Top


魔導物語 シーフードカレー
 
 
 
 一つの記憶はいつしかぼやけ、その他大勢の記憶の一つになり、埋もれる。絶える。
 そして、新しい記憶が古びた記憶の上に我が物顔で鎮座するものだ。
 だから人は変わり、そしてだからこそ、変わらない。
 何より、そうなってしまえば、あった事すら怪しくなってしまうから。
 
 なのに、意地みたいに消えない記憶もある。
 
 いや、忘れたくないのだろうか。
 …それにしては、そう言った記憶は忘れてしまいたいものである事が殆どだ。
 
 例えそれが、美しい記憶であったとしても。
 
 笑顔。
 
 あれの笑顔。
 
 目を瞑るだけで鮮明に、今、目の前で微笑んでいるみたいに思い出される。
 笑顔だけじゃない。
 屈託の無い笑い声。
 目の前にいる時の、かすかな香り。
 柔らかな髪。
 小さな背を伸ばして懸命に近づく唇の感触。
 
 最後に覚えているのは、眠りについた彼女の不思議な表情。そして、嫌な感触の残る自分の両手。
 
 それは全て、二度と目の前に戻る事のない過去。
 彼は、心落ち着く筈だった深淵の闇に、自分の領域たる漆黒の闇に、ただ押し潰されそうだった。
 
 
 
 道を歩く。
 いつも通る道だ。
 だが、こんなに長い道だったのだろうか。
 歩いても歩いても辿り着かない。
 もう着くだろうと思ったのに、実際は半分程しか進んでいない。
「……」
 一人で歩く、それだけで、こうも距離感が変わる。
 アイツが隣に居た時は、いつの間にか着く程度の距離と思っていた。
 それが、こんなにも長いとは。
 
 『いつもの道』が、こうも違和感を覚えるものなのか。
 そんな彼を見つけたのは鳥。
 まるで、彼自身が防音効果でもあるかの如く、彼の歩いた道筋に添って声を上げる事の出来る小鳥達は揃いも揃って押し黙る。
 やっと美しい旋律を覚えたばかりの子供の鳥すら、本能的に声を閉じこめた。
 彼の通る道は、まるで生命を感じさせない。
 動物どころか、虫、いや、草木すらも枯れたかの様に生気を失い、じっと彼が通り過ぎる事を願っていた。
 
 これが、普通なんだよな。
 
 そう思いつつも、彼はどうにもしがたい妙な気持ちだった。
 嫌な気持ちから逃れるかの様に道を外れ、彼は森に入った。
 だが、やはりそこでも全ては同じ。
 普段なら生命に満ちあふれた森が、今はまるで枯れた森の様だった。
 ふと、森の奥から鼻歌が聞こえた。
 ゆったりとした旋律で楽しげに奏でられるそれは、童謡の様にも、どこか涼しい地方の民族音楽の様にも聞こえた。
「……」
 シェゾはふらりとその音色に近寄る。
 何か、えらく久し振りに人の声を聞いた気がする。
 すこし歩いた先、森が開けて、背の低い草が所々に群生していた。
「ふん…ふふん…らんら…」
 そこには、楽しげながらも夢中になって薬草を摘んでいるウイッチが居た。
 リズムよく頭が動き、旋律と実に上手くかみ合っている。
 森を歌い歩く妖精がいるならば、あんな感じだろう。
 シェゾは、ふとウイッチの背中を見詰めた。
 と、その小さな背中がびくりと更に縮こまる。
 楽しげな鼻歌はしん、と消えて再び森は静寂に、いや、死んだ様に黙りこくる。
「…だ、誰で…」
 ウイッチは、背中の視線に気付いた。
 まるでのど元にナイフでも突きつけられているみたいに体はこわばり、額には冷や汗すら流していた。
 彼女は、ゆっくりと立ち上がり、そして更にゆっくりとゆっくりと振り返る。
「…!」
 振り返り切る前に、彼女は心臓を危うく止めてしまいそうになる。
 視界の端に、黒い服が映った。
 ただそれだけ。
 だが、充分だった。
「…シ…」
 もう、ウイッチは動けなかった。
 ごくりと喉が鳴り、その大きな瞳は恐怖に見開かれる。しかし、それは決して対象を見ようとはしない。
 『勝手に』見たら、どうされるか。
 それで頭はいっぱいだった。
 それを見る事すら、自分には許されぬと思っているのだ。
 ウイッチは、漫然たる恐怖心に身を凍らさせた。
 今ですら気絶してしまいたい程だと言うのに、何と足音が近づいて来る。
 ウイッチは、実際気が遠くなりかけていた。
「…おい」
 彼は彼で、実に不機嫌そうに声をかける。
 その声はウイッチを泣かせるに充分。
「ひ…」
 体が震え、足がすくみ、力が抜ける。
 誰が言った事でも無いのに、動いてはいけないと思いこんでいるウイッチ。だが、元より体は言う事を聞かなかった。
 彼女はその場にへたり込む。
 頭を抱えて、ただ恐怖に震えるのみ。
 その姿はまるで丸まったリスの様に弱々しい。
 何故か、まるで涙が出ない。
 悲鳴も出ない。
 真の恐怖は感情の麻痺を生むのだ。
 恐怖におびえる。
 それだけが、今の彼女に出来る全てだった。
 シェゾはどこか悲しくも、これでいい、と半ば自暴自棄気味に、にやりと笑った。
 その笑みは寂しさを含んでいる故に邪悪に見える。
 人や動物所か、そこらのモンスターすら逃げ出しそうな笑みだ。
 そして、ふと。
「行け」
 低い声で彼は言う。
「……」
 声こそ聞こえるが、ウイッチは頭が働かない。
「さっさと行け。生きているうちに」
「…!」
 ウイッチは、あらん限りの気力を振り絞って体を動かした。
 何も言わない。何も考えられない。
 ただひたすら、脱兎と化して彼から逃げた。
 ふらつき、躓きつつも彼女はようやく彼の視界から消えた。
「…ふう」
 彼は、大きく溜息をつく。
 魂でも抜けているかの様な重い溜息だった。
 そして、一つのバスケットを見つける。
 それには、積んだばかりで青い香りも芳醇な薬草が入っていた。
 
「…はぁ、はぁ…」
 森のはずれ、ウイッチの自宅。
 ウイッチは、いつ自宅に付いたのかも分からない内にドアの前にへたり込んでいた。
 喉が乾いてひっつきそうだった。
 彼女は何度も咽せる。
 背中が折れそうになるほど体を丸め、地面にキスしそうな位に頭を下げる。
 脇腹が痛み、頭痛もする。
 大げさだが、死んでしまうのではと一瞬思うほど体が苦しかった。
 やがて。
「…う…」
 地面を掴む手が土を引っ掻き、幼い指が土にまみれた。
 爪の痛みも無視して、何度も土を掻きむしる。
「…どうして…」
 今頃になって涙が溢れ出る。
 とめどなく流れる涙は、地面に大きなしみを幾つも生み、それは幾ら土に吸い込まれても消える事無く生まれ続けた。
 不意に、彼女はその鼻に嗅ぎ慣れた香りを感じる。
「…これ…」
 赤くなった目元も気にせず、ウイッチはその香りのする方向を見る。
「!」
 そこには、自分が森に置いてきた筈のバスケットがあった。
 幾ら何でも、後から置かれて気付かぬ訳がない。
 ウイッチが帰る前に、既にそこにあったのだろう。
「……」
 ウイッチは、おそるおそる手を伸ばし、中を確認する。
「…これと、これ…。それから…!」
 ウイッチの手がぴくりと止まる。
「それ、それ、に…」
 ウイッチはまた涙を溢れさせた。
 バスケットの中、奥にそっと、薬効性の高い木の実があった。
 普通は、高い木の上に絡まって生える宿り木にしか生らない実。
 熟する前の青い実にのみ価値があり、熟して落ちたそれに価値はない。
 何故それが入っているかは、考える間でもなかった。
「……」
 バスケットを抱きしめ、ウイッチは更に泣いた。
「なのに…どうして…」
 そんな彼女を慰めるかの様に、周りでは小鳥達が静かに鳴いていた。
 
 空だけは誰にも平等に青い。
 それなのに、彼の見る空はどこか濁って見えるのは本当に気のせいだろうか。
 彼は既に街から遠く離れている。
 おそらくは、戻らぬその街。
「…シェゾ!」
 遠くから、その声は聞こえた。
「……」
 彼は正直聞きたくなかったその声。
「待って…待ってください!」
 振り向いた空から、ウイッチが箒に乗って近づいていた。
「…ウイッチ」
 少しして、彼女は彼から少し離れた位置に降りた。
「…あ、あの…」
 自分から追って来たにもかかわらず、彼女はそれ以上近づく事も、上手く話す事も出来なかった。
 言いたい事が、聞きたい事があるのに、それより恐怖心が遙かに勝っているから。
「……」
 彼は、あえて無視して歩き出す。
 それは、辛うじての良心だったのかもしれない。
「…シ…シェゾっ!」
 ウイッチは無我夢中で走り出した。
 彼の背中に突進して、必死にしがみつく。
 力を込めたいのに、手が震えて上手く出来なかった。
「何の真似だ」
 感情の感じられない声でシェゾは問う。
 いや、答など望んでいなかったかも知れない。
「…わた、わたくし…、信じられません! あな…あなたが…、ア…アルルさんを…」
 シェゾは、どこか痛いかの様に顔をゆがめた。
「嘘だと、嘘だと言ってください! アルルさんを…、殺めたなんて! 力の為だけに、アルルさんを…なん、なんて…」
 最後の方は涙に声がかき消されていた。
「…ウイッチ」
 彼はウイッチの手を取り、ゆるりと振り返る。
「……」
 ウイッチは、手を取られたままシェゾの顔を見た。
 その顔は、美しく、そして悲しい。
「嘘ですわよね…」
 その瞳、ウイッチは彼のその瞳に希望を見出したと思った。
「…俺は…」
 シェゾは、ウイッチの頬にそっと触れようとする。
 ウイッチも、彼の顔を正面に見て逃げなかった。
 その時。
 シェゾは、自分の手がぶれた気がした。
 頬に触れかけていた右手がずるりと二つに分かれ、それはごく自然にウイッチの細い首に向かった。
 …!
 そして、いつの間にかもう片方の手も、鏡に映したみたいに対称的に首に近づく。
「…!」
 ウイッチは、首に手が触れるまで何が起きたか分からなかった。
 その、氷の様に冷たい手が自分の首に絡みつくまで。
 やめろぉっ!
 シェゾは叫んだ。
 どこで叫んだかは分からない。ただ、自分があらん限りの力で叫んでいると分かる。
「…シェ…シェゾ…」
 その細い首。あまりにも無力なそれを無造作に掴むその手の上に、ぽたりと大粒の涙が落ちる。
「わた、くし…貴方にな…はっ!」
 手に痙攣が伝わる。
 ウイッチ!
 引き裂かれる様な叫び声。
 だが、『彼』は楽しそうに笑っている。
 ウイッチの手が、震えながらもシェゾの腕を掴む。
「シェ…ゾ…愛し…」
 その腕にぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。その手に伝わる鼓動と暖かさがあまりにもグロテスクで、シェゾは吐き気すら催す。
 だが、その手はそれを止めない。
 いや、楽しんでいる。
 ウイッチ!!!
 シェゾの叫びと共に、かくり、と細いウイッチの腕が下がった。
 やめろおおぉぉぉっ!
 その瞬間、シェゾの意識がシェゾから抜けた。
 まるで、大砲から打ち出されたみたいにその意識は空へ跳び、次の瞬間には地球をその視界に見ていた。
 そして更に次の瞬間には地球も星々の一つとなり、あっと言う間に光のない闇が視界を埋め尽くした。
 あまりに純粋な闇の世界は、逆に眩しくて目を開けていられなかった。
 …う!
 ずきん、と頭痛がする。
 目を開けると、そこは先程と同じ眩い闇の世界だった。
 目が見えてこそいるが、自分が存在しているのかどうかすら分からぬその世界で、彼は思いだした様に深呼吸した。
 そして、心底安心する。
 
 …あれが、『然るべき』世界、なのか?
 
『主よ、お気に召したか? 闇の魔導士たる者の、もっとも『堕ち』易い世界だ。
 
 …まったく、何を見せるかと思えば…。所詮、イメージだ。
 
 彼は、あれはイメージなのだ、と言い聞かせる様にして言う。
『いや、この世界も『生きている』。あのまま、主が居座ればもう、そのまま主の住む世界だ。それに、全ての事象、人の考えは主の住む世界と何も変わらない。
 
 ……。
 
 シェゾは視界無き世界を仰ぎ見た。
 彼は、有り得ない水晶球を闇の剣の導きで見つけた。ひび一つない水晶の中に、もう一つの水晶が入っているそれ。
 オーパーツどころの話ではないそれ。
 闇の剣は言った。
 異次元ではなく、もう一つ、いや、あらゆる可能性を現実化した『世界』を見る事が、行ける事が出来るものだ、と。
 そして、シェゾは見た。闇の魔導士として最も相応しい行動をしていると言う世界を。
 
 …よその世界に、興味はない。
 
『そうか。
 それきり闇の剣は何も語らない。
 いつの間にか、シェゾは全身をその空間に出現させていた。
 黒き闇の中で尚、漆黒のシルエットを輝かせる男がそこにいた。
 目の前に、あの水晶球が浮かぶ。
 シェゾは水晶球を掴んだ。
 ほんの僅か力を込める。
 それだけで良かった。
 水晶球は、砕ける。
 瞬間、シェゾは眩い闇に飲み込まれ、気を失った。
 何となく彼は想った気がする。
 彼女の事を。
 
「シェゾ!」
 彼が目を覚ましたのは、そんな呼び声のおかげだった。
「…アルル」
 シェゾはベッドに横臥していた。
「つ…」
 右手に、鈍い痛みを感じた。見ると、包帯がごてごてと巻かれている。
「…これは」
 シェゾは右手を掲げてしげしげと見た。
「あ、それ? もう、びっくりしたよ! シェゾ、ボクの家の中で、手を血まみれにして倒れていたんだもん!」
「あ?」
 そう言えば、これは自分のベッドじゃない。
「ねえ、一体何があったの? どうしてボクの家の中に居たの? 鍵、かけてたよ? キミ、人の家に勝手に入るマネはしないから…何か事故だよね? ねぇ?」
「…そうか」
「ん? 何か思いだした?」
「…は、はは…ははは…」
 彼は笑った。屈託のない、明るい笑顔で。
「…シェゾ? わぁ!」
 はて? と近寄ったアルルを彼はひょいと掴むと、そのまま抱き寄せた。
「シェ…シェゾ!? こ、こらっ!」
 アルルは到底効果のない怒鳴り声でいきなりの無礼に抗議する。
 だが、彼は尚強く抱きしめる。笑ったままで。
「こらぁ! ねぇ! ちょっと…。おーい!」
 アルルは何がなんだか分からない。
 シェゾはふと体を離し、アルルの顔をまじまじと見詰めて言う。
「生きているな」
「は?」
「生きているお前が、いい」
 シェゾはそう言って、もう一度アルルを抱きしめた。
「ちょ…あの…シェゾさん?」
 抱きしめる事自体は構わないが、今日の彼はヘンだ。
 アルルは、とりあえず彼を抱き返しつつも、はて? と悩んでいた。
「アルル」
「ん?」
「今日は泊めてくれ」
「はい!?」
「深い意味はない。今日はお前を見ていたい。それだけだ」
「…!」
 アルルは、その充分深い意味に感じる大胆な発言に顔を真っ赤にした。
「あ、あのー…ダメじゃないけど…あの…」
 困惑するアルルもお構いなしに、彼は実に満足そうにアルルを抱きしめる。
 …ま、いいか…な?
 ちらりと窓の外を見る。
 青い空は無限に続き、白い雲は全てを優しく包み込むかの様にたゆたう。
 天気はいいし、彼は妙に上機嫌。
 アルルは何か、今日はすべてオーケーな気がしてきた。
「ね、後で、晩ご飯の材料買いに行こ」
 身を預けた彼の耳元でそっと囁く。
「分かった」
 やはり明るい声で返答するシェゾに、アルルは何か不思議な魅力を再発見する。
 キミ、声が明るいとこんな好青年なんだぁ…。
「あ、でね、今日は、シーフー…」
 アルルは、全ての科白を言えなかった。
 その口が、塞がれてしまったから。
 そしてベッドの上のシルエットはそのままぱたり、と倒れる。
 
『やれやれ…。
 珍しく、闇の剣が笑ったのに気が付いた者はそこには居なかった。
 
 
 シーフードカレー 完
 

Top