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魔導物語R Hot spring 後編



  最終夜
 
 のんびりとした朝食が終わって少しの後。
 女将が程よいタイミングで食事を片付け、お茶を置いて去って行った。
「……」
 某骨が飲んだら感涙しそうな美味い茶を飲み、シェゾは部屋を出る。
 アルルとウイッチはぼーっとしたままだ。
 
 一面に森が広がる大きな縁側。
 シェゾは、縁側の広い窓に肘をついて外を眺めながら考える。
 しかしなんつーか…。
 シェゾは昨夜と昨日夕方の事を思い出す。
 何か、このままだと自分がいろんな意味で罪人になってしまうのでは…。
 そんな気がして困った。
 
 遅い。
 頭の中でそんな声が聞こえた気もするが。
 
 …先に、帰るか?
 女三人、旅にはいいメンバーだ。男が居るから問題(?)が起きる。
 彼は、我ながら良い案だと思った。
 そうと決まれば…。
 振り返ろうとして、腰が動かない事に気付く。
「そーは問屋が下ろさない」
「……」
 いつの間にやら、ブラックが後ろにきて背中に張り付いていた。
「ブラックよ、お前もか…」
 どこかで誰かが言った科白。
「お子様の相手は疲れたでしょ?」
「…いや、そうじゃなくて…っつーか、何で分かったんだよ?」
「あんたの考える事くらいお見通し」
 そう言ってブラックはつま先を立て、シェゾのうなじに唇を添わせる。
「ん…」
 柔らかな首の後ろを甘噛みするブラック。噛まれた方も、噛む方もその感触は心地よいものだった。
「ほんとに噛むの好きな」
 それ自体は別段気にしないシェゾ。
「うん。ね…部屋、行っていい? それとも、どこか他のところで…?」
「決定事項みたいに言うな。つうか、朝っぱらだっての」
「つれないなぁ…今日中に帰るんだよ? 時間無いよ?」
「流石に反省しているんだ。そういう気分じゃない」
 そう言って背中のブラックを離し、シェゾは廊下の向こうに歩いて言った。
 つまり、気分さえOKならいい訳ね。
「…ふーん」
 白い漆喰の壁にもたれかかってちょっとつまらなそうにしつつも。
「時間の問題…」
 にやりと笑うブラック。
 艶のある唇で生み出すその笑みは、小悪魔のそれだった。
 
「おい、サタン、本当か?」
「私は嘘を言わない」
「…その科白自体が信用できない」
「なら、帰るか?」
「…いや、そういう訳にも…。お前の言う事が、部分的にでも本当なら…」
 鬱蒼とした、しかしどこか清涼とした森。
 二人の男が、がさがさと森を歩いていた。
「女の敵がこの先に居る。正義の男が、それを許してはおけんよな?」
 二日前、サタンがラグナスの宿に女の敵を倒す為に手伝え、となだれ込んで来た。
 彼、シェゾに対して、言語の限りを尽くした罵詈雑言をたっぷり四十分かけて述べたサタン。ラグナスは、半ばその貶し言葉の知識に感心していた。
 それを信じろと言われても到底出来ない話だが、まるっきり百パーセントの嘘ではないのだろう、と思いとりあえず同行した。
 要は、確かめればいい話だ。
 あの時、ラグナスの部屋になだれ込み、額に青筋を浮かべ、血涙流して毛を逆立て、とどめに白いハンカチを噛んで引っ張って鼻水垂らして身をよじる魔王がどれほど異様に見えた事か…。
 
 嫉妬と言うものを絵に描くとこうなる。
 
 何が真実かはさておき、ラグナスはそれだけは確信していた。
「……」
「見ろ、この周りの状況。木々が焦げている。美しい自然が台無しだ。いかにも奴のしそうな事だ」
「…シェゾ、なのかぁ? これ? なんか、めくらめっぽうに撃ったって感じだ。奴はこんなチャチな事しないぞ?」
「…少なくとも、奴が関系しているのは確かだ」
 それは間違いではない。
「とにかく、何で正面から行かないんだよ? こんなゲリラみたいな…。俺達の方が悪者って感じだぜ」
「正義は姿形ではない」
「それもそうだが…」
 そもそも、かの宿屋は知り合いであろうとも宿泊客以外は決して敷居を跨がせない。
 何より、アルルにここに来ているとバレる訳にはいかないのだ。
「とにかく、シェゾを引きずり出して、あの悪鬼にしかるべき制裁を…」
 目を血走らせ、口元から乱杭歯を除かせて顔を歪めるサタン。あの歯で噛み付かれたら、恐らくは骨ごと噛み千切られるだろう。
「……」
 おまえの方がよっぽど悪鬼に見える。
 ラグナスは素直にそう思った。
「ところで、まだか?」
「…いや、こっちで、合っている筈…」
 何か知らないが、目的への目印になるかと思われた焦げた木々はもうどこにも無い。
 かと言って、ここで不用意に魔導力を使ってはシェゾに気付かれるかも知れない。
 結局、二人は樹海のような森を手探りで進まなくてはならず、平らなところなど殆ど有りはしない森を蛇行して歩くしかなかった。
「ここはさっき、いや、何度か通った気がするぞ…」
「なら、次は通らないようにすればいい」
「希望としてはな」
 こいつのリードに任せて早二日。
 …遭難しないだろうな?
 と、言うかはっきり言ってしかけている。
 ラグナスはこの珍妙な道中に、漫然とした不安を募らせていた。
 二人の頭上には、どこから飛んできたのかハゲワシが数羽、旋回しつつ飛んでいるのは何故だろう。
「…喰うなら、年寄りから先に喰ってくれよ」
 ラグナスはぼそりと呟いた。
 
 宿には、室内、露天、打たせ湯等を含めると合わせて十二の風呂がある。
 シェゾは、その中でも宿から一番離れた露天風呂に向った。
 辿り着くだけでも一苦労だが、その景観は天然記念物に指定しても良いようなものだ。
 場所は宿屋よりも高く、岩山の上にある温泉、と言えば分かり易い。美しく磨かれた岩をくり抜いた岩風呂は鏡面のように美しく輝く。周りを飾る木々、風の音と鳥の囁き。
「…いい眺めだ…」
 シェゾは十人以上入れそうなその風呂でどっかりと寛ぎ、真っ青な空を仰いだ。
 やや肌寒い風が吹くが、火照った体にはそれが心地よい。
 かちゃり、と陶器の音が響く。
「はい、お銚子」
「……」
 後ろから声がした。
「おい…」
「結構ここって来るの大変だね。流石、一番いい風呂は一番大変だこと」
 ブラックは、お盆を持って後ろに中腰で座っていた。
「どうぞ、旦那様」
 手馴れた手つきでお猪口を渡すブラック。
「メイドみたいな科白言うなよ」
「あれ? 俺、一応メイド属性だよ」
「属性…」
「ちゃんとメイドドレス着ていれば、そっち系統に対してAC-7は堅いね」
「訳がわからん」
「いいじゃん。んじゃ、あっち向いてて」
「は?」
 シェゾは素晴らしく嫌な予感を感じた。
「…上がる」
「おーっと」
 ブラックが声を出す。
「まだ振り向いちゃダメ」
「あ?」
「まだ脱ぎかけ」
「…おい」
 ガキじゃない。
 出てしまおうとしたシェゾに対して。
「まぁまぁ。俺、これでも大声には自信あるんだよ」
 一瞬、何の関係も無い会話に思えた。
「…どれくらいだよ」
「そーだね、ここから『やめてーっ! ケダモノーっ!』て叫んで宿に聞こえるくらい」
「……」
 進退窮まる。
 まさに今がそれ。
「そういう訳で…」
 言葉と共に衣擦れの音がする。
 そして、そのままお湯に入ってくるのは他の誰でもない。
「ん、いいお湯」
「なんでこうなる…?」
 肩に乗ったブラックの頭。
「何か言った?」
 シェゾの耳元で、その問いは答を求める風もなく囁かれる。
 そして次の瞬間には、彼の唇が何らかの答を発言する事すらも阻止さてしまった。
 替わりに、その唇にはしっとりとした甘い感触がプレゼントされる。
「…ね、だっこ」
「…誰か来たら…」
「今のところ、来られて困る人はいないねぇ」
「お前にとってはな」
 ちゃぷ、とお湯が揺れる。
 ブラックはゆっくりと彼の前に回り、そのまま躯を預ける。そして広い胸に収まるとゆっくりと自分の四肢の力を抜いた。
「ん…もっと、ちゃんとだっこ…」
 シェゾの両手がブラックの背中にゆっくり回る。
「ん…」
 そのまま、二人は再び唇を重ねた。
 先程のキスと少々違うのは、シェゾがやや積極的になった事だろうか。
 深く重なった唇がかすかに動き、ブラックは時折身を震わせた。
 温泉のせいではなく上気し始めた彼女の頬が喜びを物語っていた。
 浮気者、と言うか何というか。
 どこの誰に何を言われても仕方の無い状況に、着実に為りつつあった。
 
「見よ! 目標の宿だ!」
「…鳥の餌にならずに済んだか」
 背よりも高い草の間から、ゲリラみたいに土まみれの顔の二人がひょっこりと顔を覗かせた。その先にあるのは風光明媚な宿。
「何を言っている。そんな事毛頭考えてはおらん!」
 二人はどうにか、シェゾ達の宿泊している宿屋に到着した。
 安心したのか気が強くなっているサタン。さっきまでカーく〜んとか言って半泣きだったとは思えない。
「ふはははは! この私がお前ら鳥無勢に喰われてたまるものか!」
「危機感持ってたんじゃないか…」
「それは置いておいて、早速作戦を開始するぞ」
「聞いてない」
「心配無用。お前は私に着いて来れば良いのだ」
 そう言って、サタンは草や葉にまみれた体をずんずんと先へ進ませた。ついでに、大きな鳥の羽が頭に幾つかくっついているので更にその姿は異様だ。
 妖怪みたいだぜ…。
 ラグナスは、妙なオーラを噴出して歩く彼の後姿を見てそう思った。
 何か嫌な予感がするんだよな…。
 ラグナスはこの時、やっぱり帰っておけば良かったと後で後悔する。
 
「…あれ? シェゾ、どこ?」
「存じませんわ」
 部屋の中。先程からぼーっとしていた二人だが、まるで、起きたばかりの子犬みたいにふにふにと動きだす。
「…お風呂、入る」
「わたくしも…」
 二人は何となく揃って浴場へ向った。
 
「ふむ、私の予想が確かならば、ここは一番良い部屋である鳳凰の間に近い筈…」
「間取りも知らないのか?」
「馬鹿者。知ってたらもうちょっとダイレクトに乗り込むわ」
 威張るな。
 ラグナスはそう思いながら青色吐息を吐く。
「…むむむ」
「何だよ、今度は」
「か、体が…本能がこちらへ向かえと、いや、行けと言っている…」
「は?」
 彼の自信はラグナスの不安を大きくする。
「こっちだ! こっちにHeavenが待っている!」
「シェゾはどうした!」
 走り出したサタンを追うラグナス。
 だが、彼の言葉はもう、サタンの耳には届かなかった。
 そして。
「…ふむ」
「おい…」
 たどり着いた先。
 そこは、竹の衝立がそびえる場所。その向こうからは湯気が見え隠れする。
「どうやら、神はやはり正義を見捨てないようだ」
「お前…悪魔の、しかも頭みたいなもんだろ?」
「細かい事だ」
「細かくない」
「それより…」
 サタンは衝立の向こうのヘブンを見詰める。
「…ま、魔王が、そんな事して…しかも、当初の目的から外れて…」
「息抜きだ」
 まだ何もしてないし、そもそもこれでは自分達が女の敵だ。
「…お前はともかく、俺は光の戦士として…」
 その時、衝立の向こうから二人の声が聞こえた。
 誰でもない、聞きなれた后(希望的願望)の声。
「おおおっ!」
 サタンは歓喜する。
「……」
 ラグナスは、心の中で正義の戦士としての自分と、男としての自分とのデスマッチ真っ最中だった。
 そして、衝立を隔てて声は近づく。
 
「ね、シェゾ…」
 ブラックは悩ましい目つきでシェゾを見る。何の合図か、それとも、求めか。
「こんなところでだと、のぼせるぞ」
 盆に載ったお銚子は既に空だ。
「おぶってもらうからいいよ」
 お湯がちゃぷ、と揺れて何か言おうとしたシェゾの口を塞ぐ。既に何度目かは数え切れない。
 シェゾは、ブラックを抱きかかえたままでちょっと動いた。
「…ん、もうちょっと前…」
 そして、言葉は途切れる。
 替わりに、静かになりかけていた水面が、ゆらゆらと揺れ始めた。
 
「…ふむ、どうやら、我が后はもう湯船に浸かったようだなふぐはははは」
「……」
 お前絶対魔王じゃない。
 ラグナスは彼の表情を見てそう確信する。
「よっと」
「何してる!」
 ラグナスは小声で大声を出す。
「見て分からんか? 我が后の風呂を覗くくらい、主として当然だ。それに、色々健康状態も見なければならないしな」
 これも小声で言うサタン。
「后なら、覗く必要があるかよ…」
 もはや、単なる覗き魔と化したサタンは、濡れた衝立を器用によじ登る。
 …これまでだ。
 堪忍袋の緒が切れたラグナスが、気付かれる前に引きずり降ろそうと仕掛けた時。
「…! まずいっ! サタン、それ以上登るな!」
 ヤモリの如く衝立に張り付いたサタンを見て、ラグナスがある事に気付く。
「何を言っている。まだ、頭も出ておらん」
 そう言って彼が慌てるより先にもう一歩登る。
「…きゃーーーーーーっ!」
 衝立の向こうから聞こえる悲鳴。
「なにぃ!?」
 馬鹿な! まだ私は目線は愚か頭も…。
「なにあの角ー!」
「痴漢ですわっ!」
「! し、しまったぁ!」
 彼は、自分の頭には頭蓋の頭頂よりはるか上に、雄々しい角が伸びている事を失念していた。
「あ、あの角…サタン? サタンなのっ!?」
「間違いありませんわ! それに、他にも誰か居る様な気が…」
「ち、違うっ! 俺は無実だっ!」
 どうしようとうろたえるサタンの隣で、思わず無実を訴えるラグナス。
「! その声…ラ、ラグナスまで居るの!?」
「ええっ! 信じられませんわっ!」
 しまった。
 彼がそう思った時は全てが遅かった。
「ど、どうするラグナス?」
「知るかぁっ!」
 とにかく事の成り行きを言えば理解してくれる。
 ラグナスはそう思ったが…。
 周囲の空気がぴりっと張り詰めた。
 刺す様な気が充満し、それは二人の周りで密度を増す。
 耳に聞こえるのは二人分の呪文詠唱。そして素早く、確実に練られる気。
 二人は悟る。
 殺られる、と。
「…ダイアキュート完成。エネルギーフィールド内に置けるマナ発動効果の三倍化成功」
「はい。こちらもフィールド内における発動準備、整いましたわ」
 やけに冷静に行われるやり取りの声が冷たく、恐ろしい。
「ウイッチ、GO!」
「Meteor!」
「Waaaaaaait!」
 衝立の向こう側、脱兎と化す二人を追う様にして、怒級のメテオが連続で降り注いだ。
 
「!?」
 シェゾが魔導の気配を、続けて爆音を感知する。
「何だ?」
「…ぅ…ん、なに…?」
 浅い息の合間に返事が返る。
「下が騒がしくないか?」
「さっきから…ずっと…大暴れじゃない…」
「いや…下ってのは」
「黙って…ん…」
 今は、彼女に逆らう事も、そしてその気も無い彼だった。
 
 少しの後、森は再び静寂に包まれる。
 森に、倒壊した少しの木々と小さな消し炭二つを転がして。
 結局その後、シェゾはブラックを背負って宿に帰る事になる。
 ブラックがのぼせている理由を考えるのも大変だったが、先程の魔導については彼女達も何故か語ろうとしないので、お互い様と言う事になった。
 
 その日の午後。
 一行は宿を後にする。
 途中まで馬車を揺らし、街道を外れる辺りで徒歩に切り替える。森一つ抜ければ、もう自分たちの街だ。
 それぞれが各々の感覚で満足し、また行きたい、と微笑む。
 彼一人を除いて。
 実際、精神的に疲れたと言うのは本当だが、一番良い思いをしたのも彼である。
 おみやげの入った大きな袋を持たされて帰る。
 力仕事はそれくらいしか無いし、十分に釣りの帰ってくる二泊三日の小旅行だった。
「ね、シェゾ。また行きたいね」
「…もっと落ち着けるならな」
「ん?」
 アルルとウイッチは首を傾げ、ブラックはそっと笑う。
 
 森を抜ける。
 やや高い丘の下、皆の視界に町並みが映り、森の緑とは対称的な青い空が眩しく輝く。
 時は午後三時を過ぎた辺り。
 お茶を飲むには丁度良い時間だった。
 
 
 
 Hot spring 完

 

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