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魔導物語R Drop of water 前編
 
 
 
  雫
 
 霧雨が静かな森に静かにしとしとと降り続ける。
 その大木は、人の頭ほどもある大きさの葉と、その葉の密度ゆえ樹の下の地面が濡れるのを免れていた。
 軟らかい草の上、二人は寄り添い合って木にもたれている。
 アルルの、艶のある肌に水滴が滴る。顔から喉をつたい、鎖骨に止まるその雫。
 蓮の葉に、水晶の如く丸い水玉が転がる。そんな光景だった。
「…あんまり見ちゃ、ヤダ…」
 そう言いつつも、アルルは胸のはだけた自分の躯を隠そうとはしない。
 シェゾが、隠すなと言ったから。
 襟首の広い濡れたタンクトップが、アルルをいつもより大人に演出する。
 胸元に光る水滴。
 そして、スカートの様に足下を覆うシェゾのマント。
 見ているだけではつまらない。
 シェゾはアルルの肩を木に押し付けると、自分はその水滴に顔を寄せる。
「や…」
 アルルは、形ばかりの抵抗を試みる。
 近づくシェゾの頭に停止を促すかの如く手をつけるも、それはまるで無力だった。それどころか、アルルの両手は自分と同じ様にやんわりと濡れそぼっているシェゾの頭を、そっと抱える様に交差し、そのままゆっくりと彼を招く。
 頭を抱く両手。それは必然的に彼の頭を胸に招く。
 鎖骨の辺りの水滴に、彼の唇が触れた。
 その水は甘く、優しい香りがする。これ以上の水は存在しないだろう。
 肌に触れた唇は、鎖骨をなぞってゆっくりと往復する。
「…んっ!」
 アルルが、甘い、小さな悲鳴をあげる。切なく、そして心地よい悲鳴。
「うぅん…」
 雨露でしっとりと濡れた肌は、彼の唇が触れている感覚を敏感に返す。
 頭を抱える腕に力が入る。
「く、くすぐったい…よぉ…」
 だが、その艶を含む声はそれがくすぐったいだけでは無い事を示す。
「はぁ…ぁ…ん…」
 規則的な深い吐息が、アルルの胸をゆっくりと上下させる。
 それは、心地よい振動となってシェゾの唇を楽しませた。
 彼の唇が鎖骨から下がる。滑らかに肌をなぞり、隆起し始めた部分に到達した。
「!」
 アルルが跳ねたみたいに体を震わせる。
「シ…シェゾ…だめ…」
 さっきとは違う、怯えからくる震えがシェゾの唇に伝わる。声も同じく怯えていた。
「まだ、恐がるのな」
 シェゾはやや頭を上げる。上目遣いで目をアルルに戻して、そっと笑いかける。優しく、ちょっと意地悪なその笑みはアルルの心を混乱させる。
「…だ、だって…」
 アルルはその青い瞳を直視出来ない。
 シェゾは頭をアルルの顔の位置まで上げる。
 頭を抱きかかえていたアルルの両手がするりと離れ、そのままシェゾの両肩を握る。
 アルルを見詰めるシェゾ。
「…や、やだぁ…」
 アルルは、見られていると言うだけの事実に、何故か恥かしさを憶える。視線を感じているだけでアルルは心臓が高鳴るのが分かる。視線の先が、触られているみたいにくすぐったかった。
 シェゾの両肩を掴むアルルの手に、自然に力が入る。
「……」
 アルルはますますシェゾの顔を見る事が出来ない。
 何故なら…。
「アルル」
「な、なに?」
「こっちを向け」
「…で、でも…」
「向け」
「……」
 アルルは、おどおどと正面を向く。
「次は目を瞑る」
「……」
 次の言葉には一度で従う。
「ん…」
 シェゾは、そっとアルルの唇を塞いだ。自分の唇で。
 アルルは、絶対こうなると思ったから、恥かしくてそれが出来なかったのだ。
 そして、絶対に無駄な抵抗と知ってもいるのだが。
「ふぅ…ん…」
 唇同士が触れ合い、撫でる様にして戯れる。濡れた唇は滑りがよく、その唇の擦れる感覚はアルルの体を震わせた。
 ぞくぞくした感覚が、アルルの理性を心の奥深くに閉じ込める。
 替わりに顔を出すのは、快楽という名の罪。
 ふと、シェゾの唇がアルルのそれから離れ、頬を撫でた。
 肌がじんじんする。痛みではない。例え様のないその心地よさ。
 唇が肌に触れるだけでこれだ。アルルは、それ以上の事を想像するだけで気絶しそうになる。
 そのまま唇はゆっくりと左頬をつたい、耳に触れる。
「んっ!」
 びくりと身を縮まらせるアルル。
 シェゾの唇はアルルの耳たぶを噛んだ。
「ぁ…ん…」
 彼は噛み心地のいい耳たぶとぎこちないあえぎ声を楽しみ、その唇は更にアルルの肌を優しく、しかし確実に蹂躙する。
 耳から首筋、そして肩へと、その肌をシェゾは存分に楽しむ。
 楽しい。
 そう思うのは、女の肌だからではない。アルルの肌だからだ。
 シェゾはそう確信している。アルルの肌の感触、アルルの香り、アルルの声。これでなくてはいけない。そう再認識して、シェゾは一層満足感を強める。
「アルル…」
「…ん、ん?」
 返事だか喘ぎ声だか分からないその返事だが、シェゾには分かる。
「お前は、俺のだ…」
 そう言いつつ、弛緩したアルルの右手を握る。そっと指と指を絡め、アルルの指に爪を這わせる。途端に、アルルは大きく体を震わせる。
「ぁう…んん…」
 自分がどんな声を出しているのか、アルル自身には分からない。
「返事は?」
 アルルが今どうなっているのか分かっているくせに、意地悪にも返事をせかすシェゾ。
「う…うん…。シェゾの…。ぜんぶ、シェゾの…」
 かろうじて返事を返すアルル。
 自分が今、どれだけ大胆な事を言っているのか、言っている内容は理解していても、それを恥かしがる理性は既に封じ込められている。
 アルルは、ただ素直にそれを認めた。
 湧き上がり、突き上げる様な刺激さえなければ眠ってしまいそうな程に心地よいその感覚の中で、アルルは何となく思い出す。
 だからこそ、今ここにいるのだ、と。
 「この森ってさ、なんか不思議な感じがするよねー」
 アルルが、足元の蔦に足を取られながらも楽しそうに言う。
「どんな感じだ?」
 シェゾは、少し前を歩きつつ聞き返す。
「んー…。何かこう、静かなのに賑やかって言うの? 寂しくないの」
 シェゾは、言い方はしょうもないが、意図する内容は理解した。
「そうだな。この森は、俺達の街近くにあるあの森よりも賑わっている」
「でしょ? なんか、そういう感じするんだ…。あの森って、時々妙に『静か』になったり耳を塞ぎたくなるくらい『うるさく』なったりするから苦手なところあるんだけど、ここの森ってなんかいい感じ。平和って言うか何て言うか…」
 一気に喋って、アルルは周囲を見渡した。
 
 そこは、陳腐な言い方をすれば原始の森、とでも言うべき場所だった。
 平らな地面などそうそうは無く、苔むす大木と、太陽光の差す地面に生える植物が我先にと光を求めて伸び続ける。
 そして、そんな森を飛び交う不思議な姿の生物の多種多様さは筆舌にしがたい。
 海月の様に浮遊する生物。ウミユリのような姿で空気中の生物を捕らえて生きる透明な植物。かと思えば、極彩色の羽を慌しく羽ばたかせて奇妙な声で鳴く鳥。
 自然とは、海も陸も関係ない進化と光景を齎すのだろうか。
 学者連中が見たら、卒倒して歓喜しそうなその森だった。
 
 そんな世界に、二人は居た。
 始まりは、シェゾの単なる好奇心だった。
 シェゾが、この森で珍しい種類の精霊を見たと言う。
 彼は、元々そういうものを見ると放って置けないと言う妙なところで熱心な探究心があり、アルルもアルルでとりあえず珍しくて綺麗なものには目が無かった。
 来るなと言って来ない様な彼女ではない。興味を覚えたが最後、絶対についてゆく。
 かくして、デコボコのパーティはまたしてもいつもの如く誕生した。
「アルル、足を滑らせるなよ」
 シェゾは巧みに獣道を見つけて、そこをなぞりながら歩く。
 歩き易さはともかく、安全さは信頼できる道だ。
 アルルは、横たわって蔦にまみれた大木の上をバランスを取りながら歩いていた。
 彼女は分かっているのだろうか? いつも通りの服装と言う事は、シェゾが見上げるだけで大変な事になると…。
「平気だよ! ボク、運動神経はいいも…」
 言った矢先に、声が樹の上から消えた。
 続けて、勢いよく何かが落ちた水の音。
 そして、悲鳴。
「つめたーいっ!」
「……」
 シェゾは、やっぱり連れてこなきゃよかったと溜息をついた。
「おい」
 樹の向こう側に声をかける。
 返事は無い。
「アルル」
「は、早くこっちに来てよぉー!」
 今にも泣き出しそうな情けない声が、横たわった樹の向こう側から弱々しく響いた。
「……」
 シェゾは、一応無事と言う安心感と言うか情けなさと共に木を登り、向こう側を見た。
 かくして、そこにいたのは腿の辺りまで沼にすっぽり浸かって案山子みたいに立っているアルルであった。
「…何やってんだか」
 心底情けなさそうにシェゾは言う。
「うぅ〜…。は、早く抜いて…」
 アルルも心底気持ち悪そうに言う。
「は、はやくぅ…。なな、なんか、足にネバネバぶにぶにしたのがくっついているぅ…」
「蛭か、蛙の卵じゃないか?」
「ふぎゃぁーーーーーきゃーーーーーーっ!」
 アルルは気がふれたみたいに大声を出す。
 遙か頭上の鳥が驚いて飛び上がった。
「五月蝿いよ」
「はは…ははははは、はや早く助けてぇっ!」
 冗談(と言っても半ば嘘ではない)で言ったのだが、アルルはパニックだ。
 幸い、アルルは本当に岸ぎりぎりの位置から落ちたらしく、アルルの目の前に足を下ろしても足首まで沈むくらいで済みそうだった。
 そんな場所においても見事に沼にはまってしまったアルルは、運がいいのか悪いのか。
 と、こんな事を考えつつ降りてきたシェゾを、アルルは救世主が降り立ったかの様に見詰めた。
「シ…シシシ…」
 アルルは声が出ない。
「何だ? 来てやったのにあっち行けってか?」
「ば…ばかぁっ!」
 アルルは声を振り絞った。
「たす…たすけ…たすけてよおぉぉぉ…しぇぞおおぉぉぉ…」
 とうとう本当に泣き出すアルル。
「…自分で種まいておいて…」
 そう言いつつ、シェゾはアルルに手を差し出した。
 ただでさえ低い背が腿まで水に浸かっているので、まるで子供に手を差し伸べているみたいだった。
 アルルは、その手を見るや否やあらん限りの力でシェゾにしがみ付く。
「アルル、俺の首を掴め。腰を掴んでもあんまり上がらないぞ」
 姿勢を出来るだけ下げつつ、シェゾは言った。
 アルルは言うがままに首にかじりつく。
「しっかり掴まってろ」
 シェゾは、土が固いぎりぎりの位置でしゃがみこみ、アルルの腕の下に自分の腕をまわした。
「…よっ」
 力が込もる。
 少しの停滞の後、アルルはゆっくりと水面から足を出していった。
 密度の濃い泥は、簡単にはアルルを離さない。
「……」
 膝の下まで水面に出たところで、シェゾはアルルの足を見る。
「アルル」
 丁度口の横にアルルの耳がある。シェゾがそういうと、アルルは首をシェゾに向ける仕草で聞こえていると言う意思表示をする。
「どうやら、大丈夫だ」
 ナニが大丈夫なのかは、アルルはあえて考えない事にした。
「む…」
 そのままシェゾは、ずぶずぶと哀れな少女の足を沼から救い出す。
「…っと」
 そのまま抱きかかえてシェゾは立つ。アルルは、あらん限りの腕力でシェゾにしがみつき、決して足を見よう等とは思わない。ひたすらシェゾの首根っこにしがみついていた。
「ふむ」
シェゾは、顔をずらして宙ぶらりんのアルルの足を見る。粘着質の泥がまとわりつき、足はまだらに黒くなっている。
 そして。
「アルル、ブーツは諦めろ」
「…え?」
 青いソフトブーツは、哀れ沼のそこに埋まったままだったのだ。
「…う、うん…。勿体ないけど…そんなところに沈んだブーツなんて、絶対に履きたくないもん…」
 その心情は解らないでもない。
「解った。で、どうする?」
「…あのね、どこか、足洗えるところに連れて行って…ください」
 アルルは、万が一にも断られたり意地悪されない様に丁寧にお願いする。
「そうだな」
 シェゾもそこまで意地悪ではなかった。
 そして…。
「あ、あのね、シェゾ…」
 アルルがもじもじしながら言う。
「ん?」
「…あの、なにか、えっと…その、ね…」
 歯切れの悪いアルル。
「何だよ」
「あ、あの…。あのね、何か巻くモノ、貸していただけませんか…?」
「何で? 靴替わりか? 裸足なら、おんぶでもだっこでもしてやるぞ」
 その言葉はとても嬉しい。嬉しいのだが、少々意味が違う。
「…んと…ね、あの…ボクぅ…パ…パンツも、アウトにゃの…」
 アルルは、消え入りそうな声で耳元にささやいた。
 
 

 

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