魔導物語 小説『雲の下で』

最終話 Under the cloud




 ここより先は人の立ち入る世界ではない。
 今や完全に蚊帳の外となっているアルルにもそれだけは分かった。
 だが、そんな所に彼が居る。
 今まさに、そんな人外の何かを相手に、彼はたった一人でなにか想像も出来ない事をやってのけようとしている。
 アルルはサタンでもいいから、とそのマントの裾を掴み、今やごま粒のように小さくなったシェゾの姿を見守った。
 当のシェゾは一体何を見、何を考えているのか。

「さっきの見たか? なかなか面白い事をするな。あんなやり方、初めて見た」
『言っている場合か。ああなっては闇の魔導士とて蘇生など不可能だぞ。
 闇の剣が珍しくシェゾをせかす。
 今や彼の周囲は異世界の異なる異常な意識の濁流にまみれている。
 周囲を飛ぶ鳥は尻に火がついたように一目散に逃げ、逃げ遅れた鳥や地上の動物達は、穴という穴から体液やら何やらを吹いて絶命した。
 見よ。
 それら犠牲者達はその瞬間に、一年以上も砂漠にさらされたかのように体を干からびさせているではないか。
 生命力を吸うだけでは飽きたらず、『それ』は水分、栄養素、ありとあらゆる精神的、物質的要素を取り込んでいた。
 精神体から半精神体へと変態を続けている証拠である。
 突然、何も無いと思っていた場所から小さな太陽のような熱源が生まれ、シェゾに向かってレーザーのように飛ぶ。
 シェゾは転がるようにしてそれを交わした。
 熱線は雨のように降り注ぎ、シェゾはひたすらそれを交わし続ける。
マントに触れればそこは一瞬で焼け付き、目先数センチの場所を通り過ぎれば、それだけで目が煮えるように熱い。
 しびれを切らせたかのように、今度はいくつかの別方向からまとめて熱線がシェゾに飛ぶ。
 シェゾはそれを目視しつつ死角を探す。
 何処に飛んでも他の熱線に当たると思われたそれにほんの僅かの隙間があった。
 地面をスライドするみたいにすれすれの高さで横っ飛びし、地面に幾つも穴を開けた熱線をシェゾは避けきる。
 地面を転がり、膝をついて立ち上がったシェゾは既に泥にまみれていた。

「…本当に、大丈夫なの?」
 アルルがサタンのマントを握りしめながら問う」
「シェゾとて阿呆ではない。奴らの危険性は周知だ。あんな風にはならん」
 あんな風。
 アルルはつい先程、思わず見てしまった、空から落ちてきた犠牲者の亡骸を思い出し、慌てて口に手を当てる。
「どうしてこんな事が起きたの?」
「それはこれが終わってから調べる事だ。まぁ、何百年掛かるかもしれんがな」
 サタンは面倒だな、と書類仕事が増える事に溜息をついた。
「…やっぱり、ボク達にはキミ達の時間の尺度はわからない」
 生きる尺度の根本的な差異。埋まる事のないそれにアルルは溜息をついた。
 そして、アルルはただ一つの目的の為にシェゾを見る。
 帰って来て。
 その目は、彼にそれを伝える為だけに開かれていた。

「奴の目的は何だ?」
『知らぬ。
「悪い、独り言だ」
 そう言った瞬間、背中にぞわりと戦慄が走る。シェゾは水飴の中に浸かっているような粘ついた空気の中を跳んだ。
 普段であれば魔術を併用する事で一跳び三十メートルを余裕で跳ぶシェゾが、今は十メートルがやっとだった。
 足をついて振り向くと、たった今までシェゾが立っていたそこには、何か柔らかな氷柱、とでも表現したくなる何かが生えている。
「なんだ、もうここまで実体化しかけているのかよ」
 今までは感覚に頼っていたが、視覚の補助が入るととても楽だ。
 もっとも、実体化が可能な程に力を蓄えているという事は決してよい兆候ではない。だが、シェゾは寧ろ歓迎する、と闇の剣を構えた。
「やっぱり手応えがないと斬った気がしなくてな」
『斬れればいいがな。
「頑張れ」
『……。
 闇の剣が大きく溜息をついた気がした。
 シェゾはにやりと口元を緩ませると、次の瞬間には真一文字に結び、蠢く氷柱へと突進する。
 闇の剣が刃を食い込ませるかと思われたその瞬間、透明だった氷柱は突然鍾乳石のように豹変し、闇の剣が呆気なく弾き返された。見た目はゼリーのままだというのに。
 更に周囲には空気中から湧き出したかのようにゼリーのような球体が無数に生まれ、そよ風になびくようにしてシェゾへと向けて動き出す。
 視界に入るだけで数千、いや数万のそれ。
 シェゾはマントをもぎ取るようにして外し、退路を阻むそれに叩きつける。
 マントがそれに触れると、見た目はシャボン玉だが、触れた場所にそのまま穴が開き、白い煙が上がった。シャボン玉はそこにあるままだ。
 酸か何か、強力な溶解性を持っている。
 シェゾはそう判断すると同時に左手をかざし、気合いと共に爆炎を巻き起こした。
 ゼリーが吹き飛び、シェゾはトンネルのように開いた道を跳んだ。
 たった今までシェゾが立っていた場所にそれが雨のように降り注ぎ、地面が悲鳴を上げたかのような音を立てて煙を上げる。

「シェゾすごい!」
 アルルがサタンの取り出した鏡を通して、シェゾの勇姿を中継で見ていた。
 だが。
「やばいな」
 サタンが正反対の言葉を呟く。
「え?」
 サタンがよく見ろ、と促した。
「…あっ!?」
 アルルが悲鳴を上げた。

「ちっと、早まったか」
 シェゾが目を押さえていた。
『あの爆炎だ。さぞかし豪快に弾けただろうな。
「そうみたいだぜ」
 強酸性の水玉。
 触れる事敵わぬのならば吹き飛ばそうとしたはいいが、弾けたそれが霧のように霧散していた。
 シェゾはそれを目に受けてしまっていたのだ。
『迂闊だぞ。
「言うな」
 そこへ粘つくような突風が吹く。
 シェゾは転がるようにして交わすと、相手の方向も分からぬままに目を閉じたままで闇の剣を構えた。
 見えないが、何かを交わした事だけは確かだ。
「実体になってくれたってのに、これじゃあんまり変わらないな」
 シェゾは視界を無くして尚減らず口をたたく。
 どう、と風が押し寄せる。
 音はない。だが、シェゾは皮膚に感じるぴりぴりとした危険な感覚と直感だけで、襲い来る何かを再び避ける。

 しいた目で人外の、リンボの魔物の襲撃を交わすとは。
 サタンはほう、と満足そうに口元を緩ませた。
「あの阿呆めが、ちゃくちゃくと」
「……」
 普段なら噛みつく所だが、アルルは今はひたすら鏡にかじりついていた。
 息をするのも惜しいくらいに食い入り、シェゾの一挙手一投足を見守る。
 一瞬でも目を話せば、彼がどうにかなってしまいそうだったから。

 薄墨をまき散らしたかのように濁る空から突然雷が幾つも落ち、それはシェゾへと脇目もふらずに落ち続ける。
 シェゾは闇の剣を避雷針のように立て、刀身は雷を受けたと思った瞬間に弾く。
 生半可な魔導が効かぬ以上、防戦一方になるのは分かっていたが、多人数ならともかく個体でここまで連続で強大な魔導を発するとは。
 シェゾはそれこそ息をする間も惜しみ、防御に徹していた。
「弾いて散らすんじゃなくて、吸収出来たらどんだけか力になるんだろうな」
『主よ。
「分かっている」
 雷は尚もシェゾへ向けて雨のように落ち続けるが、闇の剣はそれをことごとく跳ね返し続ける。
 らちがあかない、とでも思ったのか、ほんのわずかの間雷が止まり、そして次の瞬間、大樹の幹のように太い雷が一本、滝のようにシェゾの頭上に落ちてきた。
 視界はないがまぶたに光は感じる。
 シェゾは叫び声のような気合いと共に闇の剣を振り、エネルギーである雷を物質のように二つに割る。
 裂けた雷はシェゾの脇を通り過ぎ、地面に爆弾のような勢いで落ちて弾けた。
 両脇から物質的な衝撃が襲う。
 シェゾは舌打ちした。

「…ふむ」
 サタンが顎に手を当てて小難しげに鏡を見る。
「い、今のすごかったけど…また何かあるの?」
「あの衝撃だ。雷を弾く以外に裂く力は無かっただろう」
「そ、それって?」
「二つ目だ」
「二つ目?」

「……」
 マジか?
 シェゾは頭の中で呟いた。
 聞こえないのだ。
 耳が。
『衝撃で鼓膜がおかしくなったな。これならいずれ治る。
 闇の剣だけが頭に響く。
 いずれが来るまで立ててりゃいいけどな。
 シェゾは暗く、そして無音の世界で溜息をついた。
 
 視覚も聴覚も無いのに、体の感覚だけは鋭敏なままだ。
 痛覚も含むが、今の状態で尚生きる為の情報を送り続ける皮膚と感覚。
 シェゾの顔面に向かって半固形状のゼリーから槍のようなものが伸びた。
 風より早く遅うそれ。
 だが、シェゾは頬を擦らせながら一閃を交わした。
 頬を焼け付くような痛みが襲い、今頃風を感じる。
 シェゾは闇の剣を振るう。
 槍が、斬れた。
 少なくともその感覚を感じる。
 聞こえぬが、肌が何かの悲鳴を感じた。

「うむ」
「な、何が?」
 サタンの満足げな頷きにアルルが問う。
「いけるかもしれん」
「何が!? ど、どう見たらそんな楽観的になれる訳!?」
「気付け。最初、奴は避けるしかできなかった。だが、次に受け止めた。そして散らした。今は、攻撃したのだぞ」
「!」
 アルルは、はっとしてシェゾを見た。
「この短時間で異世界の魔導を解析しおった。流石は異なる魔力を分解、再構築して己がものにするのを専売特許とする闇の魔導士だな。まさかリンボの魔力をもこんなに短時間でとは。いや、面白いぞ、これは。これは面白い。うむ」
「……」
 そうかもしれない。
 だが、それでもとてもシェゾが有利になりつつあるようには見えない。
 アルルにはその言葉が気休めにしか思えず、そう思ってしまう自分が情けなく思えた。
「でも、だって…」
「あ」
 サタンが間抜けな声を上げた。

『逃げろ。
 無理だ。
 シェゾはあっさりと諦める。
 感覚が、残った感覚全てが警告を叩き鳴らしていた。
 無いのだ。
 隙が。
 次の瞬間、感覚が消えた。

「……」
 アルルは呆然としていた。
「シェ…………」
 心臓が狂ったみたいにばくばくと鼓動し、息をしても息をしても苦しい。
 脳が、今見た事実を認めようとしなかった。
 うす水色の波が四方八方から押し寄せ、シェゾを飲み込み、そして天に飛んで消えてしまったその事実を。
「第二ラウンドか」
 サタンが飄々と言う。
「……」
 殴ろうか。
 アルルはだが、体の何処にも力が入らず、そのまま尻餅をついてしまう。
 しかし見よ。
 周囲の空気は見違えて澄み渡り、空の青さ、雲の白さはこの上なく美しく視界を埋め尽くす。
 先程まで鉛の溶けた湖のように生き物の気配無かった空には、既に鳥が飛んでいる。
 これは紛れもなくシェゾがやったのだ。
 シェゾは、目的を果たしたのだ。
 それだけは間違い無かった。
「帰るぞ」
「…何……言ってるの?」
 アルルは動こうとしない。
「ボクは…待つよ。シェゾを…」
「いつ帰ってくるか分からんぞ。奴は身の危険を感じたリンボの魔物に引っぱられた」
「どこ…へ?」
 視線の定まらぬアルルが独り言のように呟く。
 大きすぎる喪失感がアルルから感情を奪っていた。
「一度物質となった奴はもはやリンボへは戻れん。リンボにとって不純物すぎるからな。今頃はどこかの狭間で戦っているだろう。地上よりは力が出せるだろうからな」
「見られないの? 行けないの?」
「見る事も行く事も敵わぬ。悪いが次元の狭間までは流石にシェゾの気配は追えん。後は奴が帰ってくるのを願うだけだ。リンボの魔物相手に逃走させた。それだけでも勲章ものだ。ま、リンボに引き込まれた日にはもうダメだが、奴も半端にこちらに対応してしまった。可能性、ゼロではないぞ。ゼロでは」
「……」
 彼を追う術は断たれた。
 アルルは事切れたように倒れ、気を失う。
「…もうちっとは意識してやれ。うらやましいぞ貴様」
 どうせ帰ってくるだろ、と空を見上げ、サタンは呟く。
「ルーンには出来たのだ。貴様に出来ん道理は無いぞ」
 サタンは気を失ったままのアルルを抱き抱え、帰路に着いた。

 空にぽっかりと穴が開く。
「なんだぁ?」
 それを見つけたのはとある地方、とある村で麦を作る農夫。
 別の場所で同じ現象が起きた半月後の事。
 切り取ったみたいに黒い穴がじわじわと広がり、穴の周囲には鉛色の雲のようなものが沸いている。
 農夫は訳の分からぬ恐怖と不快感に襲われ、小さく悲鳴を上げて尻餅をつく。
 穴の中に何かが現れた。
 一体何の化け物が?
 農夫は失禁寸前ながらも持ち前の度胸でそれを見続けた。
 それはみるみる姿を現し、やがて人の姿だと分かる。
「あ?」
 思わず呆ける程にその姿は普通。
 何百、何千メートル上空から落ちてきたかと思われたというのに、それは地上に激突する寸前で重力を無くしたかのように失速し、音もなく麦畑に落ちた。
「…人か?」
 普段が判子を押したように平坦な繰り返しの日常を送っていた農夫は、正に降って沸いた非日常に、恐怖より好奇心を勝らせる。
 麦畑をかき分け、それが落下した所へ恐る恐るながらも歩み寄り、やがて天よりの来訪者を見つける。
 果たして、悪魔か天使か。
「…最近の天使は随分イケメンだなおい。なんか血まみれだけどよ」
 かっこいいから天使だろう。
 根拠もなくそう決めた農夫は同性にも関わらず一瞬、その銀髪も美しい顔に見惚れながら呟いた。
「おい、あんた、生きてるか?」
 農夫が声をかける。
「…ここ、どこだ?」
 ゆっくりと男の目が開いた。

 更に半月後。
「ここでいい」
 視界一面の広大な草原脇の細い街道を進む馬車の上から声がする。
 それは収穫した麦を配達する馬車だった。
「あ? お前、この先の街に用があんだろ?」
 浅黒く日焼けした農夫がその声に問いかける。
「『用』を見つけた」
 そう言うと男は御者台から飛び降りる。
「おうおう、半月でよくここまで回復したもんだ。初めて見つけたあんときは、目もろくに見えなかったってのによ」
「あんたのお陰だ。世話になったな」
「…そうか。んじゃ、気をつけな。ここは、一ヶ月くらい前になんかえれぇ天変地異があったらしいぞ。興味本位なら近づかない方がいい」
「ああ」
「言って聞くあんたじゃねぇか。…あんたに会えてなかなか刺激的だったぞ。天使じゃなかったのが残念だけどな」
 農夫は自分の昼食を餞別代わりに渡すと再び馬車を走らせ始め、ゆっくりと視界から消えていった。

 男が草原を歩く。
 その先には、一人の少女が小さく小さく踞っていた。
 切なくなる程に美しい青空を眺めようともせず、人形のように地面を見つめたままで。
 男の後ろから風がさぁっとそよぎ、銀髪が小さく揺れる。
 その風はそのまま少女の元まで届き、頭の後ろでまとめた栗色の髪を同じ様になびかせた。
 風を浴びた少女が、ふと顔をもたげる。
 何かを感じた少女は振り向き、そして疲れていた顔に一瞬で精気を取り戻し、弾かれたみたいに立ち上がると、慌てすぎて足をもたつかせながら駆け出した。
 少女は叫ぶ。
 男の名を。
 忘れようのない男の名を。
 二人の影が草原の青々とした絨毯に重なる。
 少女にとって色が消えていた視界に、ようやく色彩が戻った。
 空は青く、何処までも青く。
 雲が白という色を纏う。
 草原は生命力溢れた緑色に染まり、そして鼓動を打つように揺れる。
 世界に命が戻った。
 そして、何よりも見たかった色が目の前にある。
 彼の青い瞳がある。
 自分を見つめる青い瞳がある。
 生きている。
 自分は生きている。
 そして彼が、生きている。
 少女は一ヶ月ぶりにそれを感じた。
 彼の胸の中で。

 雲の下で。


 完



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