Idolm@ster 小説『歌姫咲く花の園』 最終話 「……」 「伊織、聞いてますか?」 「…聞いてる」 生まれ変わる。 何者にも、何事にも負けない自分に生まれ変わったつもりで。 そう、生まれ変わったつもりで飛び出した一時間後。 なのに私はすっかりバテていた。 嗚呼、情けない。 「ってゆーか! 何であんたが居るのよ! 今更だけど!」 「あら、本当に今更ですね。もうスタジオが閉まる時間ですよ。帰り支度、急いで下さい」 レッスン場に開始ぎりぎりで飛び込んだ私は、そこでまさかと思っていた子に会う。 しれっと、遅いですよ、なんて言うもんだから、思わず謝っちゃったわよ。謝る必要ない筈なのに。 その後、なし崩しで私は貴音とレッスンする事になる。 さらに途中から、講師が先生なのか貴音なのかわかんなくなっちゃったし。 先生が立場無くなったらどうするのよ。 「にしても…ボイスレッスンで精根尽き果てるとは思わなかったわ…」 私はロビーのソファーに突っ伏して呟いた。 汗かいた。シャワーあびたい。頭はそう思っているのに、まだ着替える気にもなれない。それくらい疲れていた。 「精根尽き果てるまで頑張って頂けるとは思いませんでした」 にっこりと微笑んだ貴音が言う。 「あんたがやらせたんでしょ! あんたが!」 「出来ると信じていましたので」 「うぐぅ…」 そ、そう言う事言うのって反則だと思うのよね。やっぱり。 だって…。 「と、当然の事ね。この私がその程度でギブアップするわけないじゃない!」 こう言っちゃうから…。 ああもう。自分の完璧主義が恨めしい。 私は力の抜けた体をソファーに横臥したままで、意識だけは仁王立ちの気持ちで言い返した。 「では、明日のレッスンについてですが…」 「うえぇ!?」 あ。ものすごい声出しちゃった。 「何か?」 貴音は気にする風でもなくさらりと問いかける。 「…何でもないわよ」 「では、明日はダンスレッスンを午前中。午後は…」 貴音がメモを取り出して淀みなくスケジュールを読み上げる。 …明日も一緒にやるの決定な訳ね。 「本番はすぐです。無駄のない、今の貴女にもっとも適したレッスンを、わたくしなりに考えておりますからご安心を」 「…ありがと」 そこまで言われたら無碍にも出来ないじゃないのよ。 人の事言えないけど…変わった子だわ、ホントに。 でも、何でだろう。 嫌じゃない。 教え方がいいから? それとも、貴音だから…? 「……」 「どうしました?」 「わぅ」 うっかり考え込んじゃっていたみたい。気がついたら、貴音の顔が目の前にある。 「何でもないわよ」 「そうですか」 今日のレッスンを思い出す。 優しくはないけど、でも厳しいだけでもない…うまく言えないけど、気持ちいいレッスンだった。うん。 「…貴音」 私は軽く溜息をついてその名を呼ぶ。 「はい」 「明日からも、宜しく」 こうなったら、とことん付き合って貰うわよ。逃げ出すなんて許さないんだから。 「勿論です。地獄の底まで付き合いますよ」 貴音は思わず見入ってしまうような微笑みを浮かべながら言った。 って言うかあんた今心の中読んでない? ない? 「…で、で? その後はどうなったんですか?」 やよいが顔を真正面まで近づけながら聞いてくる。 顔が近い。近いから。 「あ、ごめんなさい。なんだかすっごく気になっちゃって。それにしても…なるほどぉ! もう一人、伊織ちゃんの事務員さんのお仕事の事知っていたのって、貴音さんだったんですねー! うーん、残念、私が最初だったらなぁ…」 「まぁ、おかげで鍛えられたわ。ホントに」 「そっかー、伊織ちゃんのあの時のステージ、すっごくいいなって思っていたんですけど、そんな事があったんですねー。そりゃーあれだけ大成功だったのも納得です−!」 そうね。 あの時の感動は…確かに今のところ一番の感動だわ。 多分、あのステージで本当にお仕事っていうものが何なのか自覚したんだと思う。ファンが欲しいだ有名にだ何だじゃなくって、純粋に歌うのがいいものなんだ。歌うのが好きなんだって気付けたんだと思う。 今考えるとね。 「…それにしても、何だか少年漫画みたいな展開です! すごいです! ベストセラーいけます!」 「その例えは良く分かんないけど…。これ、人に言っちゃ駄目よ。やよいだから特別に教えてあげたんだから。事務員もどきやっている事も、知ってるのはやよいと貴音だけなんだから。あ、小鳥と社長もだけど」 伊織はそっと唇に指をあてつつ念を押す。 「…けっこう知られてませんか?」 「そ、そうかもしれないけど! これはけじめってものなの! 私なりの! だからダメよ!」 「えへへ、分かってますよ。一番の友達の私が、しっかりと秘密は守ります!」 やよいは胸をどん、と叩いて満面の笑みで応える。 「ありがと…」 にこにこと微笑むやよいを見て、私はちょっとだけ罪悪感。 ごめんね。 やよい、あんたが一番なのは本当よ。 でも、それは同年代で、の話。 年代って言う枷を外すと…今私が一番だと思っているのは…。 伊織はそっと、脳裏にもう一人の少女の姿を思い浮かべた。 「で、この後どうするんですか?」 「う」 やよいの一言が私を現実に引き戻す。 この後。 分かっている。分かっているわ。このままで居られる訳がないのは…。 「ま、私は分かってますけどねー。何て言ったって伊織ちゃんの一番なんですから!」 「え?」 「さ、行きましょう!」 「ど、どこへ?」 決まってますよ。とやよいはひまわりみたいに笑って私の手を取った。 ちょっとどきどきするけど…でも、私は強くやよいの手を握る。 やよいを、信じているから。 最初はおっかなびっくりに。でも、だんだん私の手を握る手に力を込めてくれました。 伊織ちゃん、元気、出て来てます! 嬉しいです! 私、決めました。高槻やよいの名前にかけて! 色々これからもあると思います。 伊織ちゃんはこれから色々考えて、正しい時も、間違える時もあると思います。 でも、どっちだとしても、伊織ちゃんは自分のやったことがどうなのかを、それをきちんと正しく判断してくれると思うんです。 間違ってたらごめんなさい。正解だったらえっへん。それをちゃんとやってくれるのが伊織ちゃんです。 だから、私は伊織ちゃんの味方をしようって決めたんです。 伊織ちゃんが正しい時も。 うっかり、何かを間違えた時も。 時には、意地悪な伊織ちゃんになったりする時も。 なぜなら、伊織ちゃんはちゃんと間違った事は間違いだったって、自分で認めて、そして、今回みたいにきちんと反省するんですから。 伊織ちゃんは、判断を間違うことはあると思いますけど、間違ったままでは終わらない女の子なんです! 伊織ちゃん! さぁ! 行きましょう! みんなが伊織ちゃんを待っているんですから! 765プロ仮眠室。 「…と、あの時は色々ありました」 伊織との今まで。 彼女に言うなと言われていたが、貴音は全てをあえて語る。 伊織の為に。 「どうですか? 伊織の事、分かってもらえましたか?」 貴音はようやく顔を上げて自分を見ている千早を見て、優しく問いかけた。 「…水瀬さん」 千早が静かにその名を呟く。 「当然未完成な所も多々あります。まだまだの所だって、未熟な所だって勿論あります。ですがあの子は、誰とデュエットしても恥ずかしくない才能と志、そして可能性を持っています。それだけは、わたくしが保障します」 貴音が真っ直ぐな視線、真っ直ぐな気持ちで千早に語る。 こんなに信じてもらえるなんて。なんてうらやましいんだろう。 何か大事なものを無くした子供のような瞳が、そう語っていた。 「そして、あなたもその資格はあるのですから」 貴音の思わぬ言葉に千早がはっと目を見開く。 「アイドルを目指す者として。前を見て、そして進んで下さい。みんなと共に」 貴音が千早の手を握る。 「みんなが、待っているのですよ。貴女を」 「…私を…?」 貴音が千早の手を取る。 「わたくし達は、仲間です。少なくともわたくしはそう思っています。あなたは、そうではないのですか? 伊織だって、みんなだってそう思っています」 仲間。 その言葉に千早の心で何かが顔をもたげる。 「わたくしは、ここの事務所が好きです。ここには、嫌な空気がありません。それは、皆の心がそうさせているのです。ここでならわたくしもやっていける。ここのみんななら、本当に切磋琢磨しあえる、生涯の仲間になれる。そう思ったのです。そして、それは間違っていなかったと今は思っています」 「仲間…」 私を、仲間と言ってくれた。 自分は、お世辞にも協調性があるとは言えない。自分の事で手一杯だから。 他の子の事なんてろくに考えた事がない。 歌の為にここに来ている。それ以外のなにものでもない。 自分で他人を拒絶している。それでいい。 それでいいと思っていた。 違う。 心のどこかで、心のどこか奥深くの自分は、そう思っていた。 家の事を考えるだけで涙が出そうになった辛い時、何も聞かずに微笑みをくれたみんな。 歌が上手く歌えなかった時、刺々しかった自分だったのに、それでも一緒にレッスンをしてくれたみんな。 自分の心は隠したままだったのに、それでいてみんなから貰う居心地のいい暖かさだけを貪っていた自分に、あれだけ真正面から、その純粋な心を隠さず、胸の内をさらけ出して怒鳴ってくれた…あの子。 自分の器の小ささが嫌と言う程のしかかる。 「私…」 千早の肩が震えた。 「いがみあったっていいのです。怒鳴りあったっていいのです。その後、互いが成長すればいいのです。それが、仲間です。今の貴女になら、仲間の意味が、分かる筈です」 「…仲間」 「立ってくれますね?」 立つ。 今、その言葉には様々な意味が込められている。 「…また、転ぶかもしれません」 「再び立ち上がって下さい。それだけです」 貴音が千早の手を持ったまま、優しく囁いた。 「…かないませんね」 千早が顔を上げ、そして弱々しくだが、微笑む。 「伊織さんには…。私の初めてのパートナーとして、迷惑はかけません。どんなに喧嘩しても、それでも、絶対にみんなが満足いくものに、してみせます」 「信じてますよ。仲間ですから」 仲間。 改めて自分に向けて言われたその言葉に、千早の胸は熱く震えた。 「こんにちはー!」 うわ。とうとう来ちゃった。 765プロの玄関からやよいが元気な声で突入する。 「あら、やよいちゃんいらっしゃい」 奥から小鳥が顔を上げる。 小鳥の声を聞くと、事務所に来た、そんな実感がわき、私は思わず足を竦ませる。 「ちょ、ちょっと待って! やっぱりまだ心の準備が…!」 やよいに手を引っ張られてここまで来たけど…や、やっぱりさっきの今でってどうかしら? 大丈夫? 「大丈夫です! 女は度胸です! 大丈夫です! えーと、シンガーでバンジーな馬! って言うことわざもあります!」 「…そ、そうね」 …多分、人間万事塞翁が馬の事、よね。きっと。 でも、今はやよいの勢いに水を差すのはやめておく事にしよう。 こんなに笑顔のやよいなんだから。 …ど、どうしよう。 『それを言うなら人間万事塞翁が馬でしょーっ!』って突っ込んで欲しかったのに。 きっと気を遣われちゃったんだ。嬉しいけど切ない…。 うう…ボケって難しいです…。 ここの所は後で聞いて分かった事だけど、この時はやよいがそんな事を思っていたとも知らず、私は生暖かい視線を送っていたわ。 ゴメンね。 普通に素だと思っていたの。 「小鳥さん! こんにちは!」 「いらっしゃい」 「…こんにちは」 「伊織ちゃん、元気になった?」 「まぁ、ね。どうせもう色々知っていると思うけど…」 「ふふ。まぁね」 小鳥がにっこりと微笑む。 覚悟はしていたわ。 だって、奥から貴音がこっちに歩いて来たのを見ていたんだもの。 「伊織、ごきげんよう」 「…う、うん」 なんかすごい勢いでこっちに歩いてくる。 私はさっきの頬の痛みを思い出して思わず身が竦んだ。 「伊織」 「ひゃう」 ああっ! なんでここで小心者になるのよ! 毅然と睨み返すくらいしなさい伊織! 「ぶって、いいですよ」 「え?」 「先程は、大変失礼な事を貴女にしてしまいました。間違っていた、とは申しませんが、それでも貴女を悲しませた事は事実です。本意では有りません。そう言う意味では、本当に申し訳ありませんでした。ですから、どうぞ」 そう言うと貴音は少し身を屈ませて目を瞑る。 「……」 何? 私にあんたをぶてって言うの? ぶちやすいように目を瞑っているっていうの? 「……」 私は。 私は…。 「!」 「伊織ちゃん!」 やよいがびくりと身を竦ませる。 小鳥もはっと息を呑む。 私は、思い切り右手を振り上げ、そして。 一瞬の空気の停滞の後。 静まりかえった事務所内に小さく乾いた音が響いた。 はっと貴音が目を見開く。 その目に見えていた私はどんな風だったのだろう。 きっと見目麗しい表情じゃ無かったわね。 だって。 私、自分で自分のほっぺを叩いていたんだから。 ある程度手加減はしたけど。 でも本気は本気で。 「…伊織」 だって、冗談じゃないわ。 本当、冗談じゃない。 「貴音。この私を、水瀬伊織を舐めないでよね」 私をぶったその理由を理解出来ないとでも思っているの? そんな事をする私だと思っているの? 違うわ。 私は、私への制裁こそ必要だと考える事は出来ても、あんたの頬を叩くような腐った根性は持ち合わせていないの。 「伊織…」 貴音が私の瞳を見つめて微笑む。 うん、分かってくれたのね。それでこそ、自分の珠の肌を自分でぶった甲斐があったってもんぐにゅふっ! 「あーっ!」 やよいが素っ頓狂な声を上げた。 貴音が、私を思いきり抱きしめていたから。 「た、貴音! くく、くるし…ふぎゅ!」 必死に訴えているのにますます貴音は私を抱きしめる腕に力を込める。 息! 息出来ない! あんた何? その細腕の何処にその力がある訳? 意識! 意識飛ぶからやめて離し…あふ。 「あ、し、失礼」 私が弛緩しかけたのに気付いて貴音がようやく離してくれた。 「あふ…」 「し、死んじゃだめですー! 伊織ちゃーん!」 やよいが貴音の代わりに抱きついてくる。 いや、死なないから。それと強いから。落ちちゃうからやめて。 「あの、とりあえず座らせてあげましょう?」 小鳥ナイス! 私はようやくソファに座らせてもらえた。 ああ、なんかどっと疲れたわ。 それに自分のあれだけの覚悟もなんかうやむやにされちゃったみたいな気がするし…。 なんか、自分で頬を叩いたの、単なる叩き損? 「そんな事はありません。わたくしはしっかりと貴女の覚悟をこの目に焼き付けました」 だから心を読まないで。何? 私、そんなに顔に考えが出るの? サトラレか何か? それに何で二人が両脇に座るの? 近いし。私、狭いし。 「特に意味は無いのですが」 「特に意味は無いのです」 「…あ、そ」 私は良くも悪くも気負っていた肩の力が完全に抜けきってしまう。 でも、おかげで…。 「水瀬さん」 その声を聞いた時も、ごく自然に、自分がやりたいやり方で、その声の主、千早に接する事が出来た。 「千早」 いつの間にか立っていた千早が申し訳なさそうに、そして何か羨ましいものを見るような瞳でこっちを見ている。 「あの…」 「……」 私は立ち上がる。そして、さっさと千早の横を通り過ぎた。 私が無視したみたいにして横を通り過ぎたその瞬間、千早の体が見て分かる程にびくりと震えた。 子供みたいに胸の前で握っていた両手に力がこもるのが分かった。 でも、やよいも、貴音も、小鳥も、そんな私の行動を見ても表情は変えなかった。 きっと分かっていたのね。 少しして戻った私は手にジュースを持っていた。 千早はさっき立っていた場所にまだ立っている。 姿勢も変わっていない。 でも、肩が震えていた。 「千早」 もう一度その名を呼ぶと、また千早がびくりとしながら恐る恐る振り向いた。 「はい」 私は手に持っていたオレンジジュースを渡す。 「…え」 「ぼーっとしてないで座りなさいよ」 私は二人の反対側に座り、そして千早に横に座るように指示した。 千早は大人しくそれに従う。 「飲まないの?」 「え? あ…。え、ええ」 千早はどうしたらいいんだろう? とおぼつかない手つきでタブを開き、自動的にやっているみたいに一口飲んだ。 「それね、濃縮還元だけど一応飲めるほうのジュースなのよね」 「え、ええ」 一体何? って顔。 そりゃそうよね。 でも驚いて貰うのはこれからなんだから。 「私ね、あんたの事嫌いよ」 千早を見て私はさらっと言ってしまう。 「!」 千早の身が強ばった。 「あんたも、私の事嫌いでしょ?」 「…そ、そんな…」 千早が体を震わせながら私を見て、慌てて何かを言おうとする。 ううん。分かっているわ。 その瞳、私を見る瞳を見れば分かる。あんたの瞳に、私は綺麗に映っているもの。 「いいのよ」 「よ、よくありません! 私は、貴女に謝らなくてはならないとこそ思っていますが!」 「私はあんたを好きになる」 「え?」 「今はまだ好きとは言えないけど、好きになってみせる。絶対に。意地でもあんたの事を大好きになってみせるわ」 「え? あ、あの…?」 鳩が豆鉄砲を食ったような顔ってこういう顔かしら。 私はなんだか気分が高まるのを感じた。 「そのジュースは前金よ。私はあんたとのステージが終わるまでに、絶対にあんたを好きになる。宣言するわ。だから、あらかじめそれを渡しておくの」 「水瀬…さん」 千早の顔が僅かに惚け、そして頬に僅かに赤みが差す。 「だから、あんたも私の事を嫌いじゃなくなったら…その時はジュース奢ってちょうだい。その時は、ご褒美にぎゅってしてあげるから」 「…水瀬さん」 千早の赤みを差した頬がますます赤く染まり、そして体が震えていた。きっとさっきとは違う震えだと思う。 「勘違いしないでね。馴れ合いは無しよ。でも、これだけは覚えて置いて。私もあんたもみんなも…みんな、仲間なんだから」 「!」 千早の体がぴくり、と震えた。 そして、その瞳からははらはらと涙がこぼれる。 その涙が、とっても綺麗だったのを覚えているわ。 やよいもふるふると涙ぐみ、貴音の瞳にも、間違いじゃなければ、うっすらと輝くものが見えていた。 そしてそれは今、ここにいるみんなが、同じ方向を向いた。それを確信した瞬間だった。 まぁ、このタイミングで顔をぐしゃぐしゃにしておもいっきり鼻かんでいた小鳥はどうだったか知らないけど…。 「水瀬さん…私、必ず、必ず、オレンジジュースを貴女に渡します」 「出来ればストレート果汁でお願いね」 思わずお互いに体を抱き寄せそうになったけど今は我慢。 私と千早は両手でしっかりと握手して、そしてステージの成功を誓った。 その日、その後からすぐにレッスンは再開された。 お互い思い立ったら動かないと気が済まない質らしくって、それはまぁお互い様で良かったわ。 お陰で社長の不安も吹き飛んで、無事私と千早の二人のステージは開幕を迎える事が出来た。 当日までの数日間、頑張ろうと励まし合ったり、いがみ合ったり、本当に濃密な期間だった。 まぁ、お陰で互いに本当にわかり合える事が出来たと思う。 やよいや貴音から、ちょっとジト目で見られるくらいには。 そして当日。 私と千早は心の底から楽しくステージで歌い、踊れた。 開演直前、千早の口から『楽しみましょう』なんて言葉が聞けた時は本当に嬉しかったわ。 勿論私も最高の笑みで返したわ。 そしてステージ、765プロみんなの宣伝のお陰で満員の中、私達は渾身の力を込めて自分達の歌を披露した。 ちょっとのミスはあったけど、それでもみんなはずっと声援と拍手を送ってくれた。 楽しかった。 気持ちよかった。 千早とステージ出来て本当に良かった。 そう思った。 それなのに、もっと驚く事があった。 アンコールも終わり、本当に最後の挨拶の時。 「みんなー! 今日は本当にありがとーっ! 伊織ちゃんの事、これからもどんどん応援してねー!」 猫かぶりモード…じゃなくてお客さん用スマイルにみんなが魅了されていた私の挨拶の後。 先に最後の挨拶を済ませた千早が、本当に最後に、と一言付け加えた。 むむ。やるわね。最後の最後の最後を持ってくるなんて。 「私は今日、本当はここに立てるかどうか分からない状態だった時がありました」 千早? 突然の言葉に会場がざわり、と静まる。 「心細くて、自分が情けなくて、消えてしまいたい。そう思っていた時がありました。でも、私は今ここに立っています。それは、765プロのみんなのお陰です。ここにいる会場のみなさんの声援のお陰です。本当にありがとうございます!」 深々と頭を下げる。 その真摯な態度に、ざわついていた会場からは今度は拍手喝采が起きる。 やるじゃない、千早! 伊織ちゃんも拍手手伝ってあげるわ。 私も一緒に拍手していたその時、頭を上げた千早がさらに言葉を続けた。 「そして、誰よりも今一番お礼を言いたい人がいます。私を励まし、叱り、一緒に泣き、一緒に笑ってくれた人…」 千早がゆっくりと私に振り向く。 あんた…。 「その人と私は約束しました。本当に仲良しになれたら、好きになれたら、ジュースを奢るって」 会場の視線が千早に合わせて私に集まる。 ちょ、ちょっと。なんか嫌な…って言うか、めちゃくちゃ恥ずかしい予感がするんだけど? 「水瀬伊織さん」 「ひゃい!」 ああああああ! なんで今噛むのよ今! 会場からひょー! とか、かわいー! とか、なんか自分としては不本意な声が上がってるじゃない! 「冷たくなくてごめんなさい。実は、スタッフにお願いしてステージにこれを持って来ていたの」 千早が袖に行き、そして何かを持って戻って来た。 ああ、やっぱり…オレンジジュース。 「これを、受け取ってくれますか? 約束のジュースです。貴女を好きになれたら、渡す約束の」 「え、ええ」 ちょっとちょっと! 今好きっていうとなんか妖しく聞こえるんだけど? でも、千早のその気持ちは心の底から嬉しかった。 だから、私は受け取った。 ああ、あんたもエンターテイナーだわ。こんな、忘れられない演出してくるなんて…。 「ありがとう。つまり、いいんですよね?」 「え? 何が? わひゃっ!?」 私の声と、会場からの様々な声やら悲鳴やら口笛が嵐のように鳴り響く。 だって…。 だって。 千早、私の事思いっきり抱きしめてきたんだもん。 その後、我に返った私は、女の子同士のスキンシップだって事を強調してから、千早の手を引いてステージを後にした。 あんなに大成功した後のステージなのになんで逃げるように去らなきゃならなかったのよ? ほんとに。 でも…それから、千早は私だけじゃない。 他のみんなともどんどん打ち解けていった。 それは、とても嬉しかった。 うん。嬉しかった。 それから暫くはおかしな記者におかしな関係だ、みたいなゴシップを書かれたりもしたけど、まぁそれは取るに足らない事。 有名人の証みたいなものだしね。 そんな事よりも、ある日律子が私に話を持ちかけてきたその事が一番大切だった。 「伊織、ユニット組んでデビューしない?」 九へ Top エピローグへ |
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