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魔導物語R Naughty sprite
 
 
 
「わからん…」
 シェゾは草原に横臥しながら、幾度と無く答のない問答を繰り返していた。
 まるでそこだけが切り取られた絵の一部みたいな風景。
 そして。
「何がですか?」
 シェゾの横に絵が広がる。
 すると、彼のすぐ隣には一人の女性が座っていた。
 桃色のウエーブヘア。
 透き通る白い肌。
 その肌を柔らかく包むこれも雪の様に白いワンピース。
 そして、光を白く反射する美しい純白の羽。
 いや、根本はわずかに薄桃色をしたその羽。
 淡く、蒼い瞳がどこか気怠げに、そして優しく微笑んでいる。
「ハーピー、まだ何も思い出せないのか?」
「…はい」
 ほんの少し、ハーピーがうつむく。
「そうか。じゃ、そろそろ行くか。風が出てきた」
「はい」
 儚げに、そして柔らかに微笑むその笑顔。それは全て目の前の彼の為にある笑顔。
「……」
「何か言ったか?」
「あ、いえ。早く、元に戻るといいな…って」
「そうだな。俺の家までは、少し歩くぞ」
「はい」
 シェゾは珍しく笑顔を見せて言った。
「……」
 彼女は言えなかった。
 本当は、このままでもいいかな、と思ったとは。
 
 ハーピー。
 
 至上の歌姫。
 だが、今のハーピーは何かが違う。
「シェゾさん、いいお天気ですね」
 平原に風が吹き、雲はそれを追うかの様にゆっくりと空を泳ぐ。
「ああ…」
 そうだ。
 一つ、決定的に違う点がある。
「あ、ふふふ…。あの雲、なんだか鳥みたい…」
 
 喋っていた。
 
 ハーピーが、『喋っていた』。
 
 時は一刻ほど前に遡る。
 季節は初夏を迎え、そよ風が涼しくも暖かく感じる様になった。
 陽の下はもう、汗ばむ程だ。
 シェゾは森を歩いていた。
 ここは適度に日差しが遮られ、空気も涼しい。
 彼は、水辺で直接的に涼むよりもこういう場所で感覚的に涼む方が好きだった。
 それ自体が好きというのもあるし、装備を変えなくていいからいつ何が起きても迅速な対処が出来ると言う、無粋な理由も兼ねる。
 だが、まぁそれは二次的な理由として彼は単純に涼しげな森が好きだった。
 そしてきっと、意識はしていないだろうがもう一つ理由がある筈だ。
 
 この桜の森には、歌姫がいるから。
 
 彼は、どこかでそれをきっと意識している筈だ。
 だから耳を澄ましたくなるのだ。
 どこかで、声なき歌声が聞こえるかもしれないから。
「……」
 だが、実際の所彼は最近それを聞いていない。
 別に森に行く必要も理由もない。
 特に奥に行く用も理由もない。
 彼女の家は知っているが、何故自分が行かなくてはならないのか、その理由も、意図も、何もない。
 何か無いか?
 シェゾはうーん、と考えながら散歩していた。
 ここまで意識しているくせに意識していない等とは、もはやうぶを通り越して鈍いの領域に入るが、とにかくシェゾは自分は意識していないんだ、とそれを『意識して』森を歩いていた。
「……」
 やがて彼は森の中の水辺に出た。
 風は無い。
 水面は鏡の様に正確に空と周囲を映し出し、まるで同じ世界がもうひとつその場に存在するかの様だった。
 円に近いその湖はまさしくもう一つの世界。
 しんとした湖面は、その存在自体を本当かどうか怪しげで不安定なものにしてしまう。
 音もなく、動きもない世界。
 それがこれ程に不安だとはなかなか気付けまい。
 おかしい。
 流石に彼もそう思い始める。
 ここは既に人の領域を離れた場所。
 そしてそこからこそが、彼女の領域の始まりなのだ。
 だが、それがおかしい。
 シェゾは何か妙に違和感を覚える森に疑問を抱かざるをえなかった。
 人の領域を離れても尚、その領域に入った気がしない。
 そして、そんな疑問の時間は意外に早く終わりを告げる。
「あ、シェゾ…さん?」
 彼は声を聞いた。
 木の枝の上。そこから彼は呼びかけられた。
 どこか、不安げな声で。
「…ハーピー?」
 シェゾは少しの間悩んだ。
 声の方向を見る。
 まず目に見えたのは白い足。
 そよそよと風になびく柔らかなワンピースの裾。
 そして、同じく白い腕、涼しげな胸元。
 美しく、そしてどこか幼げな微笑みを浮かべるハーピーの顔と、それを包むピンクのウエーブヘア。
 その姿も、笑顔も、『声』も、間違いなく本人だ。
 だが、唯一にして最大の相違点がある。
「いいお天気ですね」
「ああ…」
 
 その『声』。
 
 それは確かに歌う時に聞くその声だ。
 つまり、本物。
 だが、普通に喋れていた。
「……」
 歌以外で直接耳に響くそれは、唄う時と同じ美しい声だ。
 が、あの感覚はない。
 あの、ハーピーの魔性たる所以の、凶暴な程に美しいあの波動が。
「シェゾさん」
「何だ」
 とりあえず応じる。
 ハーピーは枝からふわりと舞い降り、シェゾの前に立つ。
「聞いてもよろしいですか?」
「ああ」
 ハーピーは少々ためらってから、シェゾの瞳を見て言う。
「私の家、どこでしたかしら?」
「…何?」
 シェゾは一瞬呆けてしまった。
 
「おじゃまします…」
 ハーピーは恐る恐る、しかし興味深そうにその敷居をくぐった。
「ああ」
 そこはシェゾの家。
 誰かに言わせればこの光景、ひよこを狼の巣に放り込むのかと、失礼な事をのたまうだろう。
「…何か、ここに来た事…あるような気が…」
「そこらは何となく覚えているか」
 ハーピーはきょろきょろと周囲を見渡して、あれこれ思い出そうとしている。
「私、ここにも住んでいました?」
「いや…それはない」
「うーん…でも、不思議…。どうしてこんなに落ち着くのかしら…」
「……」
 シェゾは記憶をたどる糸口となるやも知れぬとは思いつつも、その切り口としてそれは果たして適切なのだろうか? と少し悩んでいた。
 最初はもちろんハーピーの家に連れて行こうとした。
 だが、何故か森の奥へ行こうとすると彼女は妙に怖がり始めた。
 本来は彼女の領域と言っても良いその空間を彼女は頑なに拒む。
 聞くと、まず気が付いて目が覚めた。そして、それから森の奥へ行こうとするとどうしても足が進まなかったと言う。
 それでハーピーはあの場所にたたずむしか出来なかったのだと言う。
 自分が見てくる、と言うと今度は一人にするなと言うので、シェゾはもう仕方ないと言う事で自分の家に来るか、と問う。
 するとハーピーは二つ返事で即答し、今に至る事となる。
 記憶はないくせに、その男に付いていく事は不安が無かったらしい。
「で、どういう恐怖心だ?」
「ええ…何て言ったらいいのか…何か、自分が引きずり込まれそうになるって言う感じだと思います…」
「ふむ」
 二人はソファーに座ってとりあえずの会話を始める。
 ハーピーの『声』が無いから森がおかしいと思っていたが、どうやら逆に森の奥に感じるというその気配が関係してこうなったのかも知れない。
 だとすれば、ハーピーが記憶を無くし、能力を失ったのにも関係している可能性が高くなる。
 そして、ハーピーはそれに本能的に恐怖している、と。
 つじつまは合う。
「……」
 だが、それ程の物ならば自分にも何か感じられる筈だ。
 そういう『力』、ではないのか?
 シェゾはいまいち姿が見えない『それ』に悩み、天井を見上げて考えていた。
「シェゾさん」
「…ん?」
 ふと声の方を見ると、先程までクッションを挟んで座っていた筈のハーピーがすぐ隣りまで寄っていた。
「…あの…」
 ハーピーはすがる様な瞳でシェゾを見る。
「どうした」
「…寒いです」
「……」
 気温は低くない。
「寒いか?」
「はい…」
 元から布を被っているだけみたいな服装のハーピーだ。
 それにここは山の上でもある。
 まぁ、そう言う時もあるか、とシェゾは厚めの毛布をハーピーにかぶせた。
 毛足の長い毛布なので、まるでピンクの猫がくるまっているみたいにも見える。
 どこかおどおどした風にも見える瞳でシーツにくるまる彼女は、見た目も手伝って一層その儚げな雰囲気を引き立てた。
 何というか、小動物に通じる可愛さが溢れんばかりににじみ出る。
 失礼な物言いだが、猫やハムスターに通じる可愛さかも知れない。
「どうだ?」
「…少し、良くなりました」
 少し?
 この毛布は保温性がいい。
 毛足も長く柔らかだから触れた感触もいいし、下手をすると汗ばむくらいなのだ。
「大丈夫か? お前…」
 シェゾは毛糸みたいに細く、そして柔らかなピンクの髪をどけ、猫の額みたいなハーピーのおでこを触る。
「……」
 ハーピーはその瞳でシェゾを見つめた。
 少し、熱がある。
 いや違う。
 これは火照りだ。
「ハーピー?」
 シェゾは彼女の顔を見る。
 ハーピーもシェゾの顔を見ている。
「シェゾさん…」
 ハーピーはそっとシェゾに抱きついた。
 鼻に、ふわりと彼女が香ってくる。
 ハーピーの髪は、まるで媚薬みたいな香りを放っていた。
「寂しいんです…とても…寒いんです…」
 その声には潤みがある。
「お前…」
 ハーピーは申し訳程度の握力でシェゾの腕を掴む。
 抱いたら壊れてしまいそうなその細い肩を、シェゾは抱いた。
「ん…」
 自然に甘い声が漏れる。
「寒いのか?」
「寒いです…」
 上目遣いで見つめるその瞳。
 シェゾはその瞳に吸い込まれそうだった。
 どうやら、ハーピーの魔力は消えたどころか、むしろある意味強まっているとさえ言えるらしい。
 くい、とシェゾはその体を抱き寄せる。
 ハーピーの体はろくに力も入れずにシェゾの胸に納まった。
「……」
 ハーピーが胸に顔を埋めたままで目を瞑る。
 その頬は見て解る程に真っ赤だ。
「どうした?」
「あ、あの…わた、わ…」
 ろれつの回らないハーピー。
 シェゾはそんなハーピーを胸に寄せ、より深く、ゆっくりと強く抱いた。
 こんな時にこれ以上女にものを言わせる程朴念仁ではない。
 節操なしと言われようが何と言われようが、そこは譲れない。
 抱かれたハーピーのその感触を感じてシェゾは思う。
 線が細いってのは、まさしくこういうのを言うんだな、と。
 幼いのとも違う。
 痩せているのとも違う。
 細い。
 それ以外の形容を思いつかない。
 そして、その抱き心地はすこぶる良かった。
 少しの間、そのままの姿勢で時が止まる。
 ハーピーが喋るその瞬間まで。
「シェゾさん…」
「ん」
「あの、私…なんにも恐く…ないです…から…」
 申し訳程度に顔を上げ、ハーピーは目を瞑る。
 シェゾは彼女のあごをそっと持ち上げた。
 微かな震えが、人形の様に長いまつげから、体の鼓動から伝わる。
 ほんの僅かな停滞。
 そして。
「ん…」
 桜の花びらのような小さな唇。
 それがたった今、誰かの所有物となった。
 もっとも、それはどちらのがどちらのになったのかは正直よく分からない。
 それほどまでに甘美で危険な口づけだった。
 シェゾは何かが体に流れたような感覚を覚えた。
 それはゆっくりと、確実に鋼の理性を溶かしてゆく。
 ハーピーも同じだった。
 唇から流れる甘美な、そして恥ずかしい筈の淫靡な感覚が、脳天からつま先まで絶える事なく往復する。
 その細い体に満たされる不可思議な感覚は、彼女をともすれば気絶させてしまいそうな程に強力に支配する。
 事実、彼がその柔らかな唇をそっと甘噛みすると、ハーピーはびくり、とその身を震わせた。
 そしてその感覚はあまりにも、悪魔的な程に魅惑的。
 ハーピーは力の入らない両の手を必死に動かし、シェゾの背中に回す。
「ぅん…」
 切ない声が漏れる。
 ゆっくりとお互いの唇が浅く、深く戯れる。
 その度にハーピーは深く溜息を漏らし、その体を熱く火照らせていた。
 やがてハーピーは自然に、そして必然的にシェゾの唇に舌を忍ばせようとする。
 自分自身でも信じられないと思った気がした。
 だが、体は間違いなく欲していた。
 彼を。
 彼の全てを。
 小さな口から、小さな舌がシェゾの唇に触れた。
 静かに何かが目を覚ます。
 自分はこの感覚を知っている。
 ハーピーはそれだけは確信できた。
 そして、自分の知っている事があったのと、それはこんな心地よい感覚であったことが嬉しくて仕方がなかった。
 熱く、深い深い口づけは何十分も続いたかに思えた。
 実際そうだったかもしれない。
 やがて、飽きた訳でもないが、お互いがお互いの顔を見たくなった。
 ふっとその唇が離れる。
 シェゾが見たハーピーは、眠たい様なとろんとしたまなこが印象的だった。
「あの…」
「ん?」
「もしかして、寝室ってあっちですか?」
 ハーピーが目を向けた方向。
 確かにその先には彼の寝室がある。
「…思い出したのか?」
「それだけ、なんとなく…分かる様な気がして」
 ハーピーは自分で言って恥ずかしそうにうつむく。
「……」
 そういう事から思い出すなよ。
 と言うかわりに、シェゾはもう一度ハーピーにキスをした。
 
「ん…」
 小さな、苦しそうな、心地よさげな声がそっと響く。
 こういう時でも彼は無意識に相手を観察する癖がある。
 たとえば、所謂有翼種に属するハーピーの場合、無論人には無い羽があるので、当然そこにも神経がある。
 そっと、手を羽の根本の柔らかな羽毛に滑らせる。
「あ…!」
 ハーピーはびくりと身をそらす。
 流石にここの感覚は今も同じか。
 シェゾは何故かそんなどうでもいい筈の事に安心した。
 そして更にそこをゆっくりとなぜると、ハーピーはたまらず先程より大きな声を漏らし、そしてハッとして慌てて口を押さえた。
 だが、体はそれで収まる訳もなく、彼女は先程から収まったままの彼の胸の上で震えながら声を押し殺す。
 シェゾはそんなハーピーを見て言う。
「今は、いいんだぜ。声を出しても」
「…!」
 ハーピーははっとしてシェゾを見る。
「癖になってるんだな。そんな声ですら出さないように、って…」
「わ、私…万が一って思うと、いつも、怖かったんです…」
 ハーピーは、ふっと気が緩んだのかぽたりと涙をシェゾの胸にこぼした。
「今は…声、我慢しなくてもいいんですね…」
「ああ」
「シェゾさんの名前、呼んでもいいんですね…」
「ああ」
 ハーピーは改めて実感したその事実に今頃震えた。
「…シェゾさん」
 シェゾはハーピーを見て、ふっと微笑む。
「シェゾさん…シェゾさん」
 唄う様に彼の名を呼び、ハーピーはその胸に身を預けた。
「たくさん、名前呼ばせてください…」
「ああ」
「名前を、声を、我慢しなくていいなら…たくさん、呼ばせてください…」
 その細腕がシェゾを抱きしめる。
「ああ…」
 それはどういう意味か、とシェゾの方が戸惑った。
 そんな事を考えている間に、ハーピーは彼の胸の中からよいしょ、と抜け出してその躯でシェゾにのしかかる。
「重く、ないですか?」
「いや…」
 まるで重くはない。
 重い筈がない。
 だが、その存在感はしっかりと感じる。
 窓から差し込む月明かりが彼女の躯を照らし、その美しいラインを露わにする。
 シェゾのみが知るヴィーナスの躯。
 美の黄金比とは、こういうものを言うのだろうか。
 しかも、絵画や彫像とは違い、自分の目の前どころか自分の胸に納まっている。
 この一瞬の動き、一瞬の声が全て、至高の芸術だ。
「シェゾ…さ…ん…」
 ふと、握り合っていた手に力がこもった。
 たどたどしくその躯をシェゾに落とし、ハーピーはその瞬間、息がとまりそうになる感覚を脳天まで貫かせた。
 視界がぱぁっと銀色の太陽に包まれ、そのえも言われぬ感覚は彼女の頭のどこかで、前にもあった、と微かにその甘い記憶を呼び覚ます。
 少しの間、今の自分を確認するかの様にハーピーは停滞する。
 やがてその身は恐る恐る動いた。瞬間、月明かりに照らされた躯がのけぞり、羽がぴくりと小さく羽ばたく。
 ハーピーはその身を貫く絶対的な快楽的刺激と、ほんの微かに残った羞恥心で脳を満たしていた。
 シェゾは、震えながら自分の手を握る細い指を握り返す。
 それだけでハーピーは自分がどうにかなりそうだった。
 Eros。
 その言葉の意味を、シェゾは視覚、感覚、他あらゆる感覚で満たしていた。
 誰も見る者は居ない。
 だが、唯一窓から覗く月だけがそれを見ていた。
 月明かりは、その肢体を水晶の如く煌めかせる。
 シェゾを持ってして、その姿と感覚におぼれてしまいそうな、そんな夜だった。
 
 朝日が彼の頬をたたく。
「……」
 シェゾは心地よい気怠さの中から自分を見つけだし、実に残念そうに目を開けた。
 腕には、申し訳程度の重さが感じられる。
 それは他の誰でもない。
 彼の腕枕で眠るハーピー。
 ふと昨夜を思い出す。
 多分、昨日一晩で一年分くらいは名前呼ばれたな。
 彼は口元がどうしても緩んでしまう自分を感じていた。
 そしてそのまま、彼はハーピーが目を覚ますまでの間、心地よいまどろみとほんのちょっとの考え事をして過ごすのだった。
 少しして、ハーピーの体がぴくり、と動いた。
「…ん…」
 ぼーっとした顔でハーピーの瞳が開かれる。
「…シェゾさん」
 第一声はそれだった。
 寝ぼけているのかも知れない。
 ハーピーはシェゾの顔を見るや否や、磁石みたいに彼の唇に唇を重ねる。
「ん…」
 暫くの後、唇が離れた。
「モーニングキスにしちゃ、長いな」
「……」
 そんなシェゾの瞳を愛おしそうに見つめつつ、ハーピーはそれには応えずシェゾの胸に再び納まる。
 やっぱり低血圧なのな。
 シェゾは眠って体温が上がっている筈なのに、それでも尚やんわりと冷たいハーピーの肩を抱いた。
 そして、そんなハーピーをシェゾはふっと真摯な瞳で見る。
「……」
 シェゾは少し表情を曇らせ、ハーピーを強く抱いた。
 
 昼も近くなり、二人は遅めの朝食をとる。
「あ…ふ…」
 彼女がすると、あくびもひどくスローに聞こえる。
 ぽーっとしたままで気怠げに食事をとる彼女。
 普通なら、らしいと言える。
 だが、今の彼女は彼の目には明らかに違う。
「……」
 カチャリ、とフォークが落ちた。
「…あ、すいません…」
 ハーピーは、緩慢な動作でそれを拾おうとする。
 しかし、何故か彼女は椅子からそのままずるりと滑り落ちてしまった。
 本来なら、かかりっぱなしみたいなものである浮遊魔導によってそれはゆっくりとになる筈だ。
 が、ハーピーは普通にずるり、と椅子から滑り落ちた。
「あら…?」
 ハーピーは不思議そうに立ち上がる。
 普通なら、その名の通り羽が落ちるみたいにゆっくりと舞い降りられる筈なのだ。
 シェゾは立ち上がり、素早くハーピーを抱き起こす。
「やっぱり、な」
「…え?」
 シェゾはそのまま外に出る。
「シェゾさん…?」
「森に行くぞ」
「……」
 不思議そうな顔のハーピー。
「このままじゃ、お前が危なくなる」
 シェゾは森へ急いだ。
「あの…どうして?」
 そうだな、とシェゾは説明する。
「お前、今飛べるか?」
「え?」
 シェゾはハーピーを下ろしてとりあえず飛んでみろ、と促す。
 ハーピーはいつもの様にしようとして、そして驚く。
 彼女の足が地面から離れなかった。
「…! どうして…」
「『声』だけじゃない。お前の魔導力自体が弱くなっている。このままじゃ、多分魔導力が無くなっちまうぞ」
「…そうなると、どうなるんですか?」
「多分、その羽は飾りになる」
「……」
「命どうこうは無いだろうが、人間と違って魔導力を持つのが前提の体だ。感覚的にも、色々不便になると思うぞ。実際体力とか感覚がもう衰え始めている様だ」
「…このままだと、もっとそうなるんですか?」
「まず間違いなく、な」
 シェゾは昨日から時折ハーピーの魔導力を確認していた。
 そして、時を追う毎に確実に弱まるそれを感じ取り、憂いていたのだ。
 最悪、魔導力だけならまだ良かった。だが、魔導力が一定水準以下に落ちてから、体力的、感覚的な部分にも衰えの兆候が見え始めた。
 最早、シェゾがやるべき事は決まった。
「……」
「行くぞ」
「は、はい」
 シェゾは再びハーピーを抱き上げると森へ向かった。
 
 ハーピーが住む森。
 やはり彼女はある場所以降へ行くのを躊躇したが、シェゾはどんどん進んでしまう。
 何より抱かれているのだから彼女には手の打ちようがない。
「珍しいケースだろう」
「え?」
「普通、ああいった手合いがいたずらするのは人間相手なんだがな」
 シェゾは、彼女の住む巨木と蔦が無数に絡まり合ったそのコロニーへ辿り着く。
「…何か、居ます」
「それが原因だ。奴らが、お前の住処を奪う為にこうしたのかも知れない」
「やつら?」
 ふと、シェゾの表情が厳しくなる。
 ハーピーはそれを見て一瞬心臓が鼓動を早めた。
 ハーピーを下ろし、少し下がれ、と言う。
「……」
 彼女は従う。
 彼の持つもう一面を見たから。
 いつの間にか、彼の手には闇の剣が握られている。
 平等に、それにふれた物の命を奪うその剣がらん、と光る。
 巨木から、ざわりと嫌な気が流れ落ちてきた。
「多分、凶暴化した亜種、か。稀にだが、たまにいるな…」
 その視線の先。
 巨木の頂上あたりからふっと小さな人影が七つ、螺旋を描きながら落ちてきた。
 シェゾめがけて。
 彼も迎える様にして飛ぶ。
 相手がどう考えているかは知らないが、何にせよ無謀な事だ。
 闇の魔導士に食ってかかるなど。
 己の持つ技を全て繰り出しているであろう影。
 クリスタルの剣が一閃する。
 シェゾはそれと交差した瞬間に、全てを無造作に終わらせていた。
 七つの影は、地面に落ちるとそのまま砂の様に崩壊して消える。
 と、その瞬間、森が膨張した様な感覚が二人を襲った。
「!」
「あっ!」
 ハーピーが頭を押さえる。
 森の守護神とでも言うべき巨木が、ぐん、と振動した。
 鳥や獣がそれを感じて大慌てで空に地面に飛び出し、ほんの僅かの間だが周囲は騒然とした。
 やがて、森は静けさを取り戻す。
 頭を押さえていたハーピーも頭を上げた。
「…結界、みたいなのが消えたな…」
 シェゾはハーピーをみて、ふう、と安堵のため息を漏らした。
 彼女がシェゾの名を呼ぼうとする。
 シェゾがそっとその口を押さえた。
「喋らなくていい。『話して』みろ」
「…!」
 ハーピーは全てを悟った。
 
 …戻ったんですね。戻って、しまっ…。
 
 彼女の声がシェゾに『聞こえる』。
 今は、とても寂しげなその声が。
「ああ。妖精のいたずら…って奴さ。特殊なお前の力を、あの七匹で封じていたんだろう。意味は…あるかもしれない。無いかもしれない」
 今となっては理由を知る由もない。
 見た感じは、ホッブのたぐいに見えた。
 だが、それはどうでもいい事。
 …また、話せなく…。シェゾさんの名前を…呼べない…。
 ハーピーは、自分の『力』が戻った事などどうでもいい、とでも言いたげに深く深く沈んでいた。
 ごめん…なさい。感謝しなくてはいけないのに…私…。
 座り込んだハーピーの手に、大粒の涙がこぼれた。
 シェゾはハーピーの手を取る。
 シェゾさん…。
 そのままハーピーを抱きあげ、彼女の住む巨木の頂上へ向かった。
 巨木の中では既にいつもと変わらない鳥や小動物の出迎えが待っていた。
 特にハーピーが元に戻っていると分かるのか、その出迎えはいつもより騒々しい。
 …ただいま、みんな。
 ハーピーは力無くも微笑み、応える。
 鳥達は色とりどりの鳴き声でそれに応えた。
「まだ、完全じゃない。今日は休め」
 ハーピーの部屋。
 シェゾはハーピーを横たえるとそう言った。
 ……。
 泣きそうな顔のハーピー。
 その瞳は、行かないでと言っている様だった。
 シェゾはその頬を撫でて言う。
「名前を呼びたくなったら、呼べばいい。無理をするな」
 でも…。
「俺は、平気だ。違うか?」
 また…名前を、呼んでも…いいのですか?
「俺は、お前の声が好きだ」
 シェゾはハーピーに唇を重ねた。
 何も変わらない、と言う代わりに。
『……』
 その重なったままの唇から、小さな小さな声が聞こえる。
 シェゾには聞こえた。
 応える代わりにもう一度深く口づけを交わし、そして彼は去っていった。
 
『シェゾさん…』
 
 彼が居なくなってから、ハーピーはもう一度、声に出してその名を呟いた。
 本当に呟いただけなのに、周囲の鳥達がそれに反応してざわめく。空気がざぁっと揺れ、森がかすかに波を打った。
 ……。
 ハーピーは、本当に自分の力が戻ったのだ、と改めて実感した。
 自分の『声』が戻ったのだ、と。
 それから何時間程彼女は呆けていたのだろう。
 外はいつの間にか月明かりに照らされ、時折梟の声が聞こえていた。
 ふとハーピーは立ち上がり、窓みたいに口を開けた木の洞から外を見る。
 あの人は、私がどうあっても、変わらない…。
 未だに体に残る彼の感触。
 暖かく、力強く、そして優しいそれ。
 
 あの人は、同じ空を見てくれている。
 
 私の声を、聞いてくれる。
 
 私は、独りじゃない…。
 
 ハーピーはその胸が幸せに満たされるのが分かった。
 すぅ、と息を吸う。
 木々が、鳥が、ざわめきが、潮が引くみたいに静まる。
 聞きたいから。
 一語でも残さず聞きたいから。
 森は、たった一人の歌姫の為に音を消した。
 
 そして、歌が森に響き始める。
 
 木々が、鳥が、動物が、うっとりと一斉に溜息をついた様な気がする。
 その森は今、世界で一番幸福な森と化した。
 月すらも見とれるその姿と歌声。
 太陽すら羨むその輝き。
 それは幸福の歌。
 それは幸せの歌。
 それは喜びの歌。
  
 森が、歌声に包まれる。
 
 それは、たった一人の男へ送られる歌。
 
 美しき歌姫は歌い続ける。
 
 愛の歌を。
 
 
  Naughty sprite 完
 

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