Idolm@ster 小説『歌姫咲く花の園』




「ああ、こんなポスターあったのね…」
 私は病院の件があったその日、事務所に戻ってから小鳥に話を聞いてポス ターを見せてもらった。
 そう言えばポスター作るって言っていたんだわ。
 あれ? でも、写真撮ってないけど?
「前までに撮っていたスチールからいいものを選んで作ったのよ」
 小鳥が頑張ったのよ、と胸を張る。
 なる程。そう言えば、定期的にいろんな写真撮ってたわね。
「て言うか、出来たんなら完成品見せて欲しかったわ。これ、一応私の初ポス ターになるのよ?」
 対して私はちょっとだけ不機嫌。
 非難する気は無いけど、その気持ちは分かって欲しいわ。
「うん、ごめんね。ライブの話が急だったから、一日でも早く貼り出してお客 さんに周知しておいた方がいいって事になって、印刷所から直で持っていって 貼っちゃったの。他にも刷るのが残っているから」
「まぁ、伊織ちゃんの写真なら何を使ってもショットは完璧だからいいけど…」
 なる程。
 これがちょうちょの正体な訳ね。
 ポスターは私がポーズを取ったものに花畑を合成したもの。
 そして、花びらが私の背中でちょうちょの羽に見えるように作られていた。
 ちょっと子供っぽい構成だけど、コケティッシュな感じがなかなかいいわね。
 ふと私は、病院前で会った男の子の事を思い出す。
「ちょうちょさん、か」
 正直、さっきまでは病院でコンサートデビューって言うのに抵抗は残っていた。
 でも、あの男の子の笑顔を見て、その考えが本当に変わった。
 自惚れでなければ、あの時の男の子の笑顔は本当に心から嬉しそうな笑顔。
 それは、私に向けられた笑顔だった。

『君の素敵な歌声で元気にしてあげる事が出来たら、それこそアイドル冥利に 尽きると思わないかね?』

 おじさまの言葉が頭に浮かぶ。
 …歌って踊れるナイチンゲールっていうのも、いいかも知れないわね。
「そう言えば、貼ったって誰が? 業者?」
「ウチ、そこまで余裕無いわ。枚数もそんなにある訳じゃないしね。ポスター だって、社長の知り合いの印刷屋さんにお願い出来たから、こうしてロット以 下の枚数を特別に刷ってもらえているのよ。ほら、今までにライブした子のポ スターもみんなそうよ」
「あー、なる程ね」
「ロット以上が刷れるようになったら、その時はよろしくねって事でね」
 ま、そうよね、病院の多目的ホールでやるコンサートなんだからそんな枚数 多い訳無いわよね。
「じゃあ誰が?」
「実は社長」
「はぁっ!? 高木のおじさまがぁ!?」
 しゃ、社長が直々にポスター貼りに行くって、どれだけフットワーク軽いのよ?
「今回の事は大急ぎだし、社長も気合が入っていたみたいだから、ついでに何 か名刺交換出来ればいいなって感じでそうする事にしたみたい。ホント、ウチ の社長ってお年の割に軽快よね。ちょっとびっくりしちゃうわ」
 ちょっとどころか相当びっくりだわ。
「あと健康診断の結果を聞きに行く予定もあったみたい」
「…どっちかって言うと、ついで?」
「違う違う、メインは伊織ちゃんよ、もちろん」
「なら、いいんだけど…」
 ま、いいわ。変に気張られてもこっちが困っちゃうしね。
 それに、実際に社長直々の作業って言うのは本当なんだから。
 やっぱり、頑張ろう。うん。高木のおじさま、感謝してます。
「わたくしも、お手伝いしましたよ」
「わぁっ!?」
 突然背中から声がした。
 驚いて飛び上がる。
 小鳥にしがみつきながら振り返ると、そこには貴音が立っていた。
 し、心臓に悪いわよ! あんた、神出鬼没なの!
「そ、そうなの? 何で?」
「応援したいからです。それだけですよ。わたくしは」
「あ、ありがと」
 そう言って微笑んだ貴音。ありがたいけど…もうちょっと優しく微笑んでく れない? いまいち愛想が…。人の事言えないんだろうけど。
「伊織、自分を信じて。貴女は一人じゃありません」
「わ、分かったわ」
 信じたい…けど…。
「伊織ちゃん、私も応援しているからね!」
 そんな思いを感じたのか、小鳥がガッツポーズをとって言ってくれる。
 この子、こういう時のフォローは上手よね。何て言うのか、こんな時のアイ ドルの気持ちを分かっている気がする。
 やっぱり小鳥って昔なにかしていたのかしら?
「ん、そうね。ありがとう」
 なんにせよ、事務所の社長が、他の子までわざわざ走り回ってくれている。
 それをむげには出来ないわ。
 そこまで思って、私はふと思った。
 ポスター…。
「小鳥」
「なぁに?」
「あのね、ポスターって…余ってる?」
「あ、うん。あるわよ」
 何? そのにこにこ顔は。
「…えっと、一枚、もらえる? 一応、パパにちゃんとやってますって…」
 事務所に来て以来、まだパパにはそれらしい事をしたっていう報告は一つも 出来ていない。
 まだデビュー前だけど、それでも、これは初めての私のポスター。
 これを、パパへの初めての報告にしてもいい、わよね?
「いいけど、もう伊織ちゃんの家にはあるはずよ」
「え!?」
「社長が、刷り上がったその日に直接、伊織ちゃんの家に持って行ったから」
「…はい!?」
 し、知らない! そんな話、知らないわよ私!
 パパだって、別になんにも言ってくれてないわよ!?
「きっとこっそり喜んでくれているんじゃないの? 案外書斎とかにどーんと 貼ってあったりして?」
 ちょっとパニクってた私を見て、小鳥が言ってくれた。
「そ、そうなの? だ、だってパパは私の事そんなに…。第一、まだ全然…私 は…。そ、それに書斎にあのポスターって、似合わないわよ! 絶対! パ パ、そんな事しないわよ!」
 もしそうなら、本当は嬉しい。けど、でも…。
「男親ってそういうものよ。社長、水瀬さんに会った次の日、上機嫌で二日酔 いだったから。伊織ちゃんは知らなかった?」
「…そ、そう言えば…」
 そう言えば、確かにこの前珍しく朝、頭が痛そうにしていたパパを見たよう な…。
「うわ…」
 なんだか急に恥ずかしくなってきた。
 パパ、もしかして本当に私の事応援してくれている?
 私、これからも頑張っていいの?
「……」
 どうしよう、なんだかほっぺが熱くなってきちゃったわ。
「ふふ。頑張ろう。伊織ちゃんは、頑張っていいんだからね?」
 小鳥が珍しくちゃんと年上らしく見えた。ほんとに珍しいけど。
「…うん」
 私は何となく素直にうなずけた。
 小鳥、今日は特別に成城で買ってきたストレートジュースおごってあげるわ。
 あ、貴音にもね。
「ありがたく頂きます」
「…もうちょっと砕けていいのよ?」
「わたくしは、これが素ですから」
 貴音が微笑む。
 ああ、素敵な微笑み。
 私はそう思った。

 その日の午後、ボイスレッスンスタジオに向かう途中、千早に会った。
 げ。
 あの時私、多分相当嫌な顔をしていたんだろうな。
 今考えればちゃんと話をしていれば良かったんだけど…ごめんね、千早。
「…あの、水瀬さん」
 おそるおそる声をかけてくる千早。
 今思うと、千早だって不安を抱えていたんだわ。
「何」
 対して私は、反射的につっけんどんにしてしまった。
 ああ、心の余裕がないって怖い。
「レッスンの事なんだけど…」
「だから何。これからそのレッスンで急いでいるの」
「…私もこれからレッスンだから」
「え?」
 あ、そうだ。
 忘れてたって言うか、考えないようにしていたんだわ。
 今日は千早も一緒だったのよ。
 ボイスレッスンは二人まで一緒に出来る。
 時期が近いから少しでも多くレッスンしたくて、千早と重なるって分かって いたけど、予約しちゃったんだったわ。
「なら、行きましょ。先生が待っているわ」
「え、ええ」
 ちょっとだけ安堵の表情を見せた気がする。
 あんたでも緊張なんてするのね。
 その後、私たちは一言も話さずじまい。
 ボイスレッスンの内容もなんだかぱっとしなかった。
「水瀬さん」
 帰り道、事務所にもうすぐ着くところで千早が話しかけてきた。
「何?」
 振り向いた先にあったのは思い詰めた顔。
「…ライブ、気をつけて」
 一生懸命言葉を選んでの事だったと思う。
 でも。
「普通、頑張ってとか言わない?」
「あ、ごめんなさい…」
 しまった、という顔の千早を見て、私は何となく心のどこかが溶けた気がした。
「あの、みんな、応援しているから…」
「ありがと」
「え?」
 不安な子猫みたいな顔をしていた千早がはっと顔を上げた。
「さっさと帰りましょ。夜道は危険よ。ほらほら」
「あ…」
 私は、千早の手を取っていた。
 自然に、そう出来た。

 …この時は、まさかああなるとは思ってなかったのよね。

 あ、そう言えばその日家に帰って書斎を見てみたんだけど…あったわ。
 本当に。
 ポスターが。
 しかも携帯の待ち受けにしてるってお兄様がにやにやしながら教えてくれた。
 それもびっくりだけど、お兄様があんな顔をしたのにも驚いたわ。
 で、それを聞いたら、パパは素っ気なく、ちょっとな、みたいにしか言わな かったけど…。
 パパ、ありがとう。
 私、頑張るわ。
 私の待ち受けと着メロで携帯のメモリーいっぱいにしてあげるわね!

 それからあっという間に二週間が過ぎ、当日になった。
 いよいよ私のデビューの日が来たのね!
 テレビデビュー前の前哨戦みたいなものだけど、それでも人前で歌うのはこ れが最初!
 伊織、頑張るわ!
 …なんだけ、ど。
「……」
「伊織ちゃん、どうしたんですか?」
 ライブ当日。
 特に仕掛けがある訳でもないし時間貸しだから、当日になって初めて歌うス テージに立った私は…少しだけ、ちょっとだけ、正直…かなり焦った。
 付き添いで来てくれたやよいも、声がどことなくうわずっている。
「うん、実は病院のライブと思って正直、ちょっと高をくくっていたんだけど…」
 私は周囲を見渡して呟く。
「そうですよねー! すっごくおっきいですよね。しかも会議室とかじゃなく て、ちゃーんと控え室もあるんですから! 私もこんなところで歌ってみたい です?! あ、でも、怖いかも…」
 そう言えば、あんたは老人ホームでこの前歌ったんだったわね。
「おばあちゃん達、み?んな優しくってほかほかしちゃいました! お菓子も 貰ったんですよ!」
 あんたはそういう人達の受けが特に良さそうだわ。いい事よ、やよい。
「はい! でも、いつかはこういう所でも歌いたいです! すごいですよね?!」
 そうなのよ。
 すごいのよ。
 お世辞じゃなくてすごいのよ。
 ここの病院、開けてみたら実は地域屈指の大病院だった。
 て言うか、本当に正確に言うと、病院に付属しているだけで、普通のホール だったのよ。ここは。
 私も最初は演歌歌手のドサ周りみたいな感じで、ちょっと大きなロビーの一 角で木箱の上に乗って、とかくらいの覚悟だったんだけど…。
 でも実は、多目的ホールどころかしっかりしたコンサートホールが併設され ているとんでもない病院だった。
 残念ながらと言うか幸いと言うか、私のライブは一番大きい第一ホールじゃ なくって、収容人数が百人程度、ミニシアター程度の大きさの第三ホールだっ たんだけど…ホールだけで第五まであるって言うだけでもう…。
「うう…」
「伊織ちゃん、緊張してます?」
「べ、別に…。私が緊張なんて…」
 ああ、どうしよう…。
 心臓壊れそう。
 AEDちゃんとあるわよね、病院なんだから。
 いや使わないわよ。
「…緊張、してます?」
 やよいが顔をのぞき込んできた。
「…別に…」
 えっと。
「してます?」
「…うん」
「大丈夫ですよ! みんな見てます! 安心して下さい!」
「そ、そうね、みん…え?」
「はい」
「みんなぁ!?」
「そうですよ。みんな来てますよ」
 聞いてないわよ! 聞いてない!
「ちょ、ちょっと待ってよ! やよい、みんなって、みんな?」
 私は思わずやよいの両肩を握りしめて問い詰める。
「そ、そうですよ。小鳥さんも来てますから、今日は事務所からっぽです」
「なんでぇ!? 今までのライブ、そんな事しなかったじゃないの! それぞ れの度胸試しみたいなもんなんでしょ? このライブ」
 なんか、ここの事務所、情報伝達が偏ってない? 私の仕事なのに、私の知 らない事が多すぎない?
「テストケースだよ、伊織君」
「し、社長!」
 そこへ突然社長が現れた。嘘!? 社長まで来てるの?
「テ、テストって何のですか!?」
「今日のステージが、普段のライブのものより少々大きい事は分かっているね?」
「は、はい」
 今知ったばっかりだけど。少々じゃないと思うけど。
「実は今日のライブにはテレビ局の人も来ている。ウチもそろそろ本格的に動 き出すので、どのような人材がいるのか、見て欲しいと言う事で来て貰ったん だ。まぁ、これからこういう子達がお世話になるから、顔を覚えて貰おうとい う事だよ。テレビデビューが全てではない。みんな実質的なデビューはしてい るが、やはりテレビの影響は無視出来ないからね。それだけ大事なステージと いう事だよ」
「…え」
 うそ。
 私は背筋が凍る思いだった。
「今まで、水瀬君を除いたみんなが一通り何らかの形で歌を人前で披露し、歌 以外のステージを経験した者もいる。おかげで少しずつみんなと事務所の知名 度が広まってきた」
「はい」
「つまり、君は、取りなんだよ。今回の顔見せプランの大取なんだ」
「おおとり…。わ、私が?」
「期待しているよ。君の成功がプランの締めを飾る事になる。ひいては、765 プロの将来もね」
 …うそぉ。
 私は頭が真っ白になった。
 待ってください! 言いたくないけど…私、言いたくないけど、言っちゃい ますけど、こう見えて意外にへたれですよ?
 肝心な所で怖じ気づく事、ありますよ?
 実を言うと、今だってうさちゃんだっこしてないから相当精神が不安なんで すけど?
 ライナスの毛布状態なんですよ? 中学生なのに!
「…お、おじさま! あの、こういう事言うのは、おかしいかも知れませんけど…」
 ものを言う時には自分が聞く側と思って話せ。
 そうパパに言われているけど、この時は思わず考えた事をそのまま言ってし まった。
「そ、そういう大事なステージって、あの、あずさとか、律子とか…ち、千早 とか、上手い子がやるべきじゃ…?」
「おや、伊織君は自分が下手だと思っていたのかね? それで今日のステージ に上がる気だったのかな?」
 おじさまが値踏みするような目で尋ねる。
「お、思ってません! でで、でも、その、わ、私、今日が初めてなんです よ? 下手な事をして、テレビ局の人の心象が悪くなったら…迷惑を…」
「では今からでも、あずさ君に変わって貰おうか? 彼女はああ見えて本番に は強いからね」
 思わず反射的にはい、といいかけたその時、病院前で出会った男の子の顔を 思い出す。
 私に会いたくなって、病院を抜け出してきてくれた。
 私を見て、ちょうちょさんと言って微笑んでくれた。
 私は…。
「嫌です!」
 あ。
 言っちゃった…。
 そして、そんな私を見ておじさまはにっこりと笑った。
「そう言うと分かっていたよ」
「……」
「君の実力、これからの成長には心から期待している。お世辞でも、君が水瀬 の子供だからでもない。私の心に、君という人材が、その才能の鱗片がピンと 来たからだ。だから、この大舞台を任せようと思った。私は、君がそう言って くれると分かっていたよ。その度胸も含めて、君を買っている」
「おじさま…」
「さぁ、これから開場だ。そろそろ控え室に戻って、最後の準備を始めたま え。ロビーは人でいっぱいだ。存分に歌って、君のデビューを飾りたまえ。今 日来た人は、みんな君を見に来てくれたのだからね」
「は、はい!」
「いおりちゃん、頑張って! 私も袖で応援してます! そのちょうちょの羽 根もすっごくかわいいです!」
「やよい、ありがと。ええ、頑張るわ! 伊織ちゃんの初デビューを見られる 幸福な人達の為にもね! にひひっ♪」
 衣装良し!
 アクセサリー良し!
 お化粧ばっちり!
 さぁ、後はステージに出るだけ! なんだけど…。
 準備が整えば整う程、私の胸の中に渦巻いていた何かがむくむくと大きく なっていく。
 控え室からステージへ続く暗い廊下に入った途端、それは水みたいに手足に まとわり付いて、私の動きを押さえつける。
 …ひいき、されてない?
 初めてのステージなのに、規模が大きすぎない?
 本当に、自分の実力であがるステージなの?
 不安が重い。
 視線の先に、もうステージの明かりが見えている。
 足取りも重くなってきた。
 私は、このステージに立っていいの?
「伊織ちゃん!」
 思わず飛び上がりそうになる。
 やよいが追いかけてきてくれた。
「やよい…」
 思わず私はやよいの手を握った。
「どうしよう…こわい…」
 ステージに上がるのが怖い。
 上がる資格があるのか分からない。
 みんながあれだけ応援してくれたのに。
「伊織ちゃん。私は、伊織ちゃんの歌を聴きたいです。伊織ちゃんの歌が大好 きです。伊織ちゃんの笑顔が大好きです」
 やよいが、両手で私の手を握り替えし、そして真っ直ぐに見つめてそう言っ てくれた。
「やよい…」
「伊織ちゃんが歌いたいように歌ってください。私は、伊織ちゃんが楽しく 歌っているのを見るの、大好きです!」
「歌って、いいのかな?」
「もちろんです! あ、それと、勝手にごめんなさい。うさちゃん持って来た んです。伊織ちゃんが落ち着くかと思って」
「え? うさちゃんを?」
 やよいはバッグの中からうさちゃんを取り出す。
 ああ、うさちゃんだ。
 でも、私は手を出す事をとまどった。
 今日は自分だけで歌おうと思っていた。だから、うさちゃんは事務所に置い てきていたのに。ここで手を出したら…。
「…やっぱり余計でしたか? 亜美ちゃんや真美ちゃん達みんなと相談して、 やっぱり持って行った方がって思ったんですけど…」
 やよいの声が沈む。
 みんな、こんなに私を心配してくれているんだ。
 なのに、私は勝手に一人で何でもって思っちゃっていた。

「伊織、自分を信じて。貴女は一人じゃありません」
「あの、みんな、応援しているから…」

 二人の言葉が頭の中で響いた。
「…ありがとう」
 私はうさちゃんを持ったやよいごと思いっきり抱きしめた。
「えへへ、伊織ちゃん、元気になってくれました」
「ええ、すっかり元気よ! くよくよ考えるなんて、この伊織ちゃんには似合 わないわ! やよい、ありがとう」
「はい! 伊織ちゃん、頑張って!」
 やよいは満面の笑みで右手を挙げた。
 ええ、分かっているわ。
「ハイ! ターッチ!」
 私とやよいはパチン、と気持ちのいい音で手を合わせた。
 元気、もらっちゃったわ!
 音楽が鳴り始めた。
 準備はオッケー!
 私は一気に駆けだし、薄暗い袖からステージに飛び出した。
「はじめましてー! 水瀬伊織でーす!」
 拍手が沸いた。
 心臓が高鳴るけど、さっきまでの不安な鼓動じゃない。
 新しい私が生まれる。
 そんな、心地よい心臓の高鳴り。
 暗い所からライトの下へ出て、少しの間目がくらんだ。
 でも、拍手と声援をたよりにみんなに愛想を振りまく。
 目が慣れた頃、観客の姿がはっきりと見えてきた。
 満員だわ!
 それに、客席の後ろにみんながいた。
 千早も、何となく笑って見える。
 それに、一番前の席に、見た事のある男の子がいた。
 私は男の子にウィンク。
 男の子の顔がぱぁっと明るくなった。
 すぅ、と一呼吸。
「今日は、私の初のライブに来て下さってありがとうございます! お客様の 前で歌うのは、本当に今日が初めてです。とっても緊張しちゃってます!」
 もう一度拍手が沸いた。
 がんばれって、言ってくれているのが分かる。
「ありがとうございます! 私、今ここに立てる事が、本当に、心の底から幸 せです! ですから、この幸せを、歌に込めます! 皆さんが、これから歌う 歌を聴いて、私の幸せを感じて下さるように! 皆さんが、少しでも幸せな気 持ちになってくれる事を願って、歌います! どうか、最後までおつきあいを よろしくお願いします!」
 また拍手。
 私はどんどん幸せと心拍数が上がっていくのを感じた。
 やだ。
 どうしよう?
 これ、癖になりそう。
 この気持ち、もっともっと味わいたい。
 みんなにも、感じて欲しい。
 歌いたい。
 早く、歌いたい!
「では、最初の歌です! 会場にいる皆さん、そして…」
 私は後ろにいるみんなを見た。
 みんなも私の視線に気付いている。
 みんなが私を真っ直ぐに見ている。
 みんなの顔を見ていたら、一気に胸が熱くなった。
 涙が出そうなくらいに。
 そして、自然に言葉が出た。
「そして…765プロの、かけがえのない仲間達の為に! 水瀬伊織、歌います!」



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