Idolm@ster 小説『歌姫咲く花の園』




「どうぞ、遠慮しないで下さい」
 やよいが伊織の手を引いて言った。
「…うん」
 手を引かれた伊織は幽鬼のようにふらりとしつつ着いてくる。
 ここはやよいの家だった。
「えへ、私の家にお招きするのって初めてですね。狭くて恥ずかしいんですけど…」
 重い頭を持ち上げて周囲を見渡すと、横になって背伸びをすればもう隙間がなさそうな居間が見えた。
「…うん」
「…あはは。と、とりあえず上がって下さい」
 やよいは伊織を座布団に座らせ、大急ぎでジュースを差し出した。
「生ジュースじゃないけど、どうぞ」
「…うん」
 生返事をしたまま、ジュースを手に取ろうとも、見ようともせず、伊織は膝を抱えて踞ってしまう。
「えーと…」
「…うん」
「…伊織ちゃん」
 完全に上の空だ。
 汚れたジャージのままで捨てられた猫のように縮こまっている伊織が痛々しくて堪らなかった。

 一時間前。
「伊織ちゃん、こんな所にうずくまってちゃ駄目です。行きましょう。みんな待ってます」
 やよいはいおりの前にしゃがんで顔をのぞき込む。
「…行きたくない。私、みんなに嫌われた…。もう…駄目だわ…。嫌われちゃった…。みんなと…仲良くしたかったのに…自分で、壊した…。私…もう…もう…」
 やよいの腕にすがった伊織はさめざめと泣いていた。
「そんなことありません! みんな心配しています! 本当です! 伊織ちゃんを嫌いな人なんていません! 私が証拠です!」
 やよいが力強く伊織を抱きしめる。
「でも…でも…行きたくない。戻りたくない…。恥ずかしい…私…私…」
 まだ出会って数ヶ月だが、こんな弱々しい伊織を見るのは初めてだし、まさかこんな風に伊織が泣くなんて、想像も出来なかった。
 やよいは普段の伊織との落差に戸惑う。
 そして、それと同時に、今までは素敵、かっこいい、可愛いと、どちらかと言えばやはり壁一つ隔てた存在に思えていた伊織を、初めて自分と同じ少女に思え、愛おしさを沸き上がらせていた。
 今までが勿論好きでなかった訳ではない。
 だが、今の伊織には、自分の弟達へ感じる慈しみの念をひしひしと感じている。
 これは初めての感覚だ。
「あの、それなら、家に来ませんか?」
 やよいは思わず提案する。
「…やよいの?」
「はい! あの、ぜひ来て下さい!」
「…いいの?」
「大歓迎です!」
「うん…」
 伊織は弱々しく頷いた。
「伊織ちゃん」
 やよいは伊織を改めて抱きしめる。
「いいこいいこ」
 抱きしめたまま頭を撫でる。
 撫でられる事は好きじゃないと言っていた伊織だが、今はそれに反発する事もなく、黙って撫でられていた。
「やよいぃ…」
 それどころか、伊織もやよいを抱きかえし、離さないで、とばかりに腕に力が込められる。
「わたしはここにいますよ。ね」
「うん…うん…」
 頬をすり寄せ、ただただすがって泣く伊織。
 そんな彼女を見て少しおかしな気分になったのも否めないが、それは考えないことにしてやよいは伊織をなだめ続けた。

 それから少しの後、やよいは伊織と一緒に車に乗っていた。
 最初は電車と思ったが伊織がこのような恰好であり、そもそもこんな泣きはらした顔を見られるのは嫌だと、そこだけは普段と変わらない意地を残していたから。
「うーん、それじゃ、どうしましょう?」
「新堂を…呼んでいい?」
「え? 新堂さん? どうやってですか? やっぱりスタジオに戻ってですか?」
 やよいの問いに、伊織はイヤリングを外して言う。
「…これ、非常用の発信器」
「え?」
「パパがね、何かあったときのため、これだけは肌身離さず付けていろって、渡してくれたの」
「…は、はぁ」
「初めて使うけど…」
 伊織は琥珀色のルビーがあしらわれたプラチナの台座の裏側にあるボタンを押した。
 ルビーの裏側に仕込んであるLEDが点滅を始め、紅い石が小さな灯火のように輝く。
「わ…」
 やよいは本当に本当なんだ、と思わずため息をついた。
「…こういうの、漫画とか映画の中だけだと思ってました…」
それから十分も待たず、新堂はその場所に正確にやって来た。
「お嬢様、お待たせしました」
 意外に新堂は慌てる様子もなく、いつものように冷静に伊織を迎える。
 が、流石に汚れているのを見て一体何が? と訪ねた。
「…大丈夫。事件とかそういうのじゃないの。後で私がちゃんと言うから…今は、黙ってやよいの家に、向かってくれる?」
「お嬢様…」
 泣きはらした目。
 新堂は承知しました、と頭を下げ、車のドアを開けた。
 車が音もなく走り出し、視界が流れる。
「やよい様の家は…」
「あ、えっと、住所は…」
「いえいえ、以前、お送りした事はございますから、存じ上げております。ここからだと、四十分というところですな」
「わぁ! すごいです! ちゃんと覚えていてくれたんですね! あ、それに、伊織ちゃんのペンダント、あれって緊急用ですよね? どうしてあんなに落ちついていたんですか? 私、もしかしたらパトカーとかヘリコプターとか来ちゃうのかなって思ってちょっとドキドキしていたんです」
「そこはご心配なく。伊織様のペンダントはボタンを連打で緊急、押しっぱなしの場合は単純な呼び出しと使い分けが出来るのですよ。非常用とは言っていますが、まぁ、ポケベル代わりと思って頂ければよろしいでしょう」
「…なるほど」
 やはり自分とは色々だが、とにかく何かが決定的に違う。
 やよいは極素直に、すごいなぁ、と感心した。
 …ところで、ポケベルってなんでしたっけ? とは聞かないでおいた。
「…やよい、新堂…」
 座席に横になり、やよいに膝枕して貰っていた伊織が小さな声で言う。
「はい? どうしました?」
「すこし…ねむっていい? おねがい…」
 声は既に眠る寸前。それに、何となく伊織の頭、体も全体的に熱かった。
 よほど眠たいのだろう。
 本当に子供みたい、とやよいは微笑む。
「勿論です。子守歌でも歌いますか?」
「それは…いいわ…。ありがとう…やよい…しんど…」
 ふっと伊織の意識が途絶え、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。
「疲れちゃったんですね。とっても…」
「やよい様、今は何も聞きませんが、そのうち、伊織様にお話しして貰えるように、お願いしてもらえますかな?」
「はい、大丈夫です。伊織ちゃんは、ちゃんと全部お話してくれますから」
 やよいはすぅすぅと赤ん坊のように眠る伊織の頭を撫でながら、小さく握られた手をそっと包みこむ。
 反射的にやよいの手が握り替えされ、体温の上昇で温かくなった手から温もりが伝わる。
 涙の跡が残り、赤くなった目が痛々しい。
 どれだけ切なかったのだろう。
 どれだけ苦しかったのだろう。
 やよいは、伊織の心中を僅かでも察することが出来ればいいのに、そうすれば、自分も伊織のほんの僅かでも代わりに泣けるのに、と涙を浮かべた。
「…いおりちゃん。私、初めて伊織ちゃんとお友達になった時は、伊織ちゃんが素敵なのは分かっていましたけど、まさか、こんなに可愛いなんて、正直、思わなかったです…」
 自分の目に貯まった涙をぬぐい、やよいは伊織の頬をそっと撫でながら、初めてまともに話をしたあの日を思い出す。

「こほん。昨日は失礼しました。改めて、初めまして。水瀬伊織です。アイドル候補として、本気で、不退転の覚悟で頑張ります。どうぞ宜しくお願いします」
 印象って、こんなに変わるんだ、と私は驚きました。
 だって、伊織ちゃんと初めて会った昨日は、あんなに元気いっぱいだったから。
 まるで今までずっと一緒に居たみたいに鬼ごっこしたんですから。
 なのに、今こうして自己紹介している伊織ちゃんは、とっても大人な感じで、でもとっても可愛くって、それにとっても賢そうに見えるんです。
 うん、これこそまさしくお嬢様です!
 それなのに可愛いうさぎさんのぬいぐるみをずーっと離さないんですよ。
 こう言うのを、アンバランスな可愛さって言うんですね。
 うーん、本当にお人形さんみたい…。
 ああ、私、なんだかドキドキしちゃいます。
 お友達になりたいなぁ…。
 私、この時点で耳がお留守になっちゃっていたみたいです。
「…うーん、やっぱりこれ、かたっ苦しいわね。やめやめ! えーっと…」
 ほわほわになっていた私の耳には、伊織ちゃんの次の科白が聞こえていませんでした。
「…で、最後に、この子が高槻やよい君だ」
 はわ! いつの間にか、社長が私の名前を呼びました。
 も、もう私の番ですか?
 うう、ちょっと緊張してます…。
 初めて伊織ちゃんに会った日は、亜美ちゃんや真美ちゃん達が大騒ぎしちゃったから自己紹介をする前にその日は終わりになっちゃいました。
 で、次の日、改めて伊織ちゃんがみんなに紹介されたんです。
 は、早くご挨拶しないと!
「え、えと、初めまして! 高槻やよいです!」
「……」
「……」
 こ、言葉が続きません。
 だってだって、あのおっきな瞳で真っ直ぐこっちを見ているんですよ?
 怖くはないけど、なんだかぜんぶ見透かされているような気がして…き、緊張しちゃいますぅっ!
「えと…」
「よろしくね、高槻さん」
 そんな私に伊織ちゃんがにっこりと微笑んでくれました。
「は、はい! どうぞ宜しくお願いします!」
 普通の挨拶だったと思うけど、私、嬉しかったです。
 思いっきり元気にお辞儀しました。
 見えなかったけど、それを見た伊織ちゃんはちょっとびっくりしていたらしいです。
 ? 何かおかしかったのかな?
「……」
 そして、顔を上げると伊織ちゃんは何かうーん、と考えていました。
「あの、どうしました?」
「…うん、貴女のこと、なんて呼べばいいのかしらって」
 わ。
 私は伊織ちゃんって呼ぼうと思っていたけど、伊織ちゃんはどんな風に呼びたいんだろう?
 もしかして、やよいさん、とか呼ばれたりして。
 わわ、なんだか伊織ちゃんにそう呼ばれたりすると、ちょっと気持ちがセレブかも。
 そうしたら、私も伊織さん、の方がいいのかな?
 わ、わ、なんかドキドキ。
「やっぱ、やよいでいいわね」
「え?」
「え? じゃないわよ。あんたはやよい。名前だからそれで充分よ」
「え?」
 私、思わずぽかんとしちゃいました。
 あれ? お嬢様は何処? あんたって言われました? あれ? あれれ?
「あはは、やよいっちぽかーんだぽかーん」
 亜美が大笑いしてます。
「やよいっち、もしかしていおりんの挨拶の続き、聞いてなかった?」
 真美が私の顔をのぞき込んでにやにやしています。
「え? え? どど、どんな風? わ、私、ちょっと緊張してて…」
「んっふっふっ〜。いおりん、昨日の大騒ぎで素はばれているからって、もう猫かぶるのはやめにしたんだよ」
「猫って失礼ね。私は素でも充分お嬢様なの。必要以上に形式ばるのが嫌いなだけよ」
「…は、はぁ」
 あれ? おかしいですね。今私の目の前にいるのは伊織ちゃんですけど、なんだかさっきまで私が想像していた伊織ちゃんとは随分違いますよ? あれ−?
 で、聞き逃していた部分までちょっと巻き戻すと…。

「…えーっと、社交辞令はこれくらいにしておきましょ。ま、どうせ昨日の騒ぎで色々もくろみは崩れちゃったみたいだから、あんた達相手には素でいかせてもらうわ。光栄に思うといいわよ。私が素を見せるのは、私が自分を見せてもいいって認めた相手だけなんだですからね。これから、よろしく頼むわよ!」

 …だそうです。
 わぁ。
「やよい、ぽかーんとしてないで、はい、握手。よろしくね。にひひっ」
 そんな私に、伊織ちゃんがにっこり笑って手をさしのべてくれました。
「は、はい! よ、よろしくお願いします」
 なんだか意外な笑い方。でも、とっても可愛らしくて、悪戯っぽくて…とにかく、不思議と、すっごく似合っていました。
 きゅっと握った伊織ちゃんの手は、やっぱり柔らかくって、ほんの少しひんやりしてて、それなのに、なぜかほわーって、暖かい気がしました。
 周りのみんなも、まるでずっとお友達だったみたいに伊織ちゃんとお話しています。
「それで、でこちゃんはおにぎり好き?」
「でこちゃんはやめなさいって言ってるでしょ!」
「だってでこちゃんはでこちゃんだもーん」
「だからひっつくなー! おでこぺちぺちするなー! なんでそんな栄養が胸に偏ってんのよ!」
「? んーと、おにぎり、かな?」
「……。…ホント?」
「さぁ?」
「いいかげんなこと言わないでよっ!」
 うん。
 確かに、こっちの伊織ちゃんの方がいいと思います。
 私、とっても嬉しくなりました!
 …んですけど。
 それから二十五日間。
 覚えてます。
 二十五日間と、その日の夕方まで、伊織ちゃんと話さないまま時間が過ぎちゃいました。
 会ったときに挨拶くらいはしましたよ。
 でも、それ以上の会話が無いんです。
 避けられている。
 そんな気はしなかったんですけど、何て言うか、空気扱い、みたいな?

 居たのね。

 そんな感じに見られていたと思いました。
 うう…正直、あの時はちょっとへこんでました。
 だってだって、せっかく新しいお友達が出来ると思っていたのに、なんだか拒絶されていたような気がしちゃって…。
 やっぱり、伊織ちゃんはものすごいお金持ちのお嬢様だから、私みたいに貧乏だと、お話とか色々話が合わないんでしょうか? 貧乏菌が移ったら嫌とか…。
 ああ。
 この時の私、ものすごい卑屈になってました。
 普段は別にクラスメイトとかと、そう言う話が出ても受け流せるのに…。
 どうして?
 自分が、そして伊織ちゃんの事も分からなかったです。
 あの日も…。

 伊織ちゃんと自己紹介してから十三日後でした。
「小鳥さん、お掃除終わりました−!」
 ある日のお昼過ぎ。
 事務所に来た私は落ち葉がたくさん事務所の前に溜まっていたのを見て、小鳥さんに断ってお掃除していました。
 その日は朝からどんよりして風も吹いていたから、いつ雨が降り出してもおかしくないお天気です。
 私、家の排水溝にもゴミが溜まって下水が逆流しちゃった事があるから、そうなったら事務所が大変だと思って、事務所の前を掃除していたんです。
 後で、流石にビルでそれはないって聞いて、ちょっと恥ずかしかったですけど…。
 でも、お陰でたるき屋さんのおじさんにお菓子もらえたので嬉しかったです!
「あら、ご苦労様。雨が降ってきたけど大丈夫だった?」
「はい! ちょっとぽつぽつ降ってきたから大急ぎでお掃除しました! 雨が降っちゃうと落ち葉が排水溝に溜まって困っちゃいますから、雨が降る前に掃き掃除が終わってよかったです!」
「どうもありがとね、やよいちゃん。ココア飲む?」
「わーい!」
 小鳥さんがとっておきよ、とウインクして、ばんほーでんっていう何だか難しい名前のココアを煎れてくれました。
 ばんほーでん、美味しいです!
 私はあったかいココアでほわーっと気持ちよくなってました。
「あ、小鳥さん、ものすごい雨が降ってきました。やっぱり予報当たりましたねー」
「うん、すごいねー。レッスンも入ってないし、これじゃ今日は誰も来ないかしら?」
「お仕事表、まっしろですねー…」
 壁のホワイトボードにはレッスンの予定は書かれていますがそれ以外の予定は特に書かれていません。人ごとじゃないのに、呑気にそんな事言っちゃいました。
「あはは…ま、まだまだこれからよ! これから!」
 小鳥さんが顔を引きつらせています。
 ごめんなさい。私も頑張らないといけません。
「でも、やよいちゃんも今日がこんな天気なんだから無理に来なくても良かったのに」
「えへへ。実はお友達と遊びに行くところだったんですけど、急に用事が出来ちゃったみたいで、それで暇になったから来ちゃったんです」
「あら、そうだったの。うふ。こっちはお仕事だけじゃなく、遊びに来て貰うのも、勿論オッケーだからね。こうしてお話相手も出来るし」
「はい、ありがとうございます!」
 その時、窓の外で遠かった雨音が突然大きくなりました。
 事務所の玄関の方からです。
「あら…今日もかしら?」
「え?」
「あ、ううん。何でもないわ」
 小鳥さんはぷるぷると手を振りますが、私は気になったので入り口に通じる通路の方へ振り向きました。
 少しすると、意外な人が現れます。
「え? 伊織ちゃん!?」
「! あら、いたの」
 そう言って現れたのは、ずぶ濡れびしょびしょの伊織ちゃん。
 私が居たのが驚いたみたいに見えます。
「ど、どうしたんですか? そんなにびしょ濡れで! 風邪引いちゃいます!」
「…これくらいで風邪なんて引かないわよ。気にしないで」
 そう言って伊織ちゃんは奥へ行ってしまいました。
「あの、小鳥さん、伊織ちゃんが…」
「あ、えっと、あの、多分、大丈夫よ」
 小鳥さんがなんだか歯切れの悪い感じです。
 あんな格好を見たのになんにもしようとしないのもおかしいと思います。
「伊織ちゃん…」
 やっぱり、私は気になります。
 伊織ちゃんを追いかけて行くと、伊織ちゃんはロッカールームに備え付けのバスタオルをかぶってじっとしてました。
「あの…」
 何となく、恐る恐る声をかけると、伊織ちゃんが億劫そうに視線を向けてきました。
「…何」
 その瞳はどこか気怠げです。
「いえ、あの、えっと…どうしたんですか?」
「どうもしないわ。気にしないでって言ったでしょ」
 きつい言い方じゃないんですけど、どこか突き放す様な言い方。
「用がないなら、一人にしてもらえるかしら?」
 …やっぱり私、好かれてないのかな。
「すいません、行きますね…」
「…ええ」
 私はそのまま小鳥さんのいる事務所ロビーに戻ります。
「どうだった?」
「いえ、何でも…。気にしないでって…」
「そう」
 小鳥さんは困ったような顔で笑い、そっとしておきましょう、と言ってくれました。
「はい」
 でも、何だか胸が締め付けられる気がします。
 残していたココアを飲みました。
「……」
 さっきまであんなに甘くて温かかったばんほーでんのココアなのに、何故かほろ苦い気がしました。
 その後、ぼーっとしてるといつの間にか雨も弱まってきました。
 遠くには青空が見え始めているのに、私、なんだかどんよりしちゃってます。
 その時、静かな車の音が聞こえます。
 新堂さんがやってきました。
 このおじさんは、伊織ちゃんの送り迎えをしてくれる人です。
 送り迎えをしてくれる人なんてすごくって最初は緊張したけど、私も新堂さんとは少しお話し出来るようになりました。
「こんにちは。伊織お嬢様は?」
「あ、はい。あっちですよ」
 小鳥さんが指さします。
「分かりました」
 なんだか、いつもの、みたいなやり取りです。
「……」
 私は何となく新堂さんの背中を見送りました。
 それから少しの後。
 伊織ちゃんは新堂さんにだっこされて戻ってきました。
 あれ? 伊織ちゃん?
「…新堂さん、あの…」
 私は思わず問いかけました。
「お嬢様はお休みです。申し訳ありませんが、お静かに」
「え?」
 確かに伊織ちゃんは眠っていました。顔が赤いです。
「具合…悪かったんですか?」
「ええ。ですが、どうしても事務所に行きたい、と」
「…どうして?」
「すいませんが、それはまたの機会に」
「やよいちゃん、今はそっとしておいてあげましょう」
「…小鳥さん」
 一体、どうして?
 …私の、知らないことがあるみたいです。
 なんだかもやもやは晴れません。
 その日、私は一日中ぼーっとして過ごしました。

 それからまた日にちが過ぎて二十五日後でした。
 その日もお天気が悪くて、他に誰も来なくて、小鳥さんも今日は帰ったらって言ってくれたんですけど、何故か帰る気になれなくて、でもロビーにただ居るのも邪魔かもって思って、何となく本でも読もうかなって、いろんな本が資料として置いてある倉庫に行ったんです。
 でも、全然本を読む気になれなくて、私は、パイプ椅子に座ってぼーっとしてました。
 伊織ちゃん…。
 どうして伊織ちゃんが相手してくれないと、こんな気持ちになるんですか?
 切ないです。
 雨の日のあの伊織ちゃんが気になって仕方ありません。
 小鳥さんも何か知っているみたいなのに、それについては何故か教えてくれません。
 あの時の伊織ちゃんの笑顔。
 あの時の笑顔を、また私に見せて欲しいんです。
 あの時の伊織ちゃんの微笑み、語りかけてきてくれた口調は、私の家がどうとか伊織ちゃんの家がどうとか、そんな事を欠片も気にしていない、伊織ちゃんの本当の、素の微笑みだったと、私は思っているんです。
 私…伊織ちゃんと仲良くなりたい。
 伊織ちゃんとお話ししたい。
 伊織ちゃんともっともっと…。
 いつの間にか、うとうとしていました。
 その時、なんだか奥から音が聞こえた気がしてぼんやり意識が戻ります。
 と、いきなり、本棚の上から突然おっきな本が落ちてきました。
 叫ぶ間もなく咄嗟に手で避けたんですが、一冊が頭に当たっちゃいます。
「いったぁっ!」
 私はここでやっと叫びました。
 その時。
「えっ!?」
「えっ!?」
 本棚の向こうからびっくりする声が聞こえて、私もオウム返しみたいに声が出ました。
 だって、誰かが居るなんて思わなくて。
「や、やよい!?」
 本棚の向こうから現れたのは伊織ちゃんでした。
 いつもの洋服じゃなくて、レッスンの時に着るジャージ姿です。
「な、何で居るのよ!?」
「え、えっと…何でって言われても…」
 そんなに私の事嫌ですか?
 思わず卑屈になりかけた時。
「あ…。やよい…今、頭に?」
「…はい」
 気まずい沈黙です。
「…う…」
「い、伊織ちゃん?」
 またびっくりしました。
 伊織ちゃんが、突然ぽろぽろ泣き始めたんです。
「…ごめんなさい…。私…また迷惑かけた…。私…こんな事もまともにできない…」
「え? え? あ、あの、伊織ちゃひゃわにゅっ!?」
 伊織ちゃんが私を胸に抱き寄せてぎゅーってしたまま泣いてます。
 こ、行動が予測出来ません。
 私、ちょっとパニックです。
「ごめんね…痛かったでしょ? ごめんなさい…。私…私…ごめんなさい…」
「あ、ああああの、えっと、い、痛くないです! へーきの平助です! 私、石頭です! 本がぶつかったくらい何ともないですから! だ、だから…あの、えっと…」
 ああ、頭が回りません。
 伊織ちゃんの行動が予測不可能なのと伊織ちゃんが柔らかいのと伊織ちゃんがいい香りなのとがごっちゃごちゃです。
 でも…。
 なんだか、私の心の中のもやもやが、すぅっと薄らいだ気がしました。
 だって、伊織ちゃんがこんなに私の為に泣いてくれているんですから。
 私、嫌われてないんだ。
 何が起きているのか、何だか分かりませんけど、それだけは、間違いなく分かりました。
 伊織ちゃんをそっと抱きかえして、伊織ちゃんが落ち着くのをとりあえず待つことにします。
 全然抵抗無いです。
 えへへ…。
 これはあれです。役得です。
 はい。役得です。

「まぁ、そのうちばれるとは思っていたけどねー」
 伊織ちゃんが落ち着いてからロビーに移動すると、小鳥さんがにこにこ顔で待っててくれました。
 まぁ、聞こえてましたよね。
「…ばれると、思ってなかったわ」
 ソファーに座ってうさちゃんをぎゅーって抱きしめながら伊織ちゃん、真っ赤です。
「えーと、それじゃあ、伊織ちゃんって、こうやって事務所に誰も居ない日を狙って、お片付けとか事務整理をしていたんですか?」
「そう。私にばれるのは仕方ないとして、他のみんなには絶対ばれないようにって、私も口止めされてたの。ねー? 伊織ちゃん」
「……」
 あ、伊織ちゃんがあっち向きながらクッションに顔を埋めて、ソファーに突っ伏してます。
 こっち向いているおしり、かわいいですねー。
 何となくなでなでしちゃいました。
 伊織ちゃんもちょっとぴくりとしましたが、抵抗ありません。
 えへへ。嬉しいからもっとなでなでです。
「…やーめーてー…」
 弱々しく、勘弁して、と伊織ちゃんが懇願してます。
「だって、伊織ちゃんがかわいくって」
「うう…。なんだかどんどんダメダメになっていくぅ…」
 伊織ちゃん、こんな筈では、とにゃーにゃー鳴いてますが、違いますよ。
 逆です。
 私にとっては、伊織ちゃんがますますどんどん素敵に思えてきています。
「伊織ちゃん。とってもとっても偉いです。はい」
「…こういう行動は、見られたら偽善なのよぉ…」
 自分なりの美学があるみたいです。立派ですね。
「えへへ。私はそうは思いませんよ。ね、小鳥さん」
「ええ、私は最初っから全部知っているからもちろんだけど」
 小鳥さんがにっこり笑っています。
「……」
 伊織ちゃんがクッションの隙間からこっちをちらりと見ています。
 真っ赤なお顔が可愛いです。
 ああ、本当に良かった。
 私、嫌われていませんでした。
 伊織ちゃんは、オーディションじゃない方法で入った自分に引けを感じていたんです。
 そんな事、気にしなくてもいいのに、伊織ちゃんは真面目さんなんです。
 みんなに申し訳ないって、ずっとずっと思っていたんです。
 だけど、みんなの前でみんなの為に何かをやるのはどうしても出来無くって、それで、みんながやらないような事をこっそりやって、少しでも自分がここに居てもいいんだって、小さな小さな自信にしたかったんです。
「…だって、みんなと仲良くしたかったから…」
「私は、仲良しになりたいです。伊織ちゃんと、もっともっと仲良しになりたいです! 伊織ちゃんが大好きです!」
「…やよい…」
 伊織ちゃんが大きな瞳をうるうるさせて私を見つめています。
「伊織ちゃん、私達、お友達です! 楽しいことも困ったことも、相談でもなんでも言って下さい! 私も、伊織ちゃんに隠し事はしませんから。だから、ね?」
「…うん」
 伊織ちゃんが私の手を握り、そしてそのままぎゅーってしてくれます。
 私もぎゅーってお返しです。
 伊織ちゃん、今日から本当にお友達…。いいえ、親友になれましたね!
 心のもやもや、ぜーんぶスッキリです! 心が快晴です! 日本晴れです!
 小鳥さんが指をくわえてなんだかこっちをじーっと見ているのが気になりましたけど。

 あの日から、私達、親友です。
 でも、こんな伊織ちゃんを見る日が来るなんて思ってませんでした。
 伊織ちゃん、伊織ちゃんは、こんなにいい子なんです。
 誰も嫌ってませんよ。
 外はこんなに晴れているのに。
 私は今までに感じたことのない複雑な気分で車の窓から青空を眺めました。
 伊織ちゃん。元気を、取り戻して下さい。
 私、伊織ちゃんと千早さんのステージを見たいです。
 伊織ちゃんの頭を撫でながら、私は心の底から願いました。



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