルの顔がだらしなく緩む。
「そ、そう? そう?」
 アルルは意識せずして胸の奥から幸せがこみ上げてくる気がして、知らずに情けなくなるくらいに顔をにやけさせている。
 サタンはそんなアルルを見てやれやれ、と力無く笑った。

「成る程な」
 シェゾは確かに目標地点には近づいていた。
 カーバンクルレーダーを当てにせずとも、彼自身のサーチングが反応を返し始めてきたのだ。
「カー公」
「ぐ?」
「俺はこれから…直接はお前とは何の縁もゆかりもないんだろうが、それでもお前と対になる宝石を生命の源とする奴に会いに、そして…」
 シェゾはほんの少し考える。
「殺す」
 言葉を濁す事はやめた。結果は何も変わらないから。
「ぐ」
 ほんの僅か、カーバンクルの顔が緊張した気がしたのだが、それは多分サタンといえど気づいたかどうかは分からないだろう。
「必要な事だ。邪魔、すんなよ」
「ぐー」
 カーバンクルは早くいこう、と再びその短い足で歩き始める。
「読めない奴だ」
 シェゾは軽く溜息をはくと、ほんの僅かだが体に警戒警報を発令した。
 ここは、既にアゾルクラクを持つ者の領域なのだ。

「シェゾは大丈夫って思うけど…カーくんは平気かな? 凶暴なんでしょ? 襲われたりとか…しない?」
 カフェ。
 アルルはおかわりした紅茶を飲みつつサタンと事のおさらいをしていた。
「カーくんこそ絶対に大丈夫だ。カーくんのルベルクラクはそこらの物とは格が違う。例え相性的には悪い存在のアゾルクラク相手でもその気に犯される事はない」
 自信満々にその身をふんぞり返らせつつ語るサタン。
「それだけ自信満々なのにさぁ…」
「ん?」
「なんでサタンが行かない訳?」
「大人の事情という奴だ」
「おとなぁ?」
 アルルは怪しさ炸裂の視線をサタンに送った。

 ルベルクラク、アゾルクラク。
 この特異な宝石は、成分自体は間違いなく鉱物であるにもかかわらず、土中を生成の媒体としない。
 カーバンクルを見れば分かる様に、それ自体も魔法生物を己が宿主として『成長』する宝石なのだ。
 シェゾは今回の事に当たり、軽くおさらいする。
 カーバンクルの頭を不意にひっつかみ、しげしげと額の宝石を眺める。
「ぐー?」
 カーバンクルは特に危機感を覚えるでもなく、それでいて無意味に手足をじたばたさせている。
「こいつについているこれが、そうなんだからなぁ…」
 分からん、とシェゾはカーバンクルを放り投げた。
「ぐー」
 解放されたカーバンクルはしばらくその場で奇怪な舞踏を繰り広げていた。
 その後、シェゾとカーバンクルはまばらな林を抜ける。
 そこは開けた盆地になっており、その底には直径でおよそ二百メートル程度の大きさを持つカルデラ湖の様な水たまりがあった。
「…あれか」
 シェゾの視線の先。
 湖の対岸にある高台に、この距離から見てもはっきりとその存在を確認できる生物が立っていた。
 こちらから見ると、丁度背中を向けて天を仰いでいる。
 不思議と哲学的なその光景。
 シェゾはほう、と感心した。
「ぐー」
「おい、お前に気をつけろ、なんて言われたくないぜ」
 いつもはカーバンクルの言葉を解するアルルを人外扱いしている自分も普通に会話している事実に、シェゾは気付かなかった。
 シェゾは開戦のファンファーレ代わりに口元をゆるめると、カーバンクルに動くなと指示を出して歩き出す。
 緩やかな傾斜の大地を降りて湖面にたどり着いた頃、その生物もこちらを向いた。
 無論、今彼の存在に気づいた訳ではない。
 その事は、すべてを見透かしたかの如く黒々と、そして透明に輝く瞳が語っている。
「なかなか立派な毛皮だ」
 外見は毛足の長い狼に似ていた。
 ただ、狼にしては巨大すぎた。
 狼の何倍も大きく、その体長は馬を更に一回り巨大にしたに等しい。
 体毛は美しいシルバーグレイ。
 まるで毎日欠かさずブラッシングしているかの様なつややかな体毛は、太陽の光を反射して鮮やかに、かつ透明なガラスの様に輝いていた。
 そしてその額にあるのは正しくアゾルクラク。
 琥珀色のルベルクラクに対してブルームーンストーンの様に蒼く輝くそれ。
 まさしく対となるに相応しい、美しく、大きく、そして上品さと禍々しさすら兼ね備えた宝石が額に鎮座していた。
「上物だな」
 シェゾは感心して言う。
「カー公、お前よりは若いが、なかなかだぜ」
「ぐー」
 カーバンクルはどういう意味か判らぬ返答をする。
 だが、そんな確認はどうでもいい事。
 結果は変わらぬから。

 闇に集いし黒翼の精霊よ。

 深遠たる暗き光を保ちて己が宿りし無慈悲なる力を解放せん。

 そは光よりも眩き闇。

 我はそを受け入れし器。

 そして支配せんとあがく者。

 シェゾが意識下で、闇を謳いし詠唱を発動させた。
 それ程の相手なのだろう。
 同時に狼が飛んだ。
 文字通り、空を飛翔して。
 シェゾめがけて。
「ぬぅっ!」
 何も握られていない両手を大上段の構えで振りかぶる。
「闇の剣よ!」
 その手に青白い稲妻が光り、次の瞬間、クリスタルの剣が握りしめられていた。
 瞬きする間もなく巨大な狼が目前まで迫る。
「せぇっ!」
 振り下ろした瞬間、剣が空気と摩擦を起こし、無数の火花を散らせた。
 狼と闇の剣は距離を無にする。
「!」
 瞬間、眩い閃光が太陽の如く輝く。
「うぉっ!」
 シェゾは天も地も分からぬままに吹き飛んだ。
 何メートル吹き飛んだかも分からない。
 だが、今地面に付いたと言う事だけは、突如襲い来る体の痛みが教えてくれた。
 左肩が鈍い音をひねり出す。
「ぐっ!」
 冗談みたいに体が捻られ、シェゾの体は地面からリバウンドして宙に舞った。
 痛みが消えた。
 視界が銀の光に染まる。
 視界も痛覚も戻らぬまま、間髪入れず次の衝撃がシェゾを襲う。
 感覚だけが、第二撃をまともに受けたと理解した。
 巨大な水飛沫が湖面を襲う。
 現状を理解しなければ、人一人の質量で起こした水飛沫だ等とは理解できぬ程、不自然に大きな飛沫が弾けた。
 無数のいびつな波紋が湖面を賑わせ、水面に波を作る。
 この土地としては百年分ほどの騒々しさが、この一秒そこらで発生した。
「て…めぇっ!」
 常人ならば三度程はあの世を往復したであろう破壊的衝撃。
 シェゾはだが、悪態一つで大時化となった水面より飛び出した。
 滝の様に止めどなく彼に纏わり付く水に、赤い色が混ざっている。
 この水量をして色を混ぜさせるとは、どこかを深く切ったのであろう。
 だが、傷は元より先程の常識外れな衝撃を受けたその男は、これもまた常識はずれな根性で飛び上がった。
 しかし、やっと眼球が機能を生き返らせたと思った瞬間、その視界には再び丸太の杭を思わせる爪が迫っていた。
 瞬間、再び閃光が周囲を白く染める。
 そして次に声を上げるのはアゾルクラクの宿り主だった。
 土石流の様な咆哮、いや悲鳴が轟く。
 太陽の様に白く発光したそれが弾け、シェゾはその中から帰還する。
 弾き飛ばされたみたいに後ろに飛び、視線を一瞥もせずぶん、と宙返りして地面に足を押しつける。
 少し遅れてマントが背中に戻り、シェゾはようやく大きな息を吐いた。
 体からは白い煙が沸き上がっている。
 二度、三度と肩で息をした頃、ようやくもう一つの物体が水面に落ちた。
 シェゾの位置からほぼ対岸。
 妙にゆっくりと落下して見えていた。
 湖面ギリギリに落ちた狼は、水柱と言うより水の混じった土煙を火山の噴火の如く吹き上げ、豪快に落下する事となった。
 一体、どれ程の勢いで吹き飛ばされたというのか。
 そして、一体何があったというのか。
 理解は不可能だ。
「…ったく、流石はアゾルクラクだ…ぜ」
 そして流石はアゾルクラク宿りし魔物、と言いたげだった。
 肩で息をするその姿と、右腕に伝う赤い筋がそれを代弁する。
 今だ土煙収まらぬ対岸で大きな爆煙が一つ轟いた。
 続けて怒号にまみれた咆哮が轟く。
「!」
 湖面がざん、と揺らぎシェゾの元に先程の爆煙の熱風が襲い来る。
「怒ったかね」
 シェゾは呑気に呟いた。
 対岸で地面を蹴り上げて狼が飛び上がった。
 再び湿った土煙が巻き上がる。
 次の瞬間、既にその影はシェゾの上だ。
「おお」
 それでも彼は呑気に感嘆の声を上げる。
 だが。
 その瞳は冷たく、凄惨に輝いていた。
 お前は、意志を持ちすぎた…。
 純然たる意志の力により能力を飛躍的に、かつ無限大に増殖させる魔の宝石、アゾルクラクよ。
 その意志の強さ故に実体化し、更に増大を重ねる存在よ。
 お前は、もう臨界だ。
 シェゾは瞳にほんの少し悲しみの色を含ませる。
 それは誰にも分からぬ程ほんの少しの悲しみの色。
 だが、深く、厚い悲しみの色。
 彼にとってそれは決して、他人事ではないのかも知れない。



 

Top 後編