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魔導物語 さくら
 
 
 
 花ってやつは不思議だ。
 そう思う時がある。
 そんな彼の視界は、桜貝の様な美しく、且つ自然な、淡い桜色に染まっている。
 
 桜色。
 
 よく言ったものだ。
 それ以外の形容を思いつかない。
 
「……」
 俺は一人、無数に立ち並ぶ桜の森に立っていた。
 視界の端まで桜の木が埋め尽くし、鮮やかなような、淡いような、不思議な色彩に心を奪われる。
 古い木は根元を苔に覆われ、その緑がまた、鮮やかなコントラストを見る者に楽しませる。
 ざあっと風が吹いた。
 時が止まっていたかの様に静かだった桜の森が、一気に動き始める。
 木々の揺らめく音。
 舞い散る花びら。
 かすかに香るその甘美な香り。
 少しの間、風が桜の森を賑やかにする。
 やがて風は立ち去る。
 地面までも桜色に染めたその現実は、より幻想的な世界として生まれ変わっていた。
 彼は静寂に酔いそうだった。
 肩に、頭に、桜の精が舞い散り、そして再び旅立つ。
 
 俺はゆっくりと深呼吸して歩き出す。
 足元の花びらが、粉雪の様に舞った。
 俺は心のどこかで、そんな美しい世界を歩く事が罪にさえ思えた。
 
 …歌声?
 俺はそれを感じた。
 耳には何も聞こえない。
 だが、歌っている。
 俺は引き寄せられるようにして『歌声』のする方へ向かった。
 やがて…。
 
 森が、少し開けた。
 まるでステージのように広いその場所、その中央に彼女が立って歌っていた。
 淡いウエーブヘア。白く透き通る四肢。そんな芸術的な体を美しく飾る、更に白く輝くスリップの様な纏いもの。
 そして、その背中にはまるで綿の様にやわらかく輝く純白の羽。
 
 ハーピーが、ゆったりとそこに浮かび、『歌って』いた。
 
 白と言う言葉をこれほど多彩、かつ完璧に使いこなせる者が他にいるのだろうか?
 シェゾは、自然にそんな事を考え、見とれていた。
 
 美しい。
 
 そんなありきたりの言葉で言うのが失礼に思える程に、ハーピーは美しかった。
 そして、今そう思ったのが聞こえたかの様に、ハーピーはこちらを向く。
 眠りから覚めたかのようにゆっくりと目を開き、眠くなりそうなほどに甘い微笑で彼女はシェゾを迎えた。
 こんにちは。
 ハーピーはそう『言って』、シェゾに近づく。
「…邪魔したか?」
 いいえ。
 ハーピーは幸福を絵に描いたような微笑で『言う』。
「やっぱりお前だったのか。この『歌声』は…」
 お耳障りでしたか?
「まさか」
 シェゾは言う。
「お前の歌声は本当に綺麗だ。誰だってそう思っている」
 …恥ずかしいです。
 ハーピーはくすぐったそうに笑って『言った』。
 
 ハーピー。
 
 彼女は、『喋らない』。
 
 その声は、甘美にして凶器だから。
 
 人には、その声は魅力的過ぎるのだ。
 人は、歌声どころか話し声を聞くだけで我を失い、喜びのうちに狂気へと走る。
 歌など歌えば、一小節が終わる頃には命を落としても不思議ではないのだ。
 この世でもっとも恐ろしい事かも知れない。
 喜びのうちに死を選ぶ事は。
 だから、彼女は声を閉じ込めている。
 声なき声で、彼女は『歌う』。
 
「聞かせてくれ」
 はい。
 ふわりと舞い、ハーピーは再び歌い始める。
 声なき歌は、それでもシェゾの心に響く。
 クリスタルのような声、光り溢れる歌。
 時折舞い散る桜が、その場を歌劇の舞台へと変える。
 やがて、ハーピーの周りにはどこからともなく光が集まる。
 一つとして同じ色は無く、それでいて優しく淡い光。
 
 それは、精霊の光。
 
 精霊すらも彼女の歌に引き寄せられ、一緒に踊り、舞う。
 その姿の美しさ、この歌声の優しさ。
 こんな贅沢なステージが、一体世界にあとどれだけあると言うのだろうか?
 桜さえも聞き惚れるその歌声。
 花びらは彼女を中心に舞う。
 ハーピーの歌を賞賛するかの様に、祝福するかの如く、それは舞う。
 シェゾは、言わずにはいられなくなった。
「…ハーピー」
 はい。
「『歌って』、くれないか?」
 …!
 彼女は初めて表情に影を落とした。
 驚き、そして恐れる。
 私、私は…。
 その小さな肩を両手で抱き、恐れに萎縮させる。
 思わず後ずさりさえするハーピー。
 罪を犯した様な悲しい表情だった。
「…困らせたい訳じゃない。ただ、どうしても聞きたくなったんだ」
 でも…。
「俺は普通じゃないぜ。その声、聞いた事がある人間は少ないだろ」
 あなたは、たしかに私の『声』を聞いていただいた事があります。それでもこうして、平気でいてくださいます。でも、でも…。
「お前の声を、歌を聴きたい…。それだけだ」
 真っ直ぐな瞳は、ハーピーの瞳を静かに映し出す。
 …シェゾさん。
 シェゾにも、なぜこんなにハーピーの歌を聴きたいと思ったのか分からなかった。
 ただ、聴きたかった。
 この桜舞う世界、そしてハーピーの歌。
 この二つが触れ合う事はそうそうあるまい。
 そう思ったのだろうか。
 今の桜でなくては、今のハーピーでなくてはいけない。
 そう、思ったのかもしれない。
 …歌って、いいのですか?
 ハーピーは潤んだ瞳で問い掛ける。
「…ああ」
 ハーピーの口が、そっと動いた。
『歌っても、いいのですか…?』
 シェゾはくらりとめまいを覚えた。苦痛ではない。心地よいそれは罪。
 その声は、つぶやくだけでも罪だ。
 あまりに美しい罪だ。
 
 鈴の様な響き。
 
 クリスタルを鳴らした様な透明なその声。
 
「…ああ。な? 俺は、大丈夫だろう?」
 シェゾは、その瞳も真っ直ぐにハーピーを見た。
 何故、闇に生きる男がこれほどに優しい笑顔を作れるのか。
 
『…はい』
 
 ハーピーは心底嬉しそうに答えた。
 声どころか、その笑顔ですら、人をどうにかしてしまいそうな魅力を含む。
 
 そして。
 かすかに桜を舞わせていた風が止んだ。
 遥か頭上の鳥も、さえずりを止めた。
 
 聴きたいのだ。
 
 ハーピーの『声』を。
 
 ハーピーの『歌』を。
 
『……』
 森が息をのんだ。
 一瞬、ハーピーの周りの空気が波紋を作り出し、その波は鮮やかに周囲を染める。
 
 それは歌。
 生き物が作り出したもっとも美しい芸術。
 これを天国というのだろうか? 見た事もないし、行きたいとも思わないが、今のこの世界こそ天国と言う名にふさわしい。
 そう、シェゾは思った。
 空気が、地が、いや、星が震えた。
 
 その歌は、夢か、幻か。
 それとも、歌が終われば終わってしまったと嘆き、悲しむ、悪夢なのか。
 この声は、神すら狂わせるだろう。
 
 あまりに美しく、あまりに罪深いその歌よ。

 …シェゾさん。
 ハーピーが呼びかけていた。
「……」
 瞼が重い。
 …いや、何かに遮られている。
「…俺、は…」
 鼻に、甘い香り。
 顔には、柔らかなしっとりした感触。
「…ハーピー?」
 よかった…。
「…ああ、そうか…」
 俺は、ハーピーの胸に顔を埋めて抱きかかえられていた。
 よかった、目を、覚ましてくださって…。
 声は泣いていた。
「すまない。あんまり声が気持ちよくて、寝ちまったのか…」
 そん…そんな…。やめてください。こうなるのは、こうなるのは、分かっていたのに…。私の声はただの凶器だって、分かっているのに…。
 シェゾの頭を抱き抱える細い腕が震える。
 分かっているのに、歌ってしまった…。『声』を出して、歌いたいと思った私の勝手なわがままで…。
「…ちがうさ」
 そう言いつつも力が入らない。シェゾは、そのままの姿勢で説く。
「だとしたら、俺はこんなに幸せな気持ちにならない。何よりも、森や精霊達はこんなに喜んでいるんだぜ」
 …森や、精霊達…。
 ハーピーは顔を上げる。周りの森は、心なしか先ほどよりも生命力を増している。精霊達も、こぞって集っていた。
 二人の周りは、自然のシャンデリアのように輝いている。
 …みんな…。
「誇れ。その声を。悪いのは俺達さ。その声に、対応出来ない幼稚な俺達さ」
 シェゾさん…。
「俺は、まあ、一応ご覧の通り平気だ。すぐに他の奴らも慣れるさ」
 だが、それはシェゾが抜きん出ていると言う事なだけである。
 現実には、そこらの人間では歌が終わるまでに十回は命を落としているだろう。
 変わらないのは理由だけ。
 それが、美しすぎるから。
「なあ、また、聞かせてくれ」
 ! だ、だめです! もう、もう…。
「ふ…」
 シェゾは顔を上げた。
 ハーピーの顔を見る。
 シェゾが目覚めるまでどれだけ泣いたのか、目が少し赤かった。
 少々ぎこちなくも、そっと指で残った涙を拭う。
「また聞かせてくれ。その声を…。その歌を…」
 シェゾの瞳は、嘘偽り無く願っていた。
 …は、はい…。
 ハーピーが弱々しくも笑った。
「それでいい」
 
 二人を、花吹雪が包む。
 精霊の祝福とでも言うべきダンスが二人を包む。
 森も、精霊も喜んでいるのだろうか、また、『声』を聞けると約束された未来を。
 …あの、シェゾさん。一言だけ、一言だけ、いいですか?
「ああ」
 ハーピーはそっとシェゾから離れる。
 すこし、シェゾの目線が上がった。
 ハーピーは、まるで今天から降りてきたみたいに太陽に栄える。
 そして、唇が動いた。
 
『シェゾさん…』
 
 ハーピーはふわりと空へ舞い、桜の森の奥へ去った。
 シェゾは忘れない。
 今のハーピーの笑顔を。
 
 桜が、やきもちを焼いたみたいにシェゾの周りに花吹雪を舞わせた。
 
 
  さくら 完


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